三十五 今夜と明日

 猪頭いがしらを出て四日、日が沈むころに、於慈佳おじかにたどり着いた。夕刻の於慈佳の町には、蛍の光のような丸い提灯の明かりがともされていた。提灯は建物の屋根同士をつなぐようにつるされていて、何もないのに祭りの日みたいだった。

 宿の部屋に入って小銭を数えると、三人で船に乗るのにもじゅうぶんだった。明日には船で、海に出る。その海は、さっき見てきた。満開の萩畑も見てきた。きれいだった。海も、萩の花も。きれいだった。

 由良ゆらは、ぐっすり寝ているいちたかを見守っている。さっきまで字の練習をしていたのだが、いちたかが力尽きてしまったらしい。由良はいちたかにそっと小袖をかけてから、皓夜こうやの前にやってきて座った。

「今日も、おつかれさまです」

 由良が微笑んで言う。由良の笑顔は、いつでもとてもあたたかい。部屋を照らしているろうそくの明かりみたいに、見ているとやすらぐ。それなのに少し前からとくに、どうしようもなく揺さぶられる心地がするようになって、情緒が大変忙しい。

「おつかれさまです」

 皓夜は何気ないふうに笑い返して、小銭を袋に戻していった。それを見ていた由良がつぶやいた。

「演奏、たくさんのかたが、喜んでくれましたね」

 皓夜はうなずいた。由良はいとおしむように続ける。

「それにお金だけではなくて、たくさんいただきました」

「そうですね、団子とか握り飯とか果物とか……」

「笑顔とか、ありがとうとか」

「あ、そっち」

「はい。でもお団子もおむすびも果物も、もちろんとてもうれしかったです」

 顔を見合わせて、ふきだしてしまった。一緒に笑っていると、いまかもしれないと思った。いま。ふと、微笑んだままの由良が言う。

「明日からは船旅ですね。もう休みましょう」

「由良さん」

 皓夜は返事の代わりに由良を呼んで、まっすぐに見た。もう寝るのはいいが、その前に、言いたいことがある。由良は、目を伏せたまま皓夜を見なかった。かまわない。見てほしいのではない。皓夜は口をひらいた。

「あなたはおれの」

「わたしはいますぐ」

 声が重なって、でも皓夜は己が押し通すつもりでいた。並々ならぬ気合いである。でも由良は、それに劣らない迫力で言った。

「わたしはいますぐ、寝たいのです」

「え? えっと……」

 つい勢いをそがれた皓夜が口ごもった隙に、由良は攻めてきた。

「今日は朝から歩きどおしでした。砂浜はきれいでしたが歩きにくかったですし。丘にものぼってしばらく歩き回りましたし。かなり疲れまして」

「はあ……」

「それに」

 由良は大変まじめな顔で続けた。

「あなたは、お疲れでしょう。疲れた様子なんて少しも見せませんけれど、毎日毎日わたしのような者を連れ歩かなくてはならないのです。いくらいちたかさんがいると言っても、いちたかさんだってまだあなたに比べると幼いし、守らなければと責任も感じているでしょう。だから疲れがたまるはずですよ」

「いや」

 そんなに言われるような態度をとっただろうか。とっていないと思う。態度をとるとかいう前に、由良を連れ歩かなくてはならないなどとは思っていない。

「だから今日は、もう休みましょう」

 由良は言うと、皓夜に背を向けていちたかの隣に横になった。

「おやすみなさい」

「ちょっと待って」

 皓夜はきちんと座って背筋を伸ばした。由良の返事はない。まさか、もう寝たのか。それはないだろう。でもこたえてくれないのでこれは、また明日になるのだろうか。明日でもいいか。本当はいますぐがよかったのだが。すでに一度言いそびれているし。でも、由良が珍しく我を通そうとしているらしいので、それでもいいか、と思う。

 由良が言うには、皓夜は連日のふたりの世話で疲労がたまっているらしい。だから皓夜も寝ることにする。ろうそくの火を消すと、部屋はほとんど真っ暗になった。

 皓夜はいちたかの隣に座って由良の背中あたりを眺めた。やはりいま、言ってしまおうかなと、ちらりと思う。しかしそれではだめだ。寝ている、であろう、寝ている、ということになっているときに伝えてしまうのは、いやだ。ちゃんと起きているときに、目を見て言うのがいい。正々堂々と勝負をかけるのである。そんなことを決めてしまったらできなくなるかもしれないが、必ず言う。

 照れと距離をかなぐり捨てた状態になって、本音で暴走できるかどうかはわからない。己がそうなるのがいつなのか、よくわかっていないので。でも、どんなにかっこわるくなっても伝える。今日あの萩畑で、気づいたことを全部伝える。そう決めて、寝転がって目を閉じる。どうしようもなく、きれいだった、今日の夕暮れどきを思い出す。

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