三十三 誓いと球根

皓夜こうや兄ちゃん、速いよ」

 いちたかの声で、皓夜は立ち止まった。振り返ると、ふたりとも戸惑ったような顔をしていた。まわりを見れば、いつの間にかひとけのない道に来ている。

「ごめん」

 皓夜はふたりの袖から手を離した。

「皓夜さん」

 由良ゆらの清流のような声が皓夜を呼ぶ。

「だいじょうぶですか?」

 由良は心配そうに皓夜を見ていた。胸がぎゅっと絞られる感じがして、思わず押さえそうになる。皓夜は聞き返した。

「何がですか?」

 由良はふわりと目元をゆるめて、それとは反対に苦しそうに言った。

出穂いずほの話が……」

 出穂は皓夜が捨ててきた故郷だ。父も兄も、幼いころからかわいがってくれたひとたちも、殺された場所だ。でも、いまは、それよりも。

「おれはだいじょうぶです。由良さんは」

 皓夜はその目をのぞき込んだ。

「由良さんはだいじょうぶですか」

 さっきの笑顔が、怖くて、引っ張ってきてしまった。それなのにだいじょうぶかと聞かれてしまった。先に聞かなければいけないのはこちらなのに。由良は目を見張って、言った。

「何がですか?」

 ああ、だいじょうぶですか、ではない。

 だいじょうぶじゃないなんて、言うはずがない。

 でもこのひとは、だいじょうぶじゃない。

 だって、あんな顔。

 あんなのは、だいじょうぶなひとがする顔じゃない。

 似ていたから。

 己を追いつめて、そこから逃げないと決めて。それを背負わなければならないと思い込んで。夢の中では、本当は、逃げたがっていたのに絶対に逃げようとしなかったひとに。よく似た笑顔だったから。

「だいじょうぶじゃないですね」

 皓夜が言うと、由良は困ったように首を傾げた。

「どうして」

「そんな顔してるから」

 由良が頬に手を当てる。

「ひどいです、顔なんてもともとこんなのです」

 きっとまだ、由良には話していないことがあるはずだ。話せないことがあるのだ。でも、それはきっと背負う必要のないことで。逃げ出していいことだ。逃げないといけないことだ。でも、それを認められない。

「由良さんは、おれが逃げてよかったって言ってくれましたし、そうなのかもって、思わせてくれています」

 皓夜は由良を真正面から見た。

「逃げましょう」

 皓夜は言った。由良が、意味がわからないと言うように首を振る。

「そこから逃げましょう」

 由良が何にとらわれているのかは、よく知らない。はっきりとはわからない。でも。そこにい続けたら、進み続けたら、消えてしまうと思った。

 由良に手を差し伸べるのではなく、無理やりにでもその手を取る。ひやりとなめらかで、細かった。由良は、しかたのない駄々っ子の相手をする母親のような顔をしていた。

「あの、わたしはだいじょうぶですよ」

 皓夜はじっと由良の目を見た。黒い、つややかな光が揺らぐ。いちたかが、ぎゅっと由良にしがみついた。

「じゃあ、逃げられますか」

 問うと、由良は静かにうなずいた。

「なんだかわからないけれど、あなたがそんなにまじめな顔でおっしゃるのなら、そうします」

「すぐに、逃げられますか」

「ええいつでも」

「おれと一緒に生きてくれますか」

 連波つらなみまで。それからも、一緒に。別れても、一緒に生きていけるから。それならいい、どこかで同じ時間を過ごせたら。いなくなってしまうのだけは、絶対にいやだ。

 一瞬ぽかんとした由良が、くすりと笑う。

「それは、どういう意味なのですか?」

「え?」

 うつむいた由良の頬が、ほんのりと桜色に染まっている。それに気づいたとき、心臓が、おかしなふうに縮んだ。なんだか、いまはそんな場合ではない気がするのに。それなのに、耳元でどくんどくんと、何かがうるさく鳴り始める。なんの音だろうと、まじめに考えていた。わからない。視線がさまよう。いちたかの驚愕した顔が目に映る。皓夜は半分ほど我に返った。いちたかの表情は、度肝を抜かれています、と言っていた。そしていちたかはうなった。

「皓夜兄ちゃんの、大馬鹿者……」

 なんて?

「えと……?」

 ぼけっとしていると、由良が顔を上げて、笑った。白い花がひらくのを目にしたような、かぐわしい風に吹かれたような、心地がした。

「はい、かなう限りあなたと、一緒にいきます」

 由良は清い水のような、水晶のようなすきとおる声でそう言った。時が止まった。

「うひゃ」

 おかしな声で、また時間が流れ始める。いちたかが由良からぴょこんと離れて顔を覆い、身体をくねくねさせていた。

 なんだありゃ。

 でも、くれた。由良が返事をくれた。一緒に生きると言ってくれた。輝くような笑みを浮かべてくれた。

「信じます」

 皓夜が言うと、由良は幸福そうにうなずいた。そして急に、悟りをひらきましたというような表情で斜め上を見始める。

「ああ、なんだかどうしようもないですね」

「なんて?」

 何かの圧を感じて見ると、道にしゃがみ込んだいちたかが目を三角にしていた。そのうしろに、めらめらと揺らぐ紅蓮の炎が見える。いや本当に見える。皓夜はぎょっとした。

「おい、いちたか……」

「許さんよお……」

 いちたかは、怨念のこもったと言って差し支えない声を発した。

「意味もわからずきゅうこんのせりふを吐くんじゃあねえ……」

 きゅうこん。

 球根?

