一章八話 傷は治せないけれど
『ねえリカちゃん戻ろうよ、絶対見間違いだから!』
「うるさい……っ、そんなわけないじゃない! あんな……あんなっ!」
目尻から零れる涙がみっともなくて、茉莉花は走りながら無理やり手で顔を拭う。暗い道の中を一人で走る姿は消え入りそうなくらい弱々しかった。
「……はっ……はぁ……」
『大人しく電車で帰ろうよ~。レイナちゃん疲れた体で配信するのヤだよ~』
「黙って……! もう、どうでもいいの……!」
膝に手をついて一度停止する。先ほどまでいた場所の最寄り駅は二つあって、片方は目と鼻の先にあるのだが、彼女はそれを利用するのをやめてもう一つの方へ向かっていた。わざわざ民家の間を抜けて遠回りしてまででも、伊吹たちに追いつかれたくなかったのだ。
『ねーリカちゃん……あれ、交代できない。ちょっとー戻ろうって!』
内からレイナの声が響く。これだけは全て投げ出してもシャットアウトできない。
全て。全てどうでもよくなった。願いとか恋とか、一切合切全部。
「バカみたいじゃない……っ。何が……何がメインヒロインよ」
伊吹は度々、メインヒロインになると口にしていた。そして彼女の動力源もそれであることは日々の会話からなんとなく伝わっていたし、茉莉花と同じ条件下に置かれていることもすぐに理解できた。
つまり、ライバル的存在だったのだ。五人の中で唯一異性のポジションに置かれた慎之介を二人で取り合う。これはそういうふうに作られたゲーム――今となっては、そんな風に感じる。
だったら最初からそう言ってほしかった。
それならば、こんな無謀なことはしなかったのに。
伊吹も協力なんてせず、勝手に慎之介と結ばれてくれたら良かった。
自分の頼みなんて最初からはねのけてくれたら、ただの友人としてでも付き合っていけたかもしれないのに。
「……あたし、ホント……薄っぺらい人生送ってる。恋なんてしなきゃよかった……」
「そうでもないさ。君には君の存在意義がある」
レイナに向けてか独り言か、それすらも分からなくなってきたとき。背後から湿度のある声が掛かった。ひんやりと静まり返った夜の中から這い出てくるような声音は低く、見れば怪しげな男が佇んでいる。
疲労の溜まった体を起こし、その男と向き合う。既に数歩前の距離まで詰められていた。全身の毛が逆立つ勢いで悪寒が走る。なんとか震える口を動かして、精一杯強がって声を絞った。
「……誰。いきなり」
「誰だろうねえ~どうでもいいだろ。とりあえずお前さ――」
一歩、二歩と詰められ茉莉花の中で恐怖心がどんどん大きくなる。しかし後ずさるよりも早く男は彼女の両手首を掴んで、拘束するような形で壁に追いやった。
「……っ! は、離して!」
濁った眼は充血のラインが走っている。無造作に伸びた髪と細い体躯からそこまで屈強には見えないのだが、背丈だけは無駄に高い。様相からして歳は三十前後といったところか。
ひ弱な茉莉花では両手首の拘束を振り払うに至らず、足は恐怖ですくんでしまい、立っているのがやっとの状態だ。この状況を打破できる術はない。
「はい話しまーす。ぼくは善良な一般市民でレイナちゃんのファンでーす。お前が夜の人気のないところで独りになってくれるのをずーっと待ってましたー」
「――!」
血走った眼をギョロギョロさせながら男が言う。焦点の合わない様子だが、言葉には整合性があった。
つまり彼はレイナのファンで、口ぶりからするにずっと茉莉花をストーキングしていたということ。二重人格のことがどこかから漏れている、ということになる。
いつもは「夜は危ないから」と比奈が家まで付き添ってくれていた。今日はそれがない。茉莉花は引っ越し後の生活で配信の時以外、夜に家を出たことがなかった。
「だからさあ、お前あれだろ。関係者なんだろ? ぼくはレイナちゃんに会いたくて仕方がないのにどっこにもいないんだよなあ……お前なら知ってんだろ、配信してる家までは特定してんだぜ、こっちはさあ!」
「……は」
空気を吐くような声が漏れる。
最悪の事態は免れた。どうやら彼は二重人格のことまでは把握していないらしい。
『リカちゃん交代して! レイナちゃんなら多分こいつ倒せる!』
(バカじゃないの……正体バレるでしょうが……!)
