ビールと泣いた世界平和の夜

馬鹿も最後の夏、俺という馬鹿野郎は、借金だらけだった。

途方もない、屁が出る。泣けなしと、少ない額、懐忍ばせて。池尻大橋の真向かい、どうも四階建ての寂れたビル。上から返していかなきゃ、てっぺん着いた頃合い。身を投げちまいたくなる、情けなさがあった。

 まだ薄く臭う、寄れた札に。

 指の腹も切れそうにない、その汗ばんだ札握り締めて。瞼閉じて、忍んだ恥がある。

 程よく、怒鳴られた頭の上。

右往左往する、言い訳に。咳して誤魔化した、セッタ、セブンスターを退けて。貧乏揺りで、糞した窓口前の便所。ずっと、夏風とやらが、痰に絡みついていた。


「おまえね、どうけ、どうしちゃうけ?」

投げやりに言い掛けた、その問い。取り返せないまま、俺にヒット。目線逸らして、気まずい居酒屋で。海鮮焼きの網は、黒焦げと、端の方で米粒ほどのゴキブリが。むせ返る夜、それでも、居酒屋変えられるような手持ちも。

 「そんなん、分かりやしませんよ」

「あんさん、だってね。おまえが心配なんよ」

「あにさんに、迷惑掛けるつもりは毛頭ありや」

「しないったてね、加賀ちゃんのとこ、世話になっとるんけ」

「……そりゃぁ、まぁ」

 若干、沁みた声で。

すっかりしてやられた、そんな酔い前。つい、その前の夕暮れに。池尻大橋のビル、上から順に返していって。薄らいで羽織る、俺のアロハ。穴が、一番下のボタンんとこで開けたままに。糸、階段降るとき、手摺りに引っかかって。

 ほら、屋上はもっと上、そんなことを抜かしていた。

「夢追っとるわけやないけん、真っ当になりゃぁ」

 不意に言われた、そいつ。

首傾げちまうほど、なんも食べていない胃の中で。ぐるぐると、酔いをかき混ぜて。ばさっと、返済の封筒。

 思わず、握り潰しちまって。

「あにさん、真っ当ってなんです」

真っ直ぐ、見りゃ、目頭熱く。

 あにさん、兄さん、こんな東京なんぞ出てきちまって。生まれも、育ちも、目黒の秋刀魚じゃ格好つかない。そんなもん、あにさんと一緒にぶらつけば、下町の口の悪さ。その、馬鹿野郎はなりを潜めて。それこそ、嘘っぱちの目黒の秋刀魚。目黒じゃ、秋刀魚なんてもん、獲れやしないって。

 東京なんぞ出やしなきゃ、俺なんて、面倒見ずに__。

「がむしゃらに、生きてりゃ真っ当じゃないんで……夢追ってる奴は真っ当じゃないって。なら、あにさん、ちゃらんぽらんな俺は、何になっちまうんです」

 酷く、生意気なことを。

それでも、ビール運ばれてくるまで。ちびちびと舐めていた、お冷。そいつに、冷や汗、どっと出ちまう。そこで聞かなきゃ、俺はなんにもない、そんなふざけた話を。 

 札と違って、ふやけてない封筒。

握り潰しちまって、指の腹が切れちまう。ぽたぽたと、居酒屋の床。コンクリートのひび割れに落ちて、椅子のビールケース。褪せたその色に、不健康な点がぽつり。涙よりも、小さなそいつがシミと。あにさん、ぱちり目を見開いて。

 溢れそうな何か、噛み締めた。

「__おまえ、海に沈めちゃろうか」

そっと、優しく、あにさんが言った。

 かたり、椅子とも呼べないそれを座り直して。ぱちっと網の下、醤油落ちりゃ、場を持って。心臓はばくばくと、なんべん祈っても生来ずに。

 何のため肴、ずっと網の上。

「がむしゃら生きて、えらい身分やけんね。真っ当言うちゃろうが、自分らのために生きとうアホと、通勤電車揺られとる人ら比べんのも烏滸がましいっちゃろ……」

 とんでもなく、分かりきっていて、分かりきれないことを言われた。あにさんは、筋の通ったことを叱りつかけて。空っぽの腹ん中、じわっと情けなさ、また広がる。池尻大橋のビル、四階から降っていく最中。そんな胃の痛さで、そんなどうしようもできない、俺の馬鹿野郎でいて。

 しっかり、食っていきかた、意地が邪魔して。格好がつかないと、頭項垂れていた。

「こんままなら、うじ虫や」

 心配そうに、案じていること伺える口調で。随分なことを言われている、それが沁みて、沁みて。からからの封筒、分厚く。そんなこと、網の上、じりじりと感じていた。

「すんません……すんません、あにさん、ほんと、すんません」

やがてやって来る、ビールジョッキ。

ぐすりと鼻真っ赤に、啜るキンキンに冷えた、それ。つんと喉越し豊かに、かぁっー熱くなって。夏が、また来たと。


 夕暮れの池尻大橋のビル、飛び降りちまいたくなって。首の回らなくなりそうな、自業自得の借金。打った台の数は数知れず、溶かした玉の重みも知らず。飲んだビールは大概、人の金。

 路上寝れや、知り合いぱたり会って。屑と罵りながら、少しばかし。働いて、馬鹿やって、箱見に行って。指差し笑いながら、不貞腐れていた。書いたもん、投げ捨てられた目黒川。あの頃じゃ、桜はひらひら。俺の意地も、ふらふら。

 いつからか、真っ当すら、捻くれて。

あにさん、相方の加賀ちゃん、みんな馬鹿にしちまった。

「うじ虫、やめてぇです」

 うんうんと頷く、あにさんビール飲み干して。あんまし強くなく、よほど嬉しかったらしいと。いやに早い飲みっぷり、歯痒さがあった。

 だから、俺はつい。

「そんで、世界平和祈願しに行きます」

なんて、俺という馬鹿野郎は借金だらけのまま。ビール吹き出した、あにさんがお目めをぱちり。あんまりにも、腑抜けた面で、笑っちまうの堪えて。

 真っ当に、真っ直ぐ、あにさんへ。


「だから、金貸してください」


 爪楊枝の束が、痛かった。

顔面当たって、ひりひりと。店員さん、急いで氷持ってきてくれて。へたりと座り込んだあにさんが、沸々と怒り肩で揺らす。俺は、あたふた、店員さんに謝って。ほら、あにさんも謝ってと言って、何でやと怒鳴られて。他のお客さん、どっと笑っちまって。いつの間にやら、あにさんが、俺の髪に絡みについた、爪楊枝取りながら。

 心底ため息と、吐いていた。


「__こんの馬鹿野郎が」

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西崎 静 2023年春夏 短編集 西崎 静 @nishzakishizuka4869

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