紙コップの口紅に、立ち小便
酔った勢いで、男を抱いた。
あれは大晦日も近い、その年暮れでいて。鶴来の駅前には、僅かだが白山の由緒ある神社へ足を運ぶ参拝者たちが。
はらはらと、雪が降っていた。
小さな粒が革靴に薄らいで、膜を張っているのが、ああ寒いと。吐いた息に、頬を赤くさせた芳樹が映り込んでいた。
まだ、卒業も遠い夜だった。
その場の雰囲気で、就職のなんたら説明会だかで、わざわざ遠方の金沢駅に着いたときに、つい口から漏らした。
_このまま、駆け落ちでもするか。
芳樹は、目を見開いていた。
なんせ、近頃じゃそいつは男好きだなんて、そんな噂があったから。金沢駅のやたら凝った作りの鳥居を過ぎたあと。
マフラー巻いた芳樹は、そんなもん柄でもないだろって抜かした。編み目から、俺たちの残り少ない惰性が死にそうになるのを見て。あと少しで、俺たちはもう出会わなくもなるんだと、バスに乗り込むスーツ姿のサラリーマンたちが。そう、俺も芳樹も、濃い紺の背広に身を包み、靴は革靴でいて。
滑っちまいそうな姿が、バスの窓ガラスに映っていた。
正直、嫌がられることは分かっていて。真面目な芳樹じゃ、バスに乗って行ってしまうと。俺は安いキャメル一本、そいつを箱叩いて、抜き出した。
だが、結局芳樹はライターに親指を押し込むように、頷くだろうと。そんな馬鹿げた妄想に取りつかれて。
俺のために、こいつはこの先を捨てるぐらいは出来ちまうだろうなんて、阿呆らしい理屈を並べていた。
なんせ、俺は抗えない不安と、捨て置かれそうな成長しない、何も持っていない身持ちが、痛々くて。
それは確かに、雪に手を突っ込んだみたいに、痛過ぎていた。
「ほんとうに、着いた」
「はは、俺ら馬鹿じゃね?」
「それはおまえだろ、俺は知らない」
「ひでぇな、芳樹。駆け落ち仲間じゃねぇか」
酷い言い草だっただろう、冗談でも殴られるべきだった。
電車の中、千と千尋の映画のような景色が田んぼの水面にあって。これから神さまに会いに行くんだ、無人駅だからと持ち込んだ缶チューハイはそんな味になっていた。運転席の後ろに、それこそ賽銭箱に似た乗車賃投げ込むもんがあった。
赤い絨毯みたいな電車の椅子でいた。そこに腰掛けながら、最終の癖に夕暮れと夜の狭間で。彼岸の光景と、飛ぶトキがしんどそうだった。
着いた、鶴来駅。
俺たちの悪酔いは、続くもんで。
「野宿は死んじまうよ」
「探せよ、宿」
「空いてんのか、こんなとこで」
「知るかよ、でも来ちまったんだから」
「これじゃ、駆け落ちどころか、心中だよ。勘弁してくれ」
「げ、おまえと心中とか」
すっかり暗くなった道中、妙に背のある建物が見えて。そいつは川の近く、西成にあるような昭和のボロい宿屋があった。
外壁は白だったんだろう、昔は。今じゃもう灰色掛かって、縦長の看板がなんちゃらホテルだと。そりゃもう、蛾を引き寄せていた。
「あそこ、空いてそうだな」
「うわぁ、くそみてぇな外観だな」
「味があるって言えよ」
「へいへい、味のあるくそみてぇな宿」
「おまえ、…はぁ、そんなんならやめるか?」
「やめて、野宿って?」
エタノール飲み込んだ吐き気が、腹をぐるぐると。
芳樹が、こっちを見やしないで、吃るもんだから。その言葉が、案外俺の駆け落ちより柄じゃなかった。
「いや、あの川から身でも投げてみるか…なんてな」
声がこもって聞こえて、悴むようなしゃがれが、言葉を濁していた。これが十代の多感なノリなら、まだ良いと。だが、もう引き返せない歳まで来て、たぶんこの先、そんな台詞回し、洒落にもならないだろう。
俺たちは、気軽に駆け落ちも出来なくなる。やっぱり、もっと北まで逃げるべきだった。鶴来は、まだ侘しさもありゃしない。ただの寂れた、俺たちの言い訳にしかならないでいた。
「わりぃ、無理だ」
芳樹の手を掴んで、俺は皺だらけのスーツの中、そこへ押し込んだ。
