五曲目 夢
三十七
ゆっくりと身を起こす。
音を立てないようにそっと。
明かりのない部屋の中でも、ずっと目を開けていたから慣れてしまって、部屋の隅まで見える。
起き上がった
小袖を丁寧にたたんで、床に置く。
それからそばに置いてあった青い布の中身を取り出す。この青い布は古着屋の店主がおまけしてくれたもので、異国の衣だとあの人は言っていた。夏の空のような色をして、するするした手触りのこの布も、由良は気に入っていた。
布に包んでいたのは、櫛笥の町で買ったつげの櫛と手ぬぐいと足袋、竹の水筒、自分で選んだ萌黄色の小袖、
それから、
皓夜が、会った日の夜に作ってくれたお粥はとてもおいしかった。
でも、お椀がひとつしかなくて、皓夜は鍋の蓋の裏を使って食べていた。それが申し訳なかったから、このお椀を見つけたときに欲しいと思ってしまったのだ。
お椀はすべすべとなめらかで、匙は使いやすいように柔らかな曲線を描いている。
これからも、皓夜と一鷹のふたりで使ってほしいと願いながら、それだけを布に包みなおす。
残りのものは萌黄の小袖にくるんだ。
そばで寝ている一鷹を見る。
仰向けになって手足を豪快に広げた一鷹は、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。枕元には、気に入っている風車があった。
その額にそっと触れる。
一鷹は少しだけ口を動かしたけれど、目を覚ますことはなく、気持ちよさそうに眠っていた。
穏やかな夢を見ていてほしい。
ずっとこんなふうに、安心して眠れる日が続けばいい。
一鷹は、しっかりしているし優しいし、よく気が付く子だ。
でもまだ八つだ。
これからも皓夜や、周りの人にたくさん甘えて頼って、すくすく大きくなってほしい。一鷹が望むような、かっこいい人になれたらいい。
もうじゅうぶん、すてきだと思うけれど。
由良は我知らず笑みを浮かべていた。
一鷹と最初に会ったのは、櫛笥の町だったと思いだす。
皓夜にぶつかって、財布を盗もうとしていた。
由良はそれに気づかなかったから、皓夜が一鷹の腕を捕まえて放さなかったときすっかり驚いてしまった。一鷹は泣きながら盗もうとしたことを謝って、財布を返した。それから自分を役人に突き出せと言った。
正直で、まっすぐな子なのだなと思った。やりたくて盗みを働いているのではないのだとわかった。
一緒に旅をするようになった一鷹は、最初は遠慮がちだったけれどだんだん年相応のかわいらしさを見せてくれるようになった。話し方も幼くなって、由良姉ちゃん、と呼んでくれた。甘えて慕ってくれているみたいでうれしかった。
悲しいことや苦しいことに年齢など関係ない。
でも、生まれて十年も経っていないのにひとりきりになった一鷹は、とても心細かっただろう。悲しくて苦しかっただろう。いろいろなつらい瞬間をひとりで乗り越えなければならなかったはずだ。喜ばしいときも、隣で分かち合いたい人はもういなくて。それでも明るく生き抜こうとしている一鷹はたくましくて、眩しくて、少しかなしくて。
だから、皓夜が死んでしまうと泣きじゃくっていたときは、どこかほっとした。
父親をなくした一鷹は、本当は怖くてたまらないのだと思う。
大切な人が弱っていくこと、いなくなってしまうこと。
死が。
でもそれを見せずにこらえてきたのだ。
きっと見せられる相手もいなかった。
それを、さらけ出してくれて。怖い、嫌だと言ってくれて、よかったと思った。
空気みたいにそっと、頬を撫でる。
これからも、ひとりで抱え込もうとしないで。
吐き出して逃げ出して。
必ずそうして、あなたのまま、しあわせになって。
明るく人を照らせるのに、おかしなところで大人の顔を見せて、でもやっぱり素直できらきら輝く、おひさま。
弟のように思っていた。
かっこいい人になって、あの子にまた会いに行ってほしい。
あたたかい、混じりけのない思いを注いでいるあの子に。
由良は一鷹の頬から手を離した。
柔らかい感触は指先に残った。ぎゅっと手を握りこむ。
立ち上がり、一鷹の隣の、皓夜の枕元に座った。
顔は見えない。
仰向けで寝ている人は仕方ないかもしれないけれど、わざわざ寝ている人の顔をのぞくのは失礼な気がする。
少し、残念だ。
ゆっくり動いている背中を見つめる。
近頃は、うしろを歩いてこの背中ばかり見ていた。
行李を背負って、ぴんと伸びた背中。
その姿にあこがれて、見とれていた。
こんな人は初めてだった。
そばにいるだけで、心がぱっと華やいで、深いところまで安らいで、ぎゅっと絞られるような人。ほんのひとときなのにさいごまで大切な瞬間が、宝玉のかけらに映ったように光りながら思い出される。
すらりとした牡鹿のような姿で、川の流れの前にたたずんでいたとき。
おいしいお粥を作ってくれて、自分は蓋の裏で食べていたとき。
歌ってほしいと頼まれてうなずいたら、きらりと目を輝かせてくれたとき。
