六曲目 夜明けと祈り

三十八 予感と自惚れ

 まぶたの向こうに、白い光を感じる。朝が来たらしい。皓夜こうやは目を閉じたまま一度伸びをして、一気に起き上がった。障子が朝日をいったん受け止めてから通していて、部屋の中はやわらかい明るさに包まれていた。

 いちたかが足元で転がっている。しかたないなと笑ってしまって、ふと横を見る。いちたかがいた皓夜の隣の、その向こうで寝ていたはずの由良ゆらがいなかった。

 由良が横になっていた場所には、きれいにたたまれた萌黄色の小袖と、緑色の、かたちの整えられた包みが置いてある。皓夜は黙っていちたかを揺さぶった。

「むぅう? なに……?」

 寝ぼけた声を出しながら起き上がったいちたかにたずねる。

「由良さん知らないか?」

 いちたかは壁に寄りかかり、目をこすりながら首を傾げた。

「いないの? 厠じゃない?」

 皓夜は立ち上がり、戸を開けてみた。朝早い宿の廊下は、がらんとしていた。

「由良さん……?」

 声が寂しい廊下に吸い込まれる。

「どしたの皓夜兄ちゃん。厠まで追いかけるのはさすがにだめだよ」

 振り返ると、着ているものを寝相でめちゃくちゃにしたいちたかが立っていた。目を細め眉を寄せている。

「いや、それはしないけど」

 戸を閉めて、とりあえず部屋の中に引っ込む。こぢんまりと片づけられた荷物がまた、目に入る。

「きれいにするよね」

 いちたかがぽつりと言った。

「由良姉ちゃんはいつもそうだったね」

 いま、なんて。

 いま。

「ん? どしたの?」

 いちたかが無邪気な様子でのぞき込んでくる。皓夜はその肩を掴んでいた。

 致命的な何かが、止めようもなく迫っているのを感じた。萌える草原が、じりじりと焼き尽くされていくみたいに。

「皓夜兄ちゃん?」

 戸惑って何度もまばたきするいちたかを凝視する。

「いちたか」

「何?」

「なんでいま」

 皓夜はいちたかの肩を離して、部屋を出た。

「えっ? 皓夜兄ちゃん? どうしたの、待って!」

 いちたかが困り果てたように言いながら追いすがってくる。

「寝ぼけてるんじゃない? ほら! 起きて!」

 腕にしがみついたいちたかが皓夜を思い切り引っ張る。がくんと頭が揺れる。

「えっほんとに揺れた……」

 いちたかが面食らったようにつぶやく。皓夜はかがんでいちたかと目を合わせた。

「由良さんを捜してくる」

 いちたかが目をむいた。

「なんで? だから厠だって!」

「荷物が」

「荷物?」

「もう戻ってこないみたいに」

 口に出すと、ぞくりと寒気がした。言ってはいけなかったのかもしれない。そんな、縁起でもない言葉を発してはいけなかったのかもしれない。何かに上から引っ張られるように立ち上がった。指先から血が抜けていくような心地がする。喉元を冷えた指になぞられているような気がする。

 だめだ。これはだめだ。すぐにでも見つけないと、取り返しのつかないことになる。そんな予感がした。駆けだそうとしたとき、いちたかが言った。

「由良姉ちゃん」

 小さな声で、いちたかはつぶやく。

「言ってくれなかった。長生きしてねって言ったとき、するって言ってくれなかった」

 もし、できたら。

 由良の澄んだ声が、そのときはとくに気に留めなかった言葉が、唐突によみがえって頭の中に響く。由良ではないような、でも確かに由良から出た言葉だった。

 はっきりとわかった。あのひとは、逃げることができない。消えてしまう。

 目の前が白くなる。真っ白になる。

「見つけなきゃ!」

 気がつくと、いちたかに手を引かれていた。いちたかは強く皓夜の手を握る。

「何やってるの? 早く行くよ!」

 大きな目にまっすぐ射抜かれる。皓夜はなんとか正気に戻った。

 早く行かなければ。

 見つけなければ。

 


 宿を出て、いちたかと反対側に走り出した。幼いいちたかをひとりにすることはためらわれたが、馬鹿にしないでよと蹴られた。

 護国府ごこくふの詰所がときどきあるから、そこに手伝ってもらって連絡も取り合えるだろうといちたかは言い放ってきた。まず手近な詰所に飛び込んで、いますぐ見つけなければならないひとを捜していると訴えると、協力すると言ってもらえた。朝早い行商人たちが歩く於慈佳おじかの町を、走っていく。




