三十五 今夜と明日
宵の口、宿の中だった。
無駄遣いもしていないし、かなりたまっている。
船にも、三人でじゅうぶん乗れるくらいだ。
夕刻になってたどり着いた於慈佳の町は、もう明かりがともされていた。蛍の光のような丸い提灯が建物の屋根同士をつなぐようにつるされていて、何もないのに祭りの日みたいだった。
さっき海を見て、満開の萩畑も見てきた。
きれいだった。
海も、萩の花も。
きれいだった。
さっきまで字の練習をしていたのだが、一鷹が力尽きたらしい。
一鷹に小袖をかぶせた由良が立ち上がる。
皓夜の前に座った。
「たくさん集まりましたね」
由良は感心したように言う。
「そうですね」
数え終わった小銭を袋に入れながらうなずく。
「たくさんの人が、喜んでくれましたね」
由良は小銭を集めるのを手伝ってくれた。
「はい」
「わたしもうれしいです」
「おれもです」
小銭を片付けてしまうと、由良はすっと皓夜から距離をとった。
「明日からは船旅ですね。もう休みましょう」
「はい」
皓夜は由良をまっすぐ見た。
もう寝るのはいいが、その前に、言いたいことがある。
由良は、目を伏せたまま皓夜を見なかった。
かまわない。
見てほしいのではない。
皓夜は口を開いた。
「由良さんはおれの」
「わたしは今すぐ」
声が重なって、でも皓夜は自分が押し通すつもりでいた。
並々ならぬ気合いである。
でも由良は、それに劣らない迫力で言った。
「わたしは今すぐ、寝たいのです」
「え? えと……」
つい勢いをそがれた皓夜が口ごもった隙に、由良は攻めてきた。
「今日は朝から歩きどおしでした。砂浜はきれいでしたが歩きにくかったですし。丘にものぼってしばらく歩き回りましたし。かなり疲れまして」
「はあ……」
「それに」
由良は大変まじめな顔で続けた。
「あなたはお疲れでしょう。疲れた様子なんて少しも見せませんけれど、毎日毎日わたしのような者を連れ歩かなくてはならないのです。いくら一鷹さんがいると言っても、一鷹さんだってまだあなたに比べると幼いし、守らなければと責任も感じているでしょう。だから疲れがたまるはずですよ」
「いや」
そんなに言われるような態度をとっただろうか。とっていないと思う。
「だから今日は、もう休みましょう」
由良は言って、一鷹の隣に横になった。
「おやすみなさい」
「ちょっと待って」
皓夜はきちんと座って背筋を伸ばした。
由良の返事はない。
まさか、もう寝たのか。それはないだろう。
でも、横になっている女の人の顔をわざわざのぞくのは失礼な気がする。
これは、また明日になるのだろうか。
明日でもいいか。
本当は今すぐがよかったのだけれど、由良が珍しく我を通そうとしているらしいのでそれでもいいか、と思う。
由良が言うには、皓夜は連日のふたりの世話で疲労がたまっているらしいので、皓夜も寝ることにする。ろうそくの火を消すと、部屋はほとんど真っ暗になった。
かすかに見える由良は、一鷹に背を向けて、髪の毛で顔を隠すようにして寝ている。
皓夜は一鷹の隣に座ってその背中を眺めた。
今、言おうかなとちらりと思う。
しかしやっぱりそれではだめだ。
寝ている、であろう、ということになっている人に向かって伝えるのは趣味じゃない。ずるいと思う。よろしくない。
ちゃんと起きているときに、目を見て言うのがいい。
正々堂々と勝負をかけるのである。
そんなことを決めてしまったらできなくなるかもしれないけれど、必ず言う。
照れと距離をかなぐり捨てた状態になって、本音で暴走できるかどうかはわからない。
自分がそうなるのがいつなのか、よくわかっていないので。
でも、どんなにかっこわるくなっても伝える。
今日あの萩畑で、気づいたことを全部伝える。
そう決めて、寝転がって目を閉じる。
きれいだった、今日の夕暮れどきを思い出す。
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