序章四話 おさわがせしました。


「おはよう、早いな」

「わーすごい。早起きって本当に三文の徳なんだ」


 教室に戻ると、話をしたい人物三人目――御手洗慎之介がいた。

 新品のカバーを掛けた本を持ち、行儀よく自身の席で呼んでいる。彼の席は茉莉花の隣だった。


「おはよっ。何読んでるの?」

「恋愛小説。友達に勧められてな、普段は漫画しか読まない」

「へー、おもしろい?」

「おう。ハマってる。柄にもなく」

「そうかな? 結構似合ってるけど」


 伊吹の返しに苦笑して「それはどうも」と言う彼は、座り姿勢でも分かるくらいガタイが良い。何度も教室内ですれ違っているからだいたい予想できるが、身長は多分180センチは越えている。

 運動経験があるからか体つきもがっしりしていて、腕も同じ年齢とは思えないほど太く男らしかった。これで帰宅部だというのだから恐ろしい。


「昨日は悪かったな、用事がなければあのまま話せたのに」

「全然大丈夫! むしろ帰って考える時間が出来て良かったかも?」

「そうか」


 パタン、と本を閉じる音。別にそのまま読んでくれていても良かったのに、と思う。

 慎之介は伊吹を見て「そういえば」と切り出す。


「学校でまともに話すのは初めてだったよな。御手洗慎之介です、どうぞよろしく」

「ご丁寧にどうも。わたしは朱島伊吹だよ、よろしくね。御手洗くん」


 一瞬「名前で呼んで」と注文してきた少女の顔が浮かんだ。あの後普通に教室に帰ってしまったが、どこに行ったのだろう。いっそこのまま彼女の席で待とうか、と意地悪な考えが浮かんだ。


「御手洗くん、いつも早いの?」

「いや、昨日からこれ読んでてさ。家だと集中できないから……いっそ学校で読んでみようかと思って」

「読書週間だー。小学校でやらなかった? 朝の時間は本を読みましょうみたいな」

「あったあった、懐かしいな。俺の母校は給食の最初の五分はクラシック流して黙食するとかしてた」

「なにそれ知らない! そんなことするんだ!」


 他愛ない雑談。鳥の囀りが心地よいアクセントとなり、程よく肌に触れる気温が安らぎを与えてくれる。

 慎之介は体格もあって若干強面に見えるが、実際に話してみると表情が朗らかでとても関わりやすい。クラスの女子からは「熊みたい」と言われているとかいないとか――なんて話もあるけれど、伊吹にとっては非常に関わりやすい人柄だった。


「朱島こそ、いつも朝早いのか?」

「ううん、いっつも朝はゆっくりだよ。でも今日は早く来たら昨日のみんなに会えるかなーって」

「行動力高すぎるな。俺なんて会ったときでいいかーくらいの気持ちだったのに」


 先程下ろした鞄を拾い上げ、伊吹は自身の席まで行って朝の支度を始める。といってもペンケースと教科書とノートを幾つか出して机に仕舞うくらいで、それはすぐに終わった。

 慎之介と茉莉花の席とは対角の位置――廊下側の最前列に位置する彼女の席は、窓際に比べて少しひんやりしている。


「そんな遠いところだったのか、そりゃ接点ないわけだ」

「名前くらいは知ってたけどね。おっきい男子いるなー、くらい。昨日は知ってる人二人目がきた! ってびっくりしちゃった」

「はは……。――なあ、朱島」


 彼は小さく笑って、真面目なトーンで名前を呼ぶ。しかし視線は外して黒板の方を見ていた。否――黒板というより、何もない空間を見ているだけだ。

 しっかり切り揃えられた黒髪は、ツーブロックに刈り上げられている。あれくらい短かったら風はどのくらい涼しく感じるのだろう、なんて思った。


「願いって、本当に叶うと思うか?」


 至極真面目に、丁寧に、言葉を選ぶような声音。

 彼のことはよく知らないけれど、この言葉に様々な感情が含まれていることだけはなんとなく理解できた。それがどれくらいのもので、どんなものかは分からないけど。


「あそこに居た奴らとの縁を蔑ろにしなかったら……本当に願いが叶うと思うか?」


 優しく包み込むような問いだった。そこまで言って、彼は視線を伊吹の方に向ける。琥珀色の細い両目に捉えられる。女子のものとは違う整い方をした顔立ちで、目線にも力強さを感じられた。