優しくて穏やかで、どこか寂しい笛の音を聞いたとき。
笛を吹く横顔と、音を確かめるように閉じていた目を開く瞬間を見たとき。
初めて人前で歌うことに緊張していたら、おかしな顔をして笑わせてくれたとき。
自分の歌が、笛の音色ととけ合ったと感じられたとき。
ときどき見せるほんの少し陰った笑顔を見て、自分と同じものを感じた、とき。
皓夜は由良を拾ってくれた。
一鷹のことも拾った。
気さくで優しい人だと思った。口数が多いほうではないけれど、あたたかい人なのだとはわかる。ものすごく感情豊かではないけれど、ちゃんと笑顔も見せてくれる。
でも、皓夜の笑顔にはどこか影があった。
薄暗い何かが絶えずついて回っているような感じがした。
最初は、自分と似ていると思ったのだ。この人のことならわかるかもしれない、この人ならわかってくれるかもしれないと無意識に感じていたのだと思う。
皓夜は一鷹に言った。
ひとりでいてほしくない、と言った。
おれが嫌だから。
皓夜は一鷹にしたみたいに、由良にしてくれたみたいに、誰かのことをふわりとすくいあげられる人だ。
自分は薄暗い何かを抱えていても。
そんな皓夜は、「羽衣座」に雇われた男たちには容赦をしなかった。
本当に殺してしまうのではないかと思った。
とても冷たい目をしていたから。
冷え切って、凍り切って、今にも割れてしまいそうだったから。
勝手なことだけれど、そんなに寒いところにいないでほしいと思った。
優しい人だから。
そこから離れてほしかった。
その冷たい場所は、どんなところなのかちゃんと知りたいと思った。
だからあの洞穴の中でたずねた。
皓夜は教えてくれた。
淡々と話して、話し終わるころには震えていた。
それは見えていたけれど、止めたいと思ったけれど、勝手に踏み込んだ自分はそんなことをしてはいけないと思ったし、止めることもできないと思った。
でも、伝えた。
素直に思ったことだけ、精一杯明るく伝えた。
逃げてきてくれて、会ってくれて、ありがとうございます。
皓夜は、笑ってくれた。
由良にも、聞いてくれた。
言ってくれた。
会ってくれてありがとうと。
それから。
一緒に生きてくれるかと。
由良はもう、それだけでじゅうぶんだった。
ときどきなぜか暴力的にまっすぐになるこの人のその言葉に、人々が連想しがちな意味がないことはわかっている。
でも、うれしかった。
しあわせだと思った。
心臓がどきどき鳴って身体じゅう熱くなって手足が震えて、生きているな、と感じた。
ふわふわとする頭の中で思った。
違う、そういう意味じゃない。
この人が言っているのは、もっと素直に、ただ、一緒に生きるということだ。同じ空の下で、同じ時間を過ごして、一緒に、生きていくこと。
それなら、もしかして、そうたずねてくれるなら。
一緒に生きてもいいと、そういうことでいいのだろうか。
さいごの瞬間までは。
おもっていていいのだろうか。
そのときまでは、同じ時間を過ごしていると、あなたを感じていてもいいのですか。
奪い取るみたいに手を握ってくれた皓夜の手はあたたかかった。
影のない目はまっすぐ由良を見ていて、きれいだと思った。黒蝶真珠だと思った。
そう、その瞳で由良をとらえて、逃げろと言った。
お願いだからそこから逃げろ、死ぬなと言った。
由良は、わかった逃げる、死のうとなんてしていないとこたえた。
ごめんなさい。
あなたに、一鷹さんに、もう一度嘘を吐いてしまった。
かなう限り一緒にいきるとだけ、言ってしまった。
それはあと少しだけ、とは言えなかった。
わたしが
それが、飛迎最期の意地で、最期に遺せるたったひとつのものだった。
戦の始まりはどこか怪しいものだった。
飛迎側の外交を担当する
しかしそれは桜雲が絡んでいることが疑われるものだった。
礼司の身体には、精神を錯乱させる薬が残っていたのだ。礼司は恨みを買うような人でもなかった。
戦を始めるための、桜雲の罠だったのかもしれない。
王族たちはそう考え、そのような国に膝を折ることは決してないと誓っていた。
由良もそうだった。
でも、母がそれを許さなかった。
母は由良に、嫁入りのときに父親から授けられたという螺鈿の櫛を握らせた。
連波の王に届けるようにと命じた。
幼い由良のいとこたちも、それぞれに逃がしたと母は言った。
でも由良は十七で、王女だ。王の娘だ。
慈しんでくれた父は死んだ。守ってくれた兄は死んだ。美しいものもそうでないものも教えてくれた母は、これから死ぬ。みんな死ぬ。
それならともにいくと訴えた。
聞いてもらえなかった。
由良は王宮を追い出された。十のときからそばにいてくれる、ひとつ下の侍女の
いつ桜雲方に見つかるかわからなかったから、綾目はひどく怯えていて、由良は綾目をなだめるのに必死だった。
そうしていたとき、桜雲兵に見つかった。
頭が真っ白になった。
