三十六 夕凪と星の丘
身体の中の、濁ったものがすべてさらわれて、きよらかなもので満たされる気がする。目の前の海からまっすぐに吹き寄せてくる風は、そのくらいさわやかで、まっさらで、心地よい。規則正しいながらはじけるような音と、心が躍るようでありつつ少し切ない香りと一緒に、吹き渡っている。
「海……」
いちたかがつぶやいた。
もう海見える? 明日見える? 今日見える? と待ちきれない様子だったいちたかは、実際に見ると転げまわって喜ぶのではないかと思っていた。でもいちたかは、じっと夕暮れの海を見つめて、味わっているようだった。手にした風車はくるくる回って、気持ちがよさそうだ。
空は
さくりと音がする。砂を踏みしめて、
由良の背中も、かすかにあまくほの暗い、夕日の色に染まっていた。その手が伸ばされる、海に向かって。そのとき、風がやんだ。由良の髪がふわりと舞って、すとんと背に流れる。
それは夕凪だった。由良が伸ばした手を握り込んで振り返る。輝かしいくらいに、笑っていた。
「きれいですね、海」
皓夜は夢を見るような心地でうなずいた。
「なんかにおいもするんだね」
いちたかが鼻をくんくんと動かしている。
「それですっごくいいにおいではないんだね」
皓夜は思わず笑った。確かに、少し生臭いとも言えるかもしれない。でもなんとも言えず懐かしい感じがして、皓夜はすきだった。
「嫌いじゃないけどね」
いちたかは鼻の穴を膨らませながら言った。戻ってきた由良がそれを見て、楽しそうに笑い出す。
「そうですね、これが海の匂いなんですね」
「音も大きいんだね! ずっと鳴ってるし」
「本当に、思ったよりも騒がしいかもしれません」
いちたかと由良は、くすくすと笑い合っている。
「明日はこの海の上に行けるんだね!」
「楽しみです」
足踏みをしてさくさくと音を立てながら、由良が言う。幼い子供のような様子に、思わず笑みがこぼれた。ふと、由良が顔を上げる。目が合うと、由良は慈しむように微笑んだ。そして交わった視線がほどけても、皓夜は目を離せなかった。
由良は、新雪の上を歩くように砂を踏んでいた。急に足をとられてよろけるので、皓夜は咄嗟に腕を伸ばして抱き留めた。
「ありがとうございます」
早口で言った由良はすぐに離れていって、それが少し、寂しい。覚えず追いかけようとしてしまって、皓夜はつんのめった。くるりと振り返った由良に受け止められる。
「皓夜さん。背が高いのですね」
その反応は、どちらかというと、さっきしてほしかった気がする。それに、足場がしっかりしていればかなりたくましいひとなのだ。油断していると負けてしまう、いや、負けるとは何ぞ。混乱した皓夜は早口でお礼を言って、すぐに由良から離れた。
ふと目に入ったいちたかは、砂にしゃがみ込んで膝の上に頬杖をつき、にやけていた。なんとなく腹が立って睨んでいると、ふいに由良が言った。
「萩畑に行きませんか?」
美萩野はもう最後なので。
圓さんが見たいとおっしゃっていたのでしょう。
きっといま、とてもきれいです。
わたしが見たいだけ、なのですが。
歌うような由良の声に、皓夜はうなずいた。
***
萩畑は、小高い丘の上だった。こぼれ落ちそうに満開の花をつけた細い枝が、濃紫の滝としなだれ、宵の風に揺れていた。ずっと見つめていれば、ふうわりとどこかへ、いざなわれそうで。
そこは羽衣座のみんなで、訪れるはずの場所だった。皓夜は萩畑を歩き回った。隅々まで見ておきたかった。みんなの代わりになんて言えない。でも、目に焼き付けようと思った。
丘を歩き回って暗くなって。星が見え始めて。由良が、ここで演奏したいと言った。いちたかが聞きたいと言った。皓夜は笛を吹いた。いつものように、「とこしえ」から。由良はなかなか歌い出さなかった。皓夜の笛にじっと耳を傾けているようだった。星の下の萩畑の中で、由良はしあわせそうに笛の音を聞いていた。
そのとき思った。
由良が望むのなら、いくらでも吹けると思った。吹きたいと思った。包み込むみたいに、いのちを吹き込むみたいに。祝福するように、ありがとうと伝えるように。
どうにかなりそうだと思った、あまりにしあわせな、時間だと思った。でも、由良にも歌ってほしい。由良の声が聞きたい。だから、片目を閉じて誘った。はじめて合奏したときみたいに。片目だけじゃなくて、ほとんど両目が閉じているわけだが。
由良はふきだして、でもうなずいてくれた。目を合わせて、始めようかと合図しあって。歌声と笛の音が重なった。結び合って、とけ合って、うつくしさを引き出し合って、ひとつになっていた。
ああこれがいいなと、思った。由良の音を支えるのは皓夜の音で、皓夜の音を支えるのは由良の音だった。それがいいと思った。あふれてきそうな感情は全部笛に込めて、己が驚いてしまうほどやわらかな、やさしい音を奏でた。目を閉じて、由良の音を聞いた。
清流のように、玻璃が触れ合って鳴るように、凛と澄んでいて。すずやかな風に、小鳥のようにかろやかに舞う、月白の花弁を思わせる声。まっすぐに、真ん中に届いて、染み込んでくる音だ。
ああこれがいい。このひとがいい。
このひとは、違う。
一緒に生きてくれますかと言って。大切なひとだと気づいて。
でもそれって、それは。
いちたかも、間違いなく大切なひとだ。
父も母も兄も、家のひとたちも。いままで出会ってきた、たくさんのひとたちも。
でもこのひとは。目の前で歌うこのひとは、少し違う。
違う。
このひとは。
皓夜は口から笛を離した。音がやんだことに気づいた由良が、小さく首を傾げる。
あなたは違うって。
とにかくあなたは違うって、思ったことを全部言おうとした。伝えたいと思って、その準備はすっかりできていた。もう何も怖いものなんかなかった。
あなたは、おれの中の、大切な、特別だ。
でも。
先に口をひらいたのは由良だった。そっとひとさし指を立てて黙らせてしまうように、由良は言った。
「皓夜さん、一緒に来てくださって、ありがとうございます」
皓夜は毒気を抜かれて黙り込んでしまった。そのあいだに由良は、いちたかに歩み寄って手を差し伸べた。
「いちたかさん、ありがとう」
いちたかは由良の手を取った。
「うん! 由良姉ちゃんもなかなかやるね!」
「そうですか? うれしいですね。……何がですか?」
「ん、いろいろだよ。……皓夜兄ちゃん、がんばってね?」
わざとらしく意地の悪い笑みを浮かべたいちたかを見て、皓夜は顔をしかめた。
「何言ってるんだ?」
「ちゃんとやろうとしたんでしょ。おれは応援してるからね?」
「……じゃあ、ちょっと黙りなさい」
「うわあ、怖いよぉ」
いちたかが逃げ出すので、皓夜はそのあとを追いかけた。いちたかはけらけら笑いながら、萩のあいだを器用に逃げ回った。由良も声を上げて笑っていた。失敬だなと思っていたが、なんだかおかしくなってきて、皓夜も笑った。
風が凪いだとき。夢から覚めるように、力尽きたように背中に流れた黒髪も。淡い紅に浸されたほそやかな背中も、すぐに離れていったしなやかな手も。真珠のように光って潤む瞳も、すきとおって風の中へとけていく声も。
うつくしかった。
気高くうるわしかった。
あまりにも。
皓夜はただ、その姿を見つめていただけだった。
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