三十四 紅と靄

 つぎの朝、部屋から出てきた由良ゆらは紅緋に鳥の模様が白く染め抜かれた小袖を着ていた。櫛笥くしげの古着屋で、選んでいたものだ。荷物を包んだ、緑色の布を抱えている。色の取り合わせがあざやかで、眩しく見えた。

「由良姉ちゃん、お化粧してる?」

 いちたかがたずねたので、皓夜こうやは由良の顔を見た。由良が慌てたように口元を隠す。

「あの、紅をわけてもらったのです、お部屋にいらしたかたに」

 恥ずかしそうに目を伏せる由良に、いちたかがさらりと言った。

「きれいだよ由良姉ちゃん」

 飾りけのない言葉に、由良が微笑む。

「ありがとういちたかさん」

 由良の唇は確かに、いつもより赤い色をしてつやつやしているようだ。そのくっきりした色は、きれいなのかもしれない。でも、なんとなく、皓夜は何も言えなかった。

「皓夜兄ちゃんって、いつ『その域』に入るのかわかんなくて怖い」

 いちたかが皓夜を見て、やたらとまじめな顔で言った。ちょっとよくわからない。

「由良ちゃん、元気でね!」

「由良ちゃんはきれいよ」

「がんばってね!」

 部屋の中から女性たちがのぞいていた。

「ありがとうございます」

 由良がぺこりと頭を下げる。女性陣はなにやら楽しそうにうなずき合っていた。

「坊主たち、元気でな」

「しっかりやれよ」

「息災でな」

 少し遠くの部屋から男性陣が言ってくれる。

「すばらしいことありますように」

 長い髪を、今日は束ねている青年が手を振ってくれた。

「ありがと! またね!」

 いちたかが大きく手を振り返す。皓夜はひとびとに頭を下げた。

「ありがとうございます。みなさんも、お元気で」




***




 三人で、於慈佳おじかを目指して歩く。蕎麦屋で教えてもらったとおり、於慈佳まで行って、そこから船に乗ることにしている。海に出て北に進み、たどり着くのは連波つらなみの中でも照浜てるはまという港町らしい。

「おふたりは、海を見たことがありますか?」

 ふいに、うしろの由良が問うてきた。皓夜は振り返った。すぐそこにいたいちたかが首を振る。

「ない! おれ、生まれてこのかた櫛笥を出たことなかったから!」

 櫛笥は内陸の町なので、海を見ることはできないのだ。皓夜もこたえた。 

「おれはあります」

「いいなあ」

 いちたかが駆け寄ってくる。

「海って広いんでしょ?」

「広いよ」

「泳いだの?」

「泳いだし、浜でいろいろ叩きこまれた」

「へえ?」

 皓夜が生まれた出穂いずほ豊乃原とよのはらは、海に面した都市だった。よく父と兄と一緒に浜に行って、武術の稽古をしていた。

「毎日砂だらけになってたよ」

「楽しそうだね」

「うん、楽しかった」

 着ているものや髪の毛の中に入り込んできた砂のじゃりじゃりした感触や、身体が吹っ飛びそうな海風や、力強い波の音が一瞬、一気に迫ってきた。潮の香りとともに、酔いそうに濃厚に。

「海で修業したから強いんだね! でっかいひと投げてたもんね! おれも海で修業しようかなあ……」

「やってみるか」

「じゃあ出穂も行かなきゃだね!」

 出穂は、いまは桜雲おううんになっている。国ではなく桜雲のさとのひとつとされ、桜雲王から統治を任された郷司さとのつかさが治めているようだ。豊乃原は村扱いになり、村長むらおさが置かれていると聞いた。風早名執かざはやなとりが務めているらしい。父の部下だったひとは、しっかり生き抜いている。また会いたいなと、ふと思う。

「由良姉ちゃんは? 見たことあるの、海」

 いちたかが振り向いて、由良にたずねる。皓夜も振り返った。やわらかな表情で話を聞いていた由良は、はっとしたように目を見張った。

「あ、わたしは、ありません」

「ないの?」

 いちたかが意外そうに言った。皓夜も、王女だった由良なら見たことがあるとこたえると思ったので少し驚いた。由良はこくりとうなずく。

「はい、ないのです。入羽いりはに住んでいたのですけれど、そこからは見えませんし。あまり居所を出たことがなかったので」

 入羽は飛迎ひむかえの都だった。由良はずっと入羽の王宮で暮らしてきたようだ。

「暇だった?」

 いちたかが聞く。

「おれも暇だったよ、一日中歩いたりしてた」

「そうなのですね。わたしも暇だったかもしれません。一日中本を読んだり、歌を歌ったりしていました」

「歌、すきだったんだね!」

 皓夜は前に向き直って歩きながら、うしろのふたりの声に耳を傾けていた。

「あまりひとに聞いてもらったことはなかったのです。でも、すきではありました」

「うん、だってそんなにきれいな声だし、上手だもんね!」

「上手かはわかりませんけれど、父が先生をつけてくれていたので練習は、していました。どこかで役に立つようなことではないのですが、すきなので……」

「そっか、練習してたんだねえ。だからすごいんだよ。いまはいっぱいのひとが聞けるから、よかったと思う!」

 そう言ってから、いちたかはあっと声を上げた。

「違うよ、大変なことがあってよかったっていうわけじゃないよ」

「ええ、わかっています。ありがとういちたかさん」

 由良がおだやかに言う。

「たくさん本を読んで、いろいろな国の歌を覚えて、あこがれていたものをたくさん経験できましたから、わたしもよかったのです。その中でもおふたりに会えたことが、いちばんよかったと思います」

「ええ……そう? じゃあ、海も早く見たいね!」

「はい」

 口元に小さく笑みが浮かぶのを感じる。よかったと、言ってくれてよかった。そう言ってくれるならこれからも、一緒に生きていけるはずだ。海を見て、その海を渡って、目指す場所にたどり着いても、その先も。

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