二章 皐月の帰路に朧雲

二章一話 玉屑


 快晴の午後16時過ぎ。慎之介は週に三回訪れている病院まで来ていた。学校でホームルームが終了してすぐに自転車を飛ばすこと約15分、半ば日課のようになっている道のりを少しだけ暑く感じ、季節の移ろいを知る。


「まだ五月だってのになあ……」


 不満げに独り言ちる。眼前にそびえ立つ病院は、彼の母親が入院しているところだった。もうかれこれ1年以上病室で過ごす母親の見舞い――中学時代はバレー部で活躍していた慎之介が高校で帰宅部になった、ただ一つの理由である。

 汗が出るか微妙なラインの蒸し暑さを肌に感じながら自転車を置き、建物の入り口へ向かう。入り口前まで辿り着くと、見知った人物と遭遇した。


「あ、氷室……さん? 高校生だよな。何年?」

「……何か御用でしょうか。一年です」

「そこは答えてくれるのね」


 氷室沙凪――数週間前に謎のメッセージを受け取り、丁花公園に訪れたうちの一人だ。手入れの行き届いていそうな薄緑の髪が微風に揺られている。彼女は両の翠眼で慎之介をじっと捉え、最低限の言葉だけ返してきた。


 メッセージを受け取った五人の中で唯一学校が異なる彼女は、冷淡な喋り方と凛然とした佇まい、そして伊吹や慎之介に非協力的な態度以外のほとんどが謎に包まれている。しかし律儀に返答してくれたので、同年代であることは明かされた。


「用はないよ。今日会ったのはマジの偶然。だからそんな警戒するなって」

「……でしたら、通ってもよろしいですか?」

「俺のことなんだと思ってんだよ、目があったらバトル始まるタイプ?」


 冗談交じりに返すが沙凪は表情を一切変えず、綺麗な姿勢を維持したまま見据えてくる。彼女と顔を合わせるのはこれで三度目だ。一度目は全員が集まった公園、二度目は伊吹の代打で接触を図った連休前、そして今日が三度目。相変わらず、歓迎されている様子はない。


 前回は「ろくに接点もないのに馴れ馴れしくしないでください」と一蹴され、ほぼ会話もなしに立ち去られてしまった。今回は狙って出会ったわけではないのだが、関わること自体に嫌悪感を抱かれているのは間違いない――あの誰とでも仲良くなれそうな伊吹ですら、二回接触して二回とも跳ねのけられているほどだ。


(あんまり回数重ねすぎると、どうなるか分かったもんじゃないな)


 彼女の事情は知らないが、伊吹と慎之介のどちらかが沙凪への接触を繰り返していると、いつか通報でもされそうな予感がする。遭遇できる唯一のスポットが病院なのだが、ここで騒がれると利用者である慎之介としては困るのだ。


「……? どうかしましたか」

「ん? あー、すまん。考え事。さっき言った通り偶然だから、気にしないでくれ」

「そうですか。……あの、一つ伺いたいのですが」

「お……なんだ?」


 静止したままの沙凪を目の前に今後のことを考えていると、意外にも彼女の方から声を掛けられた。用はない、と言った以上すぐに立ち去られるものだと思っていたのだが、そうでもないらしい。

 彼女は黒い制服の胸元に手を置いて感情の乗らない声で続けた。


「……朱島、さんもですが。……貴方も、叶えたい願いがあるから……私に関わろうとするのですか?」


 やや躊躇いを感じる言葉の途切れ方。表情こそ一切の変化がないのだが、彼女なりにあのメッセージに対して考えていることはあるのだろう。慎之介は親指を立てて返した。


「勿論! って即答すると欲まみれって感じで嫌な印象になりそうだけど……実際、藁にも縋る思いだったからな。叶うなら是非ともって感じだ」

「藁にも……。分かりました」


 沙凪は胸元に当てた手を離し、目線を下に落として口を閉ざした。それから数秒ほど経過したのち、再び慎之介に目を向ける。


「私の願いは、それほどまで重要なものではありません。具体的に何をしようとしているのか知りませんが……やはり、協力するに値しない話ですね」

「あれ、今そういう流れだった?」


 興味を示したのかと思ったが違うらしい。彼女は言いたいことを口にし終えると、「失礼します」と丁寧に一礼して病院の中へ入ってしまった。取り残された慎之介は後頭部を掻きつつ、去り際の言葉を反芻する。


「……“具体的に何をしようとしているのか”……ね」


 各々に届いた文面には胸中を勝手に暴く以外の効力はなく、集まらなければならなくなるような展開も強制力もどこにもない。それまで接点のなかった五人の男女は、あの日以降一度も全員で集まったことはなかった。

 目的も未来も定まっていない。協力するに値しない、と言われれば言い返せなくなる。


「難儀だな、色々」


 なんとなく遠回りするような感覚で、入り口前のスロープを進みながら呟く。当面の目標はもう一度全員で集まって話し合いをすることだと思うし、それを成し遂げるためには沙凪のあの態度をなんとかしなくてはならない。