「もちろん。だってわたし、ずっと待ってたから」

「ずっと?」


 口元に笑みを刻んで答えると、慎之介は気になったワードを拾い上げる。


「うん、ずっと。小さい頃に聞いたお告げで……わたしはその時から昨日の夕方をずーっと待ってたんだ」

「……どんな願いか、聞いてもいいか?」


 自身の席を離れて再び彼のところへ足を運ぶ。教室内は二人だけで話すには少し広くて、十歩程度の距離がいつもより遠く思えた。

 そうして彼の前に辿り着く。伊吹は自身に親指を向けて自信満々に答えた。


「――メインヒロインになる」


 今度は彼の瞳を真っ直ぐ見つめ返す。少し小さい瞳孔はよく見ると澄んでいた。


「わたし、運命の人と出会って……メインヒロインになるの。それをずっと楽しみに生きてきたんだ」


 「これがわたしの願い!」と満面の笑みで付け足す。静かに口を閉ざして聞いていた慎之介は、にかっと歯を見せて意趣返しのように笑い返してきた。


「――そりゃ、良い願いだ」

「でしょ?」


 春風が若干しおれた花弁を運んできて、窓の隙間から室内に舞い降りる。もうすぐこの桃色の季節も終わりだと思うと、少しだけ寂しい気持ちを感じないでもなかった。

 しかし始まりでもある。枝に募った季節の香りは次の季節への移ろいを示し、空には悠々と変幻自在の生き物たちが泳いでいた。始まりの匂いと景色――待ち焦がれていた世界の扉が開いた気がして、寂しいなんて思わなかった。




 ◇◇◇




 早朝通学が功を奏して一気に三人と接触できた伊吹は、控えめに言ってかなりテンションが上がっていた。一時は詐欺にあった気分だったが、やはり着実に願いが叶う道を歩んでいる確信があったからだ。


「いーちゃん嬉しそうだね、なんかいいことあった?」


 そう言って後ろの席からつついてくるのは、中学からの親友である保住ほずみ鈴蘭すずらんだ。頭上で団子結びにしたピンクの髪がアイスのフレーバーみたいで、昼休み前は少しだけお腹がすく。


「んー? そう見える? すずちゃん」

「めっちゃ見える。マサイ族くらい見えるね。ルンルンのルンだし」

「ふふっ、そんなに分かりやすいかな。確かにいいことはあったけどね」


 何気なく会話しているが今は授業中である。最前列で普通に喋ってもお咎めなしなのは、数学教師が忘れ物を取りに職員室へ帰ったからだった。室内は勉強の場とは思えないほど雑談で溢れ返っている。

 朝と違って人で溢れ返っているので見えないが、後ろの方では慎之介と茉莉花も喋っているのだろうか。少し気になって斜め後ろに視線を送る。


「……えっ」


 それに気づいたのか、鈴蘭がカッと目を開いて伊吹を凝視した。


「――まさか、男!? いーちゃん、ついに来た!?」

「えっ、ちょっと……すずちゃん声大きいよ!?」


 反射的に出た鈴蘭の声で、喧騒が波のように止んでいってしまう。後ろの方まで静寂が充満したのち、伊吹の周りの女子たちが反応し始めた。


「朱島、彼氏できたの!? 熱い夜の始まりじゃん!」

「いや、違うよ? まだ始まってないからね?」

「“まだ”ってことはそーいうことだろ! 詳しく聞きたい聞きたーい」

「あー……すずちゃん。どうする? これ」


 教室内の注目は完全に伊吹に集まっている。何を言っても後に響くタイプの注目だ。

 若干冷ややかな目で見ると、鈴蘭はミジンコくらいの大きさになる勢いで縮こまっていた。涙目になりながら身を守っている。なんとも情けないガードだった。


「ご、ごめんいーちゃん……ちょっと声デカすぎたかも……許して、捨てないで……」

「別に捨てないけど、わたしだってこんなに見られたら恥ずかしいんだからね?」

「はい……すみません……」


 その後、変に落ち着いてしまった教室内は静まり返ったままで、「絶対荒れてると思ったのに」と教師が死ぬほど驚きまくった。まだ4月なのになんとも信用のないクラスだが、明るく騒がしい人間が多いがゆえのものだ。

 鈴蘭は昼休みにジュースを一本奢るという提案を持ちかけてきて、何とか元のサイズに戻っていった。




 ◇◇◇




「――いや、マジで男じゃん。ウチのコンポタ代返してくんない?」


 昼休み。苦虫を嚙み潰したような顔をする鈴蘭に、伊吹は首を傾げた。


「え、おいしかったよ?」

「会話! いやウチの言ったこと合ってんじゃん!?」

「なんでそう思うの。彼氏なんていないってば」


 相変わらず声量の大きい鈴蘭に苦笑する。周りで会話を聞いている男子生徒たちが「朱島さん彼氏いないって」「ほらな、やっぱチャンスだって」などとのたまっているが、伊吹の耳には届いていなかった。