今最も行ってはならないのは、レイナと交代すること。どこから情報を掴んだのかは知らないが彼は“ラヴリーレイナ”を追いかけている。しかし茉莉花がレイナと肉体を共有していることに気付かないうちは、いくら個人情報を暴いても無駄だろう。
ならばなんとしてでも、二重人格のことは伏せなければならない。
「おい、答えろよ。レイナちゃんどこだよ。あの子はどん底に落ちたぼくを救ってくれたんだよ~頼むって言ってんだろオイ!」
「えらく……妄信的じゃない。まだ一か月程度の……配信者に……っ」
「あ? お前今レイナちゃん馬鹿にしたろ。殺すぞ」
ドスのきいた低い声音に顔が引きつる。してはならないことは分かったが、依然この状況を打破する手段がない。このままだと何をされたか分かったものではないし、今の態勢なら何をされても抵抗はできない。
恐怖と焦燥で喉が渇ききって、声が上手くだせない。体が震えて力が入らない。助けを呼ぶことさえできれば――
「……あの!」
「あ?」
意味のない逡巡を繰り返していると、男の肩を突く人差し指が見えた。細い手指を辿って視線を向ける――そこに居たのは。
「――失礼しますっ!」
「ぐぉっ――!?」
赤のリボンのカチューシャ、薄桃色のチェック柄オフショルダー。可愛らしいパンプスが片足だけ浮いており、バランスの良い姿勢で停止していた。片足で蹴りを食らわしたのだろう。気付けば男は横方向に吹っ飛び、地面に身体を打ち付けている。
「いっ……てぇ……!」
「大丈夫!? 茉莉花ちゃん!」
「あ、あっ……あ、け……しま……っ」
伊吹だ。
彼女は肩で息をしながら姿勢を正し、崩れ落ちた茉莉花を心配そうに覗き込む。今だけは酷い顔をしているから見ないで欲しいと思って、反射的に下を向いてしまう。
「だい、大丈夫……何もされてない」
「良かったぁ……すごい探したんだからね、もう」
探した。探したと言った。
あの怒りと失意に任せたメッセージを見てここまで来たというのか。明らかに走るのに向いていない格好だというのに、どうやったらこの事態に間に合うというのだろう。
いつかの朝も、こんなふうに助けられたのを思い出す。だから彼女のことを、信じてみたくなって――。
「……怪我してないならちょっと待っててね。この人、お仕置きするから」
伊吹は地面に倒れ込む男にゆっくりと足を進める。どんな力で蹴ったら少女の片足で大人の男が吹っ飛ぶのか分からないが、伊吹なら何をしていてもおかしくないと思ってしまった。
彼女は男の目の前まで行くと丁寧な所作でしゃがみ込む。
「ねえ、なんでこんなことするんですか?」
「はぁ……うるせえなあ。お前は……じゃねえ……」
「え、なんて言いました?」
「お前はもうお呼びじゃねえって言ったんだよ――!」
刹那。
奇跡が見えた。黒洞々と広がる蟠りの中、静かに一筋の色が横薙ぎに迸る。一閃が黒に塗られて伊吹の身体はよろめいた。
色は、紅。
「――っ!?」
「朱島!?」
後ろ姿で何が起きたのか分からない。けれど彼女に何かが起こったのは確かだ。
「バーカ! もうお前に興味なんてねえよ! ぼくにはレイナちゃんしかいない!」
伊吹が尻もちをついて動かなくなったことで、再び男がゆらりと起き上がって茉莉花を見る。まとわりつくような視線が体の自由を奪ったみたいで、へたりこんだ体のまま動けない。
駄目だ。また来る。
「あーあ……刃傷沙汰は避けたかったのになあ……お前らが悪いんだぞー……」
「――!」
男がブツブツ言いながら握り締めているのはナイフだった。既に赤い液体が先端からポタポタと零れ落ちており、それが何を意味するか瞬時に理解できてしまう。
伊吹が、アレで切られたのだ。
「まあ言うこと聞いてくれれば悪いようにはしないからさあ。ぼく本当に一途だから、レイナちゃん以外興味ないからさー……早く居場所教えてね?」
「……い、イヤ。絶対イヤ」
「はあ……。そうですか」
ひたひたと歩み寄ってくる男に、拒絶の意志を示すことしかできない。最早流れる涙が何の感情で落ちているのかさえ、茉莉花には分からなくなっていた。
怒り、妬み、恐怖、絶望。そのどれも。
そして、こんなことに巻き込んでしまった罪悪感。自分への、失望。
「じゃー……お前も一発喰らえば大人しくなるかなあ」
距離を詰めた男が大きく片腕を振りかざす。
ナイフの先端が月光に照らされて、キラリと光った。
「……っ」