 正直通報されるまで秒読みな気もするのだが――なりふり構っていられる状況ではなかった。彼の願いは、多少の危険を無視してでも叶えたいものなのだから。




 ◇◇◇




 駅の近くの大きな書店は、平日の夕方ということもあってそれなりに人の姿が見られた。伊吹は小説の話題作コーナーを上から下まで眺め、最も興味を惹かれたものに手を伸ばす。本に手が届くより前に隣の客と指先同士が触れ合ってしまい、反射的に顔を上げた。


「ごめんなさ――あ、氷室さんだ」

「……6回目。まさかずっと尾行しているんですか?」

「誤解だよ!? 今日は本当に偶然だから」


 若干溜め息混じりに言われた気がする。伊吹は伸ばしていた手を引っ込めて、仏頂面の沙凪に微笑みかけた。


「えっと、こんにちは……夕方の挨拶ってなんだろ? こんばんは、だと早いよね」

「……お好きなように」


 顔を合わせることはなく、そのまま呟かれる。

 こうして会話するだけで嫌がられているようにしか見えないのだが、願いのためには彼女と仲良くなることも必要不可欠なため、気にせず話を続ける。


「氷室さんもこの本買うの? 面白そうだよねー、わたし映画予告見てからずーっと気になってて。公開前に原作読んでみようかなって思ってたの」

「私は別に買うつもりで手を伸ばしたわけではありません。裏表紙に目を通したかっただけです」

「あっ、そうなんだ。どうぞどうぞお構いなく」


 手のひらを素早く動かして本を取るよう促すと、沙凪は渋々手を伸ばして積まれた一冊を取った。『キミの命を孤独に吐いて』というタイトルのそれは、話題作らしい帯を纏って強い存在感を放っている。


「……」


 裏表紙を静かに見つめる沙凪。規模の小さな書店に比べ、複合施設内にあるこの場所は閑散とした空気があまりない。そんな中で折り目正しく制服を着込んだ少女が、美しい佇まいで存在している光景はなかなか絵になる。

 静謐、凛として咲いた一輪の花のよう。揃ったローファーと伸びた背筋。どこを切り取っても秀麗だ。


「面白そうじゃない?」

「……そうですね。こういった読み物には疎いのですが……興味は惹かれました」

「……へー?」

「何ですか。私の発言におかしなところがありましたか」


 一定のラインを越えない声音で淡々と返されるが、伊吹は口元を緩めて微笑みながら左右に小さく揺れる。


「んーん、意外とおしゃべり付き合ってくれるんだなー、と思って」

「私のことをなんだと思っているんですか。会話くらい誰でも……できます」


 語調が少しずつ弱くなっていく気がしたが、沙凪は伊吹が反応するより前に本を元あった場所に戻した。


「あれ、買わないの?」

「元々買うつもりはありませんでしたから。申し上げた通り、こういった読み物には疎いので」


 先の言葉を復唱され、「こういったもの」の意味を確認するべく今度は伊吹が本を手に取る。タイトルは悲壮感が漂うものだが、話題作と謳われるとそれの括りは恋愛小説だ。裏表紙に書かれている内容紹介では、人間不信の少女が機械生命体の少年と出会って命の大切さを理解していくような内容をざっくりと書かれている。


「疎いって、恋愛小説に?」

「……」


 本のデザインをまじまじと見つめながら言う。返答はなく沈黙が漂ってきた。伊吹は目を輝かせて沙凪に詰め寄る。距離が近くなり、動揺したのか薄緑色の髪がさらりと揺れた。


「恋愛小説、興味あるんだ?」

「……あの、興味というか……近いです」

「わたし、恋愛ものがすっごい好きなの。もし興味あるなら色々おススメしたいんだけど!」

「結構です。それと、少し会話したくらいで馴れ馴れしくしないでください」


 沙凪は詰められた距離の分だけ後退し、淡々とした口調のまま伊吹を拒絶する。会話しているときに感情の変化がほとんどないため、今彼女が何を考えているのかがよく分からない。


「面白そう、と思っただけです。それと……もう何度目かになりますが。私に関わらないでください」


 そして念を押すように言い放ち、彼女は踵を返して書店から出ていってしまった。拒絶されずに会話が弾んだように思えて浮かれかけたが、やはり仲良くなるには一筋縄ではいかないようだ。


「……茉莉花ちゃんと仲良くなったのも最近だもんね。よし、頑張ろ!」


 俄然やる気が出てきた、と言わんばかりに姿勢を正す。本を持たない方の手を握り締めようとして、まだ包帯が巻かれていることを思い出してやめた。




 ◇◇◇




 

 連休明けから一週間ほど経った、ある日の昼休み。桜の代わりに緑が生い茂っている窓の外をぼんやりと眺めながら、伊吹はサンドイッチを食していた。


(どうしよっかなー……皆で一回集まって、話した方がいいよねー……)


 最近は願いがどうすれば叶うのかばかり考えている気がする。お告げを受けたときから待ち焦がれていた4月21日はとうに過ぎ去り、五月初めの連休も終わった。茉莉花の恋を応援したり誤解が生じたり、ストーカー被害に遭ったりと様々なことがあったが、あの日以降は平穏な日々を過ごしていた。