***




 由良は遠くへ、いこうとしている。それなのに荷物を置いていったのは、すぐに戻ってくると思わせるためだろう。それにもう、必要ないと考えている。

 皓夜は山を目指して駆けていた。飛び込んだ店で、山のほうへ行く女人がいたと教えてもらったのだ。紅緋の小袖を着ていたらしい。それはきっと由良だと思った。皓夜はとにかく走った。早朝からずっと走りどおしだが何も気にならなかった。


 由良はいつごろ、部屋を出て行ったのだろう。まったく気がつかなかった。のんきに寝ていた。

 思えば由良は昨日の夜、早く寝たいと言って皓夜の話も聞かずに寝てしまった。おかしかった。何か変だと気づいていたはずだった。でも皓夜は、己の気持ちで精一杯だった。

 でもやっぱり、前から、気づいていた。全部知っていたのだ。何かがおかしいと、ずっと思っていた。それは由良が通ってきた過去のせいではないかと考えていた。やはりそうだった。来し方を話すとき、由良は笑みを浮かべていた。ひとりだけ助かってしまった、ひとを身代わりにして生き残ってしまったと言いながら、静かに薄暗い、笑みを浮かべていた。

 でももうだいじょうぶ、己が生きることをみんな望んでくれていると思えると言った。連波つらなみで、もういないひとのぶんも生きると言った。

 そう言いながら、由良はどこかべつの場所をずっと見つめている気がした。あこがれているように見えた。だからなんとなく不安で。猪頭いがしらの蕎麦屋で、笑っているのを見たときに耐えられなくなった。だから言った。

 そこから逃げよう、一緒に生きてくれるか。

 そうしたら由良は、うなずいてくれた。とてもしあわせそうに微笑んで、こたえてくれた。だから安心してしまった。慢心してしまった。

 己がいるから、いちたかがいるから、由良はちゃんと生きていてくれる。ずっと一緒に生きてくれる。己は由良にとって、それだけの存在だと自惚れた。

 なんて間抜けで、なんて馬鹿で、なんて愚かだ。

 

 見えていたのに。

 於慈佳の浜で、夕焼けの淡紅に染まっていた。

 うるわしく、気高い姿だった。

 海に手を伸ばして、何も掴もうとしないで、その手をすぐに引っ込めた。振り返ると星が飛ぶように笑って、萩畑が見たいと言って。演奏がしたいと言って。しあわせそうに笛を聞いていて。紅を引いた唇が器用に動いて、皓夜の言葉をさえぎった。

 近頃の由良は、浮世離れしたような、この世のものではないようなところがあった。ふわふわと浮かぶ羽のように花弁のようにきれいで。そう見えることを、喜んでしまっていた。

 愚か者だ。

 大馬鹿者だ。

 それは由良の、叫びだったかもしれないのに。

 由良は、由良も、罪悪感と責任感で自身を苛んでいるのだ。それは誰かに言われたからではなく、己で勝手にやっているのだ。そうしなければならないと思い込んでいる。そしてそこから、逃げられずにいる。

 王女なのに、ひとりだけ助かってしまったから。守るべきひとを身代わりにして生き残ってしまったから。

 いなくなれって。

 鬱陶しい、そういうやつ嫌いだって。

 いなくなれと、思っている。

 無意識にそうやって己を責めて、認められない皓夜に、そっと手を差し伸べてくれたのは、由良なのに。

 潰れそうなのに、本当にそれを選びたいわけでは、ないのに。

 信じては、いけなかった。己がつなぎとめられると、簡単に信じてはいけなかった。もっとなりふり構わず手を伸ばして、掴んで離さずに抱え込んで、そのまま全力で走って逃げればよかった。

 一度だけ、聞けたからといって。一緒に生きると、聞けたからといって、手を、ゆるめてしまった。でも思い出すと、あのひとの言葉は、何かが違った。

 

 はい、かなう限りあなたと、一緒にいきます。


 逃げて。

 お願い、逃げて。

 お願いだから、頼むから。

 逃げて。

 いまも一緒に生きているでしょう、嘘はついていませんよとか。

 同じ時間を過ごして、かなう限りは一緒に生きましたよとか。

 そんなふうに言って笑うつもりですか。

 違う、そんなんじゃない。


 お願い、逃げられないならそこで止まって。

 逃げ出すことも、苦しくて難しくて、ひとりじゃできないから、あなたはきっと認められないんだろうから、だから一緒に。

 一緒にやるから、お願い。

 おれが行くから待っていて。

 今度こそ絶対離さないから。

 逃がすから。

 いやだって暴れても、殺されたって、いかせてやらない。

 待っていて。

 お願い、それだけだ。

 それだけだから。


 いま迎えに行く。

 行くから待っていて。

 なんでもいい。

 待っていてくれたら、ほかにはもう、何もいらない。 

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