 鈴蘭の失言を理由に散々質問責めにあった伊吹は、「青汁コーンポタージュ」という不評が凄まじい缶ジュースを奢ってもらっている。


「てかそれ絶対不味いでしょ」

「意外と美味しいよ? 飲む?」

「いや……遠慮する……」


 と、そこまで会話を続けていると。


「――用があって来たんじゃないのか?」


 二人の女子生徒に挟まれて身動きの取れない慎之介が、目を伏せながら言葉を発した。


「あ、ごめんね。すずちゃんが勘違いしてるみたいで」

「勘違いじゃないでしょ。自分から男子のとこ行くことなんてなかったいーちゃんが、なんでこいつのとこに無言で行くのさ」

「え、友達だから雑談しようかなーって」

「嘘! 絶対嘘! 昨日一人で帰ったのもそういうことじゃん! おいお前名前教えろ!」


 144センチの怪獣が甲高い声で威嚇している。若干迷惑そうな顔をしながら慎之介は返答した。


「御手洗だ」

「名前は!」

「慎之介」

「甘いものは好きか!」

「好きだな」

「合格! いーちゃんをよろしく!」

「軽っ」


 張り上げる声量の割に、身長と丸っこい顔でまるで迫力がない。一回り歳が下の子どもが喚いているようだ。初絡みでダル絡みをかまされ、慎之介もなんとも言えない表情になっている。

 鈴蘭はキッと眉をつり上げ、背筋を伸ばす。


「いーちゃんはな。中学の頃から男女どちらからも告られていたモテ女だ。大事にしろよ」

「だから違うって」

「高校に入ってからはウチが守ってるから今のところ告られてないけどな、油断するなよ」

「あれ、言わなかったっけ」

「……いーちゃん? おい、ちょっと?」


 失言した、と口元を手で覆うが遅かった。慎之介の机を避けて近づいてきた小さな怪獣が、胸元のリボンをネクタイみたいに掴んでくる。そういえば先週、三年生から告白を受けたのを言っていなかった。


「なあ、俺購買に行きたいんだけど」

「なんだ、彼女を置いていく気か? こんなにかわいい彼女を!」

「話進まないからこの子は気にしなくていいよ。えっと、聞きたいことがあって」


 「なんだそれ!」と噛みついてくる彼女をスルーして、廊下の方を一瞥。おそらく慎之介を待っているであろう男子生徒が数名、怪訝な顔をしてこちらの様子を窺っていた。一緒に行こうとしていたところを邪魔してしまったのだろう。


「聞きたいこと?」

「うん。昨日いた、もう一人の女の子に会いたいんだけど……知ってることあったら教えて欲しいなって。茉莉花ちゃんもお願い」

「今こっちに話振る?」

「え、茉莉花ちゃんって誰!?」


 鈴蘭が伊吹の後ろにいる茉莉花に興味を示した。これまで頑張って我関せずを貫いていた茉莉花だが、位置的に話しかけられる覚悟はしていたのだろう。


「いや、あたしは……別に。他校の子とか知らないし……」


 目が泳ぎまくっているが、嘘をついている様子はない。顔が若干赤いところを見るに恥ずかしいのだろう。

 よく考えてみれば朝以来の会話だ。


「そっかー……ありがと。じゃあ御手洗くんは?」

「知ってる……というか心当たりがある」

「本当!?」


 さも当然の如き返しに思わず身を乗り出す。彼の顔と距離が近くなるが、そんなことを気にしている場合ではない。


「一人だけ違う制服だったからどうしようって思ってたの! すごいね御手洗くん、顔が広いんだ!」

「いやこいつはどっちかというとシュッとしてるだろ。いーちゃん目悪くなったか?」


 補足。保住鈴蘭はかなり学力が低い。

 高校入試も伊吹がつきっきりで勉強を教えて、それでも合格発表ギリギリまで「終わった……」と繰り返していたほどだ。


「いや本当に偶然だよ。話したことないし、向こうも俺のこと知らないんじゃないかな……会いに行ってみるか?」

「うん! 連れてって!」


 目をキラキラ輝かせながら慎之介の手を握る。隣で何かわちゃわちゃと声がした。


「じゃあ今日の放課後行くか……乾も一緒に行くか?」

「ぇっ、は……な、いや、別にいいし。行かないわよ」

「はは、なんだその返事」

「うるさい笑うな! 黙れ!」


 軽快に笑われて茉莉花がキレている。

 短い間の二人のやり取りは昨日よりも前から会話があったことを物語っていて、見ていて微笑ましい気持ちにさせられた。鈴蘭は首を傾げている。


「あれ、彼氏じゃないの?」

「そう言ってるじゃん」


 思考が自由過ぎる友人に肩を竦ませる。教室の外では待ちくたびれた男子生徒たちが、スリッパでお手玉を始めていた。慎之介は後で凄まじい質問責めにあったという。

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