そのとき、それまで怖がって震えていた綾目が進み出て。
由良は突き飛ばされて斜面を転がって。
やがて朝が来た。
わけがわからなかった。
歩き続けた。
そのうちに、気づいた。
一族がみな逝った中、王女の身でひとりだけ生き残ってしまった。
それだけではない。
綾目を身代わりにしたのだ。
綾目を殺して生き延びたのだ。
綾目の命を踏みつけて、生きているのだ。
ああだめだ。
生きていてはだめだ。
でも、何も持っていなかった。
歩いているうちに、川にたどり着いた。
沈めるかな、と、川に手を浸していた。
冷たかった。
怖かった。
怖気がして、吐き気がした。
うねうねと蠢くみみずのようなものに、身体の内側から食い尽くされていくような気がした。
だから歌を歌った。
怖くない、怖くなんてないと。
上手く歌えなかった。
そうしているときに、皓夜が現れた。
死のうとしていたとは、言えなかった。
きっとそんなこと、できなかったし。
でもいつかは、と思った。
たったひとり生き残っている自分の命なんて、人の犠牲の上に成り立っている自分の命なんて、許されないと思ったから。
それならその前に、ちゃんと役目を果たそう。
母の言うとおり、連波に行こう。
祖父に櫛を渡して、そのあとに。
一鷹と皓夜と、別れたそのあとに。
誰にも言わずに、みなのもとにいく。
でもそれは、逃げているだけだった。先延ばしにしているだけだった。
怖いから。
口先だけで本当は覚悟なんてできていないから、だからあのときも、綾目が代わりに死ぬことになったのだ。
それはわかっていた。
それなのに、由良は癒されて、初めてのものを見て、笑って、惹かれて。
最初は自分でも驚くくらい明るく振る舞おうとしていたけれど、それはふりではなくなった。皓夜と歩いていておなかが鳴ってしまったときは、こんな自分なのに身体は生きようとしているのだとやりきれなくなったけれど、いつの間にか食べることは純粋に楽しいことに戻っていた。
でもだめだった。それはいけないことだった。
こんなのはうつつのことではないと気づいていた。
夢だ。優しすぎる、夢。
でももう、そんな夢はおしまいだ。
もう、おしまいにする。
じゅうぶんだから。
もう、たくさんたくさんもらって、もらいすぎたから。
いちばんきれいなものをもらってしまって、もう決心をしなければと思った。
あと少しだけ。そう、もうほんの少しだけ。それでおわり。
逃げろとあなたは言ってくれたけれど、生きろと言ってくれたけれど、わたしはそれが許せない。
逃げるわけにはいかない。
これは、この事実は、わたしが立ち向かわなければならなくて、向き合わなければならないことだ。
この、決めたことは、どうしたって貫き通さなければならないことだ。
あなたは、逃げたことを肯定できないと言っていた。
でもあなたは、絶対に逃げなければならない人だった。
でも、わたしは違う。
逃げるわけにはいかない。
逃げられない。
逃げない。
逃げたくない。
さいごは、さいごくらいは逃げなかったと言いたい。
皓夜は静かに眠っていた。
近頃はずっとうしろから眺めてきた背中に声もなくつぶやく。
あなたに会えてよかった。
あと少しだけ、一緒に生きてください。
そのとき、その背中が動いた。
はっと息をのんだ瞬間、皓夜がごろりと仰向けになる。
一気に力が抜けた。
寝返りを打っただけだ。
無防備な寝顔が見えて、由良は咄嗟に目をそらした。
でもやっぱり、少しだけ、見ておきたいかなと思う。もうすぐおしまいだから。
強欲だと思いながら、ゆっくり視線をずらしてしまう。
欲深かった。
さいごまで業突く張りだった。
海を見せてもらって、萩畑を見せてもらって、皓夜の笛を聞かせてもらって、合わせて歌って。
とてもとても、強欲だ。
目に映る。
閉じられたまぶたに、思いのほか長い睫毛。
なぜか一鷹に全部抜くと脅されていた凛々しい眉は、ちゃんと無事だ。
その顔が見えたとき、心の中で、花びらのような何かがほろりと零れる。
あなたがすき。
由良は皓夜の上にかがみこんでいた。
強くきらめく黒蝶真珠を隠したまぶたに、そっと、唇で触れかけて。
顔をあげる。
だめだ。
これはいけない。
こんな、人を殺めてのうのうと生きようとした自分が。
許せない。こんなこと許せない。
もう少しだけ一緒に生きてと言うだけでも図々しいのに、好きだなんて、こんなことをするなんて、欲心にも程がある。
それに。
これをしていいのは、この人が本当に、一緒に生きていく人だけだ。
いつか出会うその人は、誰よりもこの人をしあわせにしてくれる。
誰よりも、しあわせになれる。
どうか、いつか必ず。
出会えますように。
由良は立ち上がった。
荷物をくるんだ萌黄の小袖を抱えて、音もなく部屋を出た。
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