 天下泰平。穏やかな日常に身を任せるうちに、「次にすべきこと」が頭の中で浮かび始めている。一人ずつ仲を深めていくのは勿論なのだが、茉莉花の願いが“意中のメインヒロインになる”ことだと判明した以上――全員の願いを確認する必要もある気がしてならなかった。


「……手作り? それ」


 向かい合って弁当を広げる茉莉花に聞かれ、思考を消して視線を窓から教室へと戻す。彼女の弁当は味や栄養のバランスに配慮したものだった。


「ふん、へふふひ」

「食べ終わってから喋ってくれる?」

「おいおい、自分から聞いておいてそれはないって。まっちゃん」


 購買のパンを食べていた鈴蘭が目を細めて言う。既に食べきってしまったようで、片手には空になった袋が握られていた。

 茉莉花はその言葉に怪訝な顔をする。


「その……まっちゃん? って何。あたし?」

「他に誰がいるんだよ、ウチがそう呼ぶって決めたから。よろしく!」

「いや、別になんでもいいけど……」


 ややぎこちない様子で会話する茉莉花。鈴蘭と話し始めたのはつい最近のことで、距離感が近い彼女にはまだ慣れていないようだった。

 サンドイッチを一つ食べ終えた伊吹は、そこでようやく会話に参加する。


「……ごめんね、手作りだよ! 茉莉花ちゃんも一個食べる?」

「あっズル! ズルすぎ大明神だ!」

「誰がズルすぎ大明神か。あんたはさっき貰ってたでしょうが」


 呆れた表情を鈴蘭に向けながら、茉莉花は差し出されたサンドイッチを受け取った。

 連休最終日から翌日の出来事を経て、彼女は伊吹と鈴蘭と一緒に昼食をとる程度の仲になっている。前に比べると態度も軟化されており、最近は他の生徒たちからも少しずつ話し掛けられるようになっていた。

 しかし――と彼女は疑問を投げるように眉を顰める。


「なんであんたたちは、あたしの席で食べてんのよ。他の友達はいいの?」

「今までは一緒だったんだけど、他クラスで食べることが多くて。わたしは自分のクラスが一番落ち着くから、だったら茉莉花ちゃんのところに行こうかなって」

「ウチはいーちゃんがいればどこでもいい」

「そうですか……」


 雑な返事をしているが、照れくさそうに目を逸らしている。伊吹はそれを微笑ましく眺めながら次のサンドイッチを手に取った。デザート用、フルーツがふんだんに詰め込まれた一品だ。


「そんなわけで、そのうち三人でも遊びにいこーな! ウチもゲーセン一緒に行きたい!」

「あの時はあんたが伊吹を連れてったんでしょ……というか、遊ぶのはいいけどその前にやることがあるでしょ」

「……」


 喜色満面だった鈴蘭の顔は菩薩みたいになった。


「ああね。家を守るからヤモリ、井戸を守るからイモリって言うからねえ」

「何の話よ。中間テストにそんな問題あんの?」


 中間テスト――厳かな響きをもったそれを出された途端、桃色の少女は痙攣しながら机に突っ伏した。


「終わった――」

「すずちゃん諦め早すぎだよ、一緒にがんばろ!」

「うう……勉強したくないよ~! 助けてイブえもん~!」


 突っ伏したまま子どもみたいな駄々のこね方をする。伊吹は慈しみに満ちた表情で彼女の頭を撫で、団子を掴んで揉み始めた。特に意味はない。


「あれ、茉莉花ちゃんスマホケースは?」

「外した。あいつが変なの買ったから……恥ずかしくて」

「いやウチのこと助けてよ! 全然違う会話してる!」


 本体が剥き出しになったスマートフォンを指で包み込み、やや億劫げに言う茉莉花。あいつ、とはレイナのことだろう。スルーされた鈴蘭は顔を上げて憤慨する。


「助けるって……まず自分で勉強しなさいよ。何が苦手とか分かってからじゃないと」

「まっちゃんも助けてくれんの!?」

「得意科目なら、まあ」

「でもすずちゃん、中学の時オール赤点とかあったよね」

「さよなら。二年になってもたまには顔みせなさいよ」

「留年前提の話になってんぞ、オイ!」


 威嚇するような表情を向けるが全く怖くない。これでバスケ部内では「虎みたい」と言われているらしい。


「まあまあ、皆で勉強しよーよ。わたしも高校最初のテストはちょっと心配だから」


 微笑みながら伊吹が提案すると、二人は特に異論なしといった様子で頷く。


 そこからは三人で予定を合わせはじめ、いつ勉強会を開くか、どこでやるか等をすり合わせていった。話し合いの結果、翌日の土曜日に図書館に集まることとなり、鈴蘭は安堵でふにゃふにゃになっていた。


「あ、三人で良いのかな。御手洗くんとか、呼ぶ? 茉莉花ちゃん」

「なんであたしに聞く。呼ばんでいいわ」


 頬杖をついてそっぽを向かれた。可愛い。

 そうして中間テストへ向けた鈴蘭強化イベント――もとい勉強会が決定したのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る