驚いて固まる、その顔を忘れないだろう。なんせ、熱を持って、アルコールを打ち消した元気わくわくな俺が待っている。芳樹もこれには、引いた顔をしていた。
「…嘘だろ、まじかよ」
「まじだ、大まじ」
「何考えてんだ、おまえ」
「突っ込める穴ちゃんのこと」
「ソープ行けよ、つかなんで掴ませてんだ」
「おまえが心中なんて言うから、びびっちまって」
「いや、そんなチビっちまってみたいな風に言われても…最悪だ、まじで」
完勃ちの俺のちんこ。
15センチ、少し盛っているが、そんなもん。包まれたそれの感触たるや、風呂にでも入ってるような温かさが。
握り潰さない、その優しさがつけいられる要素だと。芳樹の人の良さに、俺は甘えているのか。くそみたいな気持ちと、その若干ぎこちなくする配慮が、小刻みになって。俺は、そっとした気持ち良さを拾っていた。
「でも、離さねぇじゃねぇか」
酷い大人になったものだと、思った。男好きだなんて噂信じなくとも、芳樹がシコっていたところを見ちまったから。脱衣麻雀した、ジャズ研の溜まり場になってる奴の家で、酔って眠りこけたあと。芳樹がトイレで静かにシコってる音を聞いて。戻って来た芳樹が、こたつに足を入れたとき、見ちまった。奪い取った布団の端から、よく連んでるダチのひとりに、こたつの毛布かけて。
それで、ごめんって謝っていたところを。俺はただ見てはいけないものを見てしまっていた。
「な、ヌいてくれよ」
続けた言葉が正解なのか、不安で。啖呵切るように口に出したが、焦りに後悔があった。
それと、俺は何がしたいのかわからずに。こいつを引き留めるために、俺は何をしようとしているのか。
俺は、こいつと同じじゃないというのに。別に馬鹿にしたい訳でもない、そう思われたくも、俺はただがむしゃらに愛想尽かされたくなかった。
それなら、頼むから呆れてくれるほうが_。
「…そんなら、あの口紅貸してくれよ」
あの口紅、芳樹が言った。
俺が鞄に入れたままの、先月別れた二年先輩の女の忘れもの。会社の同期を好きになってしまった、そんなことを言われて。
怒鳴り散らした俺に、先輩は口紅を投げつけて、風呂場から出て来なかった。だから、俺の部屋だというのに、コンビニへ行く羽目になって。小一時間経ってから、戻れば口紅が冷蔵庫の下に隠れて、あとは何もなかった。洗面所の歯ブラシも、トイレの生理用ナプキンも、俺がやったcoachの鞄も。
残った口紅の分別方法を俺は知らない。住んでいる地区の分別だなんて、俺は環境問題を見下していたから。
そこで、ツケが回っていた。だから、芳樹にゴミの出し方なんて聞くべきじゃなかったと。
俺は、そんなつもりじゃなかった。
「なんで、持ち歩いてると思ってんだ」
「持ち歩いてるだろ、おまえなら」
「そこまで、女々しくねぇよ」
「でも、持ってんだろ」
「…いや、持ってねぇ」
「どうせ、ある」
「くそっ、おい握るんじゃねぇ」
「で、あんだろ?」
「…持ってる」
「ったく、手間掛けさせやがって」
そう言いながら、俺のちんこから手を離していく芳樹が、妙に。すっかり、涼しくなっちまったスーツの中が、寒気をもようして。
そうすれば、冬だというのに蛾に高られる看板下。ホテルに着いちまえば、フロントに、目つきの悪いおばさんがいて。エレベーターもない3階の部屋当てがわれれば、非常階段の滑り止めが靴底へ。
ずっと、フロントで鍵を貰ってから無言になっていた。あの口紅の押し問答が最後と言わんばかりに、唾を飲み込んでいた。
スナックの歌謡曲が、流れ込んで。川のように、俺たちはベットもない一枚の敷布団の上。畳に、コートを落としていった。
駅からの通りの風、そいつでもう酔いは覚めていた筈だった。
「つけてくれよ、俺に」
手が震えていた、財布から出した口紅が細くて。鼻から、目頭に熱が抜けいくのを感じた。二人分のコートが、畳の境に埋もれて。
口紅がこんなにも、クレヨンチックだなんて思いもしなかった。
「これ、残る」
「つけろって言ったの、おまえじゃねぇかよ」
「ふはは、最悪だなずっと」
「俺の所為じゃねぇよ、つぅかマスクあんだろ」
「今が、夏じゃなくてよかったわ」
「そんときは、夏風邪でもひけや」
「うわぁ、そういうのこそ引くわぁ」
そんで、調子に乗ってキスして、舌入れてみたら殴られて。いてぇ、そんな呟き入れれば引き伸ばされた口紅が、芳樹の頬に。そいつは血色よく、寒さで青白くなっていたから、映えていた。
かちゃかちゃ、ベルト外して。金属の冷たさに、脳天の右側が偏頭痛になりながら。芳樹が、ちんこを握るもんで。俺は亀頭からぬるりと、そんな調子。
膝を畳で擦った。
「あー、挿れてぇ」
「あーあ、救いようがねぇ」
「で、挿れさせてくんねぇの?」
「なに、おまえそんな趣味あんの」
「え、ねぇけど…でも、勃ったもんはしょうがねぇだろ」
「酎ハイ飲んだろ、よく勃つな」
「まぁ、俺はね、俺の世界だけで回りてぇのよ」
「言ってる意味不明だわ」
細かく、少し残った口紅が上唇でもって、芳樹の鎖骨に落ちていった。
今抱けるものなら、抱いてみたい身体は正真正銘の男で。昔はそういう動画を海外のxxnxだったか、そんなような名前の無料サイトで見掛けては、グロいやら、いけないことはないやら、見栄張っていたけれども。いざ、そういうことになったら、俺の性癖は所詮ファッションに過ぎないんだろうと。下半身がつげていたのは、まんこをご所望で。
だから、ある種見慣れて見慣れない芳樹のちんこを見たときに、謂れもない感動を覚えた。
俺は、きっと差別主義とかじゃないだなんて。垂れたザーメン、アーメン。芳樹の陰毛に、絡みついていった。
「だから、あーしゃらくせぇ…だから挿れるんなら、なんか慣らすとか、ほらあんだろ、俺はわかんねぇし」
捲し立てたように喋れば、呆気に取られたように、ちんこを擦っていた輪っかが止まった。裏筋から、ぞわっと来るもんがあって。それは、確かに期待が滲んでいた。
「…性病とかねぇから、俺は」
「ぉん、そんなこと分かってるわ」
「今日、碌に飯食ってない」
「違いねぇ」
「それに、朝出してから風呂入って来た」
「あ?…ああ」
「だから、ウォシュレットしか出来ねぇよ」
「明日、銭湯寄りゃいい」
「爪切ってのか」
「は、なんならハンドクリームがあるってぇの」
ゆっくり起き上がって来た、その肩口に顎を乗せて。なんだか、ほろ酔いの心持ちで離れがたい肌があった。
このまま、心中しちまうか_。
口が裂けても、俺からは言えない台詞。言えないそいつを飲み込んで、慣らしに行く芳樹の後ろ姿を見つめていた。擦れた畳が、靴下を脱がして。
鞄に手を伸ばして、ハンドクリームを。
「_俺たち、馬鹿だな」
取り損ねた瞬間の、芳樹の背中だった。俺が伸ばすべきは、それだったと。頬に残った口紅が、端から見えて。
俺の唇にも、残りが。
「わかんねぇよ、んなもん」
答えた口調に、芳樹は振り返らずに準備に向かって。そんで、部屋の古時計の音が心臓に近く。ああ、まずいと思いながら、下のスナックの歌謡曲が沈んでいった。
それから、酔った勢いで、男を抱いたもんだから。
初めてのそれは、穴が窮屈で。根本からぐっと抑え込まれる感じが、やけに唆られて。確かに良いけれども、気負いしていたところから、ずっとぬるま湯にいるように。芯からは温まることもなく、程よい夢心地に、暑かった。
親に隠れてした、オナニーみたいに。
終わったら、まっぱで寝転ぶだけ。俺は眠りこけた振りをまたしながら_。
「ごめん、」
聞こえない振りをした。
「銭湯行くんじゃなかったのかよ」
鶴来駅の待合室、引き戸の悪いところは自動販売機の前だった。石油ストーブが、ぼわっと燃えている。
手に持っていたのは、紙コップに入れられた熱々のコーヒー。飲み干しそうになるのを次にくる電車まで、そう決めて。
やって来た芳樹の声が、聞こえないようにと祈るつもりだった。
「あー、…そうだったわ」
微かに、白い紙コップに残る口紅。もはや、春先の色と変わらぬそれがあって。
芳樹は座りもせずに、目の前に立ったまま。他の客なんてもの、いやしなかった。
「なんだよ、それ」
吐き捨てるような口調だった。
現実、俺たちは鶴来から金沢駅に戻るのだろう。そして、なんちゃら説明会の続きをまたどこかで行くだけ。
その前に銭湯に行こうだなんて、よくそんなことを。夢見させてくれる時間が、急に覚めたようだった。
曇りだらけの白山で、不思議と明け方は長野の夜明けかと思うほど山をきらきらと。露が、光を吸っていた。
だから、俺は聞き分けのいい振りをして。
「なぁ、俺はたぶん結婚とかすんだろうよ…親に子供抱かせてやりてぇし、それにもうすぐ親父の三回忌だ」
コーヒー飲み干しながら、紙コップの蓋を眺めていた。大人しく聞く芳樹が、不憫に思えて。それでいて、俺はたぶん正しいことをしようとしているのだろうと。そんなくそみたいな心持ちで、電車がまだ来ないと愚痴りたくなって。
「ふざけてんのか」
「違ぇよ、んなの違ぇって」
俺とこいつなら、そこそこだろう。
なんせ仲間内じゃ一番長い付き合いだから、地元の奴らとはまた違って。
昔は不思議だった、結婚してる奴らがどんな風に馴れ初めるんだろうかって、俺の周りじゃしっくりなんてこない。
誰かが遠出して、そんで妥協するとか、そんなようなことを言っていたもんで。そこそこだった、俺たちは。逃げちまえるんだろう、家族捨てられるぐらいには本気になれば。
「_おまえこそ、分かってんのか」
そこそこなら、いつか破綻もする。
運が良ければいいだろうけれど、俺はそんなタマじゃない。十年後は知る由もなく、モー娘がババアになるまでは社会だってタマじゃない。芳樹もふらふらする質だし、鶴来の寒さもきっと耐えられやしない。ハンドクリームをいつでも持ってる訳ではなかった。
「それは、俺のようなやつって…」
他人の、その口紅を塗らせたくはないだろう。
「そういう意味じゃねぇ、なぁおまえ、俺以外は誰だ_?」
穴は根本締め付けるも、窮屈でも。それは広がっていくのが、早かった。飲み込むようなこと、男をよく知らないやつはもっと。それこそ、口紅投げ捨てた先輩なんかは、すぐ固くなるもんでいた。
「やっぱり、川に心中しとけば良かったよ。ああくそったれ」
「なぁに、不毛なこと言ってんだ」
「おまえこそ、…いやおまえがフラれた理由がわかった。たった今な」
「可愛いもんだと思えよ、それぐらい。俺は…そうだな、おまえみてぇには成れねぇしよ」
飲んでいたコーヒーを掠め取られて、飲み干されてしまった。紙コップの底に、縁取りよく少し、コーヒーが残っている。そいつが口紅と共に、浮かんで。
「俺、」
待合室にアナウンスが流れ始めていた。
「_おまえで、童貞卒業したかったわ」
マスクしている芳樹が、笑ったように見えた。電車のレールを走る音が、がたがたと聞こえて。
「残念だな、男はノーカンなんだぜ」
間もなく出発時刻だと。
笑ったように見えたせいで、急に気が抜けて。尿意が迫り上がってくるもんだから、じたばたと。
芳樹の肩を思いっきり、紙コップ持ってない方の手で掴んだ。
「やべぇ、小便行きてぇ」
「は?え、まじかよ」
「この駅って」
「ないわ、もう来るぞ電車」
「因みに次は…」
「二時間後だ」
片方の手に、紙コップ。
ふたりで顔見合わせて、ぽつり。明け方の始発は、誰もいやしない。待合室すらも、無人駅じゃ誰も。ブレーキ音と、風が抜けて。芳樹は、待合室の外へと顔を向けて見渡せば、馬鹿らしく。
「ほんと、おまえには付き合い切れねぇよ」
チャックに挟まないよう気をつけてながら、尿検査の要領で。
下半身丸出し、みっともなく。
そんでもって、外見張る芳樹に向けて叫んだ。
「俺は、謝んねぇぞ‼︎」
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