『リカちゃん!』
次の瞬間訪れる痛みに備える。最低限両腕でガードするけれど意味なんてないだろう。両目をぎゅっと瞑って現実から目を背けることしかできなかった。
「――?」
果たして、痛みは永遠に訪れない。
恐る恐る目蓋を上げると、男の姿があるはずの視界には伊吹の背中があった。
「――……大丈夫だよ、茉莉花ちゃん。大丈夫……!」
「は――朱島……あんた、何やってんの……?」
ポタポタ、ポタポタ。
ナイフの先端とは比にならない速さで命の源が零れていく。白の袖を伝ってそれでも地面に落ちるそれは、伊吹の右手から発生していた。
「お、お前……頭おかしいんじゃねえの?」
「茉莉花ちゃんに、こんなに可愛い子に……こんなもので、何しようとしたんですか……っ」
必死に抵抗する伊吹。強がってはいるが声が明らかに震えている。未だに硬直した二人の状況――それは振り下ろされたナイフを、伊吹が素手で受け止めたことによるものだった。
「も、もういいから! あんたは逃げてよ! 関係ないでしょ!」
「関係ある! 友達だもん!」
「ああもう、うるせえなぁ! ぼくの前で安い友情ごっこ見せるんじゃねえよ!」
二人の言い合いに更に怒り狂った男がナイフを下ろす。振った勢いのまま力任せに振ったから、伊吹の受け止めていた右手がより深く切り裂かれてしまう。
「ぅあ――っ!」
悲痛な声が漏れる。力が入らなくなったのか、右腕がだらんと垂れ下がった。
「もういいや。ボコボコにしてからそこの女だけ連れていくから。ぼくを怒らせたのが悪いんだよ、お前らがさあ」
「……痛い……怖いけど……」
「あ?」
一人で狂言を捲し立てる男に、それでも伊吹は食い下がって言葉を発する。彼女が声を振り絞るたびに胸が締め付けられていく。
このままでは、伊吹がどんな目に遭うか分からない。もうやめて、と今すぐにでも止めたいのに、臆病な心と体は言うことを聞いてくれない。
しかし彼女は毅然と立ち、自信満々に宣言した。
「大丈夫――ヒーロー、呼んだから」
彼女の言葉が闇夜に響いたとき、その場の誰よりも素早く動く陰が現れる。それは瞬く間に男の懐に潜り込んで鈍重な一撃を食らわし、音を置き去りにする勢いで男の身体を易々と吹っ飛ばした。
「が……っ! う、うぇ……っ」
「おい、何やってんだよ。お前」
力強く拳を握った彼が睨みを利かして、額に青筋を浮かべている。佇まいと相まってとんでもない迫力だった。
慎之介だ。
「女子相手にそんなモン持ちやがって……ぶっ飛ばしてやる。立てよ」
「もうぶっ飛ばしてるけどね……」
勇ましい彼の背中を見送りながら、伊吹は大きく息を吐き出して茉莉花の前に座り込んだ。慎之介が男の胸倉を掴んで顔面をボコボコにしていく様子を見て、茉莉花の心にもようやく安堵が生まれる。
「さっき切られたとき、位置情報だけ送ったの。手分けして探してたのは……ちょっと失敗だったかも?」
どうにもならなくなっていた頭がようやく冷え始めてきて、初めて伊吹の顔を見た。目の下、左頬辺りに一筋の線が入って出血が見られる。最初にこれをやられたのだろう。
しかし彼女はそんな傷を気にする様子もなく笑っている。屈託のない、純真無垢な笑顔を。
「――無事でよかった、茉莉花ちゃん」
昔の記憶が蘇る。中学で出来た初めての友人、初めて自分のことを“真面目さが取り柄”と褒めてくれた友人。それら全ては色褪せて、今も彼女の心を縛り付けている。
違うと証明したかった、ただ運が悪かっただけの、事故みたいな出会いなのだと。
『証明、してくれたんじゃない?』
レイナの声。思えば、焦っていたのかもしれない。レイナのような人格が生まれたことで、つまらなくて薄っぺらい人生を歩んできた自分が、更に無価値に思えたから。
だから証明が欲しかった。ここに居ていい理由が――心から仲良くできると思える友人が、欲しかったのだ。もう恋とか願いとかそんなものはどうでもよくて、今はただ目の前の少女を近くに感じていた。
「……ありがとう」
一言だけ告げる。更けていく夜に茉莉花は涙を流し続けた。
先程までの怒りや失望が一瞬で溶けていく浅はかさへの涙でもあり、こんな劇的な展開が起こることでしか人を信じられないくだらなさへの涙でもある。
そして、喜びの涙でもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます