三十九 皓夜と由良

 真っ黒に、染まっていた。

 常盤色は見る影もなく、ぐしゃぐしゃに乱れて。

 近頃日に焼けてきたとはいえ白くて、細い腕にも黒い土がまとわりついていた。

 草鞋は脱げて、片足ははだしになっていた。

 肩の上で短くぶつりと断ち切られた髪が、顔に深い影を落としている。

 斜面から這い上がってきたばかりで、地面にうつぶせていて。

 泥にまみれて落ち葉や草や枝がはりついた背中が、荒い呼吸で大きく上下している。

 その姿を見た瞬間、気が遠くなった。

 目の前がちかちかして、身体の中心が燃えるように熱くなって、立っていられなくなる。

 倒れそうになるのをなんとかこらえて、一歩、近づく。

 「由良ゆら、さん」

 いる。

 由良がいた。

 生きていた。

 ちゃんと生きている。

 待っていてくれた。

 由良が顔をあげる。

 蒼白な顔は泥にまみれて、紅をさした唇だけが異様に赤かった。

 由良は笑う。

 やっとここまで来たと言うような、達成感に満ちた、ひどくかなしい顔だった。

 その手には、短刀が握られていた。髪を切って、その選択のためにきっと、買ったのだ。

 「皓夜こうやさん」

 由良が声を発した。

 ずいぶんかすれていた。

 「どうして、こんなところに」

 うしろでは、先に山に入って由良を捜してくれていた護国府ごこくふの役人たちや、近所の人たちが見守っている。誰かいたと叫んでくれたので、皓夜は駆けつけてきたのだ。

 「何をして、いるのですか……?」

 全身を重たい真っ黒な泥で染めて、由良は微笑んでいる。

 皓夜は湿った地面に膝をついた。

 「汚れ、ますよ……」

 そう言った由良の身体を引き寄せる。立ち上がればそのまま走りだせるようにして、抱え込む。

 由良は動かなかった。

 ぬるりとした土はなまあたたかくて、由良が身体じゅう、血にまみれているみたいだった。

 その感触が、皓夜の筒袖と袴をじっとりと濡らしていく。

 「きたない、です」

 由良が消えそうな声でつぶやいた。

 身体はぴくりとも動かなかった。

 皓夜を拒むことも、受け入れることもしなかった。腕はだらりと垂れたままだ。

 「あなたが、こんなに、汚れています。離してください」

 皓夜は黙って由良の手から短刀を引き抜こうとした。

 そのとき、力が入っていなかった由良の手に信じられないような力がこもる。

 「由良さんだめだ」

 由良を片手で抱えたまま短刀を引っ張る。由良は激しく首を振りながら全身で短刀にすがりついていた。

 「かえして、ください」

 由良は暴れた。

 「もうしなないと」

 皓夜は乱暴に短刀を取り上げて斜面の下に投げ込んだ。

 追いかけようと身を乗り出す由良が、また斜面に落ちていきそうになる。

 強く引き寄せて掻き抱いた。

 由良が抗おうとする。かすかな悲鳴のような声で言う。

 「だめ、です、どこでやっても、誰かに、迷惑なのです。だからなるべく人から、離れないと、こんな、近くに」

 どんなに暴れたって離さない。離れてなんていかせない。ぬるい土の感触の向こうに、ちゃんと由良がいることを確かめる。

 「今度は、落ちても、のぼってこられました。ちゃんとのぼって、死ぬはずだったから、だからもう」

 斜面をのぼれず死ねなかった由良はまた落ちてしまって、今度はのぼってきたのだ。

 こんなに泥だらけになってぼろぼろになるまで力を尽くして、そのあと死のうとした。

 でも、由良はまだちゃんと生きている。

 だいじょうぶ、生きている。

 ちゃんと生きている。

 待っていてくれた。

 「もう、離してください」

 腕に冷たい指が触れて、一瞬のためらいのあとにぐっと爪が立てられる。痛くなんかなかった。

 「嫌だ」

 ぎゅっと力を込めて、抱きすくめる。

 「絶対離さない」

 「いや……っ」

 由良が臓物を絞られたような声をあげる。

 「迎えに来たんだ」

 皓夜は言った。

 「待っててくれて、生きててくれてありがとう」

 由良の肩口に顔を寄せる。

 「行くよ」

 「いやっ、だめ……」

 由良が腕の中でのたうち回るように動く。

 「わたしは、逃げません。もうだめ、です」

 喉をひっかいて声を出しているみたいに、痛々しい。

 「もう、けりを、つけないと」

 由良が宙に手を伸ばす。

 皓夜はその手を掴んだ。

 由良がほとんど声になっていない叫びをあげる。

 「だめ、離してっ」

 「無理だ」

 離さない。

 「逃げるんだよ。もういいから」

 「だめ……」

 「うん。だからおれが連れて行く」

 皓夜は腕の力を緩めないまま言った。

 「ここから逃がすよ」

 しっかりつかまえて、このままどこにでも連れて行く。

 「おれと一緒に来て」

 掴んだ由良の腕から、するりと力みが抜ける。

 でも離さない。

 「おれと一緒に生きて」

 由良は動かなくなった。

 それでも抱き込んだまま願う。

 「一緒に生きてくれ、おれとずっと。空の下にいれば一緒とかそういうのじゃなくて、ずっと横にいさせてほしいし、いてほしいんだ」

 柔らかい風に包まれる。

 業突く張りだな、と笑える。

 さっき、待っててくれたら何もいらないって思っていたのに、一緒に生きてくれなんて要求をしている。

 でも仕方ない、そのために迎えに来たから。

 連れ出しに来たから。

 「でも……逃げられない……逃げたくない……」

 由良が声を震わせる。身体も小刻みに震えている。

 だいじょうぶだ。だいじょうぶ。

 「もういいよ。あなたより大事なもの、この世にないから。全部ほっぽりだして。全部捨てていいよ」

 おれのせいだから。

 「全部たいしたことないから。あなたに比べたら全然」

 信じないと思うけど、本気でそう思っているやつがいることだけ、絶対忘れないで。

 「そんなにまっすぐでなくていい。かわして流れて」

 なんでもまっすぐ見つめて、まともにぶつかってはだめだ。

 避けてかわして、曲がって流れていっていい。

 そうやって逃げなければいけない。

 怖気づいてしまうと思う。まっすぐな人は、そんなふうにすることが怖いはずだ。きっと自分が自分ではなくなる気がするのだろう。

 でも、だいじょうぶだ。

 「だいじょうぶだ。全部だいじょうぶなんだよ」

 苦しんでまで、命を削ってまで、向き合わなければならないことも立ち向かわなければならないことも貫き通さなければならないこともない。そうやった末に命を捨てるべきこともない。

 何もない。

 だってそんなことをしたら、一緒に生きられなくなる。

 一緒に生きるはずの人と出会えなくなる。

 それは由良が教えてくれたことだ。

 由良が細かく首を振った。

 「じゃあ逃げて、ください」

 息苦しさをこらえるように言う。

 「ここ、から」

 何を言われたって離さないって、決めている。

 「逃げろって言って、流れろって、言っているのに、これはおかしい、です」

 由良を捕まえて離さないことが。

 由良と真正面からぶつかろうとしていることが。

 「おかしくない」

 皓夜は言い切った。

 本当は逃げ出したいのに、消えてしまうとわかっていて、破滅するために、向き合って立ち向かって貫き通しているんじゃない。

 「生きたいから離さないんだ。あなたと生きたいからだよ。あなたからは逃げない」

 届いてほしいと祈った。信じてもらえなくても、せめて言葉の形だけでも受け取ってくれと願った。

 そのとき、筒袖の合わせを掴まれる。

 弱くてすぐ離れていきそうな力で握られた。

 「いきたい」

 由良が言った。

 生まれたばかりの、蜉蝣のようなはかない声が、もっと強く訴えられるように。

 皓夜はその左手を包んでしっかり襟元を握らせる。

 「ん?」

 そっと聞き返す。

 初めて呼吸する人みたいに何度も息を吸って、やっと話せるようになった由良が、言った。

 「いきたい、わたしもあなたと、あなたといきたい」

 今にも泣きだしそうな声に皓夜はしっかりとうなずいた。

 「あなたと一緒に生きたい、ずっと」

 由良の左手にぎゅっと力がこもる。

 じわりと胸の中に、あたたかい波が広がる。全身が満たされる。もうどこまでだって走っていける。

 そのとき、聞きなれた声がした。

 「由良姉ちゃん!」

 人々のうしろから一鷹いちたかが走り出てくる。すごい勢いで駆け寄ってきた一鷹は、皓夜にどしんと飛びついてきた。

 「由良姉ちゃん由良姉ちゃん由良姉ちゃん!」

 皓夜ごと由良を抱きしめた一鷹は、何度も何度も叫んだ。

 「なんでいきなりいなくなるの? 心配したんだよ? 死んじゃうかと思ったんだよ? 死んじゃったかと思ったんだよ?」

 一鷹は皓夜の背中を叩きながら、泣きながら怒っていた。

 「謝らないで! ごめんなさいとかいらないから約束して! 長生きするって約束して! ずっと、ずっとずっと由良姉ちゃんだって約束して!」

 人がいつか死んでしまうことを、一鷹は知っている。どんなに大切でも、長生きしてくれるとは限らないこともよく知っている。そんなことを思い知らされる場所に、一鷹はいたからだ。

 でも、約束させようとしていた。

 由良に、生きると誓わせようとしている。

 「ねえ絶対! 嫌だはなし! もしできたらとかもなし! 絶対に約束!」

 一鷹は地団駄を踏んでわめき散らしている。

 不意に、由良が右手を伸ばした。

 一鷹が宝物を見つけたように飛びついて、でもそっと握りしめる。

 「ありがとう一鷹さん」

 由良は少し湿って、柔らかい声で言った。

 「うん」

 一鷹が涙をためたまま口をとがらせてうなずく。

 「約束します」

 由良の言葉に一鷹は顔を歪めた。

 「破ったら許さないよ! 呪うよ! 祟るよ!」

 「それは怖いですね……」

 「だったら絶対守るの。わかった?」

 由良が言葉にならない声をあげてこくりとうなずいた。

 皓夜が由良を抱えて、一鷹が皓夜の背中に覆いかぶさって、しばらく三人でそうしていた。

 あたたかくて心地よかった。




 少し経ってから、皓夜は痛いくらいだったはずの腕の力を緩めた。

 由良の顔を見る。

 泥が涙で流れている。黒い涙が流れている。

 額が触れ合うほどの距離で、視線が結び合う。

 潤んできらめく黒蝶真珠が皓夜を映す。

 自然と、笑みが零れた。

 由良も、泣きながら不器用に笑った。

 小さくて尊い、若葉が芽吹くのを見た気がした。

 由良が頬の泥と涙を拭う。

 髪は短くなってしまったけれど、由良だった。

 前よりも、きれいな気がした。

 でもやっぱり、ひとつ気になる。

 「なあそれ、取ってもいいか?」

 「えっ?」

 返事は待たなかった。

 両腕でしっかり抱えたまま、見開かれた目に顔を寄せて、唇でそっと紅を拭い去る。柔らかくて団子みたいだった。

 鮮やかに赤い紅は、由良には必要ないと思う。そのままで、そのままがいいと思う。

 離れると、紅が取れた由良は石像のようにかたまっていた。

 その顔がみるみる赤くなっていく。

 赤く。

 「あっ?」

 そのとき皓夜は閃光が走るように理解した。

 あっ? ではなくて。

 今、とんでもなくひどいことを……したかもしれない。いやした。

 みずからのあまりの横暴に頭が爆発しそうになったとき、横からすっと何かが割り込んできた。

 一鷹だった。

 一鷹は手拭いで、紅を塗ったくらい真っ赤な由良の顔を拭き始める。残っていた泥がきれいに取り去られていく。

 呆然と眺めていると、一鷹は皓夜を見てふわりと笑った。額に青筋のようなものが見えた。

 「うしろの人が手拭い渡してくれたの。由良姉ちゃんの顔、拭いてあげなって」

 うしろの人。

 振り向くと、少し遠くから人々が心配そうに見守ってくれていた。

 目元を拭っている人もいる。

 まったく知らないのに、助けてくれた人たちだ。

 こんな人たちがいたおかげで、由良をつなぎとめられた。

 勝手に唇が震え出す。鼻がひくりと動いて、目の前がかすんだ。

 「おいだいじょうぶかい?」

 「無事だったみたいだね」

 「よかったです」

 「本当によかったねえ」

 人々がそばに寄ってきて、声をかけてくれた。

 「ありがとうございます……」

 皓夜は頭を下げた。

 由良も皓夜の腕からおりて深く頭を垂れる。

 「お世話をかけました。申し訳ありません」

 「まったくだよ!」

 一鷹が足を踏み鳴らして怒る。

 「そうだね、びっくりしたね」

 「でも無事だったならよかったじゃないですか」

 「どろどろだね、うちで風呂入っていきなよ」

 「うん、で、あんちゃんはとりあえず口を拭きなさい」

 手拭いを渡される。

 「ついてるからさ、紅」

 頭が沸騰する。

 噴火のような勢いで笑われた。

 「ちょっとむかつくよな!」

 「いやかなり腹立つ!」

 「めちゃくちゃ引く!」

 「ほんとほんと、こっちは本気で心配してるのに」

 「ふたりの世界に行っちゃうんだから」

 「女の子の気持ちも考えてください、ねえ?」

 「公衆の面前であれはな」

 「捕まえましょうか?」

 役人が言う。皓夜は両手を差し出した。

 もういっそそうしてください。

 「冗談ですよ!」

 「いやあ若いね、めでたいね!」

 「おめでたいってことでいいんでしょ?」

 「いいよあれでめでたくなかったら三日三晩殴る」

 「怖……」

 「なんか感動しちゃったわあ」

 「弥栄でもやるか!」

 誰かが言って、手拍子が始まった。

 「このめおとは皓夜と由良です!」

 一鷹が怒鳴る。

 「よしわかった!」


 弥栄を弥栄を弥栄を

 皓夜と由良の弥栄を

 弥栄を弥栄を弥栄を


 山の中に、祈りの歌がこだまする。

 人々は笑顔で歌ってくれていた。

 一鷹も楽しそうに飛び跳ねている。

 あふれてきた涙はちっとも止まってくれなかった。

 隣を見ると、由良も皓夜を見ていた。

 透明に揺らめく視界の中で、由良は痛みをにじませて微笑んだ。

 だいじょうぶ。

 まだ、心から納得できなくてもいい。

 いいけれど、絶対に離さない。

 一緒に生きる。

 皓夜はそっと由良の背中に腕をまわした。しばらくの間のあと、由良は控えめに寄り添ってくれた。

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