「呪うよぉ、皓夜兄ちゃん……」

「いや何、落ち着けって」

「はあぁい? 落ち着いてられるかあ! この無自覚朴念仁色男! 鈍感天然ひとたらし! 女人の敵だあぁぁ! 全部のひとの敵だあぁぁぁあ!」

 まどかかと思うくらいの勢いで罵倒され、皓夜はまいってしまった。圓もそうだが、どこでそんな言葉を覚えたのだろう。ずいぶん語彙が豊富な気がする。

「何をしているのですかおふたりは。ここはどこですか?」

 由良は楽しそうな様子できょろきょろしている。

「皓夜兄ちゃんの馬鹿あぁぁぁあ! 眉毛全部抜いてやるうぅぅぅう!」

 いちたかが地団駄を踏んで叫んでいた。




***




 荷物触るよ、と声をかけられて、皓夜は眺めていた地図から顔を上げた。いちたかは行李の中をごそごそかき回し始めている。ちなみにいちたかの温情により、皓夜の眉は全部無事だ。

「何が欲しいんだ?」

 たずねると、いちたかは矢立てと紙を掴んで振り返った。

「皓夜兄ちゃんは黙って見てるんだよ」

 厳かに命じられ、皓夜はとりあえずうなずいた。

 ここは猪頭いがしらの町にある宿だ。この宿は男女分かれて雑魚寝する形式だったので、由良はべつの部屋にいる。いちたかと皓夜がいるのは畳張りの広い部屋だ。まわりにはほかにも旅人たちがおり、思い思いに過ごしていた。商人や、本当の薬師が、多いようだ。ここには風呂もあって、さきほど入ってきたのでさっぱりしている。衣を脱ぐたび確かめているいちたかの痣は、もうずいぶん薄くは、なっていた。

 いちたかは矢立てと紙を持ったまま、そばで寝そべっていたひとに声をかけた。

「ねえおじいちゃん。教えてほしいことがあるんだけど」

 皓夜は慌てたが、そのひとは快く受け入れてくれたようだった。

「なんだね坊や」

「あのね」

 いちたかは、そのひとの耳に口を寄せて何か言う。するとそのひとは、ほうほうとうなずいて紙に筆を走らせた。

「ありがとう!」

 いちたかは満面の笑みでお礼を言うと、紙を持って皓夜の前に戻ってきた。

「皓夜兄ちゃん、見るんだよ。皓夜兄ちゃんが、今日由良姉ちゃんにしたことはこれだよ」

 今日由良にしたことって、何かやらかしただろうか。皓夜が戦慄していると、いちたかは厳粛な面持ちで皓夜の前に紙を突き出した。紙にはうつくしい字で、求婚、と書いてあった。

 求婚。

 いや、待ってくれ。

「そんなことしてないぞ?」

「したの!」

 いちたかは叫んだ。

「あれは求婚の言葉だよ? なんて言ったか覚えてる? 言ってあげるよ!」

 いちたかは前髪をかき上げながら、低い声を出した。

「おれと一緒に生きてくれますか?」

「なにいっ?」

 さっき文字を書いてくれたひとが飛び上がった。

 なんだどうした。

「おまえさんそれは求婚だよ!」

 迫られる。

「求婚だな」

「それは求婚で間違いない」

「そうですねあなたさま求婚しました」

「やるねえ」

「いくつなの?」

「相手はどこ?」

「何? なんの騒ぎだ?」

 たくさんの声が降ってきた。もうわけがわからない。いちたかが腰に手を当ててふんぞり返り、訴える。

「でもこの兄ちゃん、求婚したつもりがないんです!」

 部屋が沸いた。おそらく揺れたと思う。

「どういうことなんじゃ?」

「へたれなのか?」

「いや、遊び人なのではないか?」

「あなたさまそれは少し、惨いございます」

「どういうつもりなのさ?」

「その子なんて言ってたの?」

 こんな大勢から質問攻めにされたのははじめてだ。皓夜は何にどうこたえていいかわからず、ひとびとを見回した。

 若者からお年寄りまでいろいろなひとがいる。見慣れない髪型のひともいた。異国から来たのかもしれない。

「責めないでやってください……」

 いちたかが皓夜の前に、静かに腕を出してかばった。

「この子は自分でわかってないだけなんです……」

 いちたかの言葉に、ひとびとがまた騒ぎ出した。

「じゃあ本当はすいとるんじゃな?」

「すきなんだな?」

「すいておるな」

「さっさと一緒になれくそが!」

「こういうやつは、一回ぶん殴って自覚させよう」

「やめとけ無駄だ」

 なんだか圧が強すぎて、くしゃっと潰れそうだ。皓夜が目を白黒させていると、ふいに落ち着いた声が響いた。

「あなたさま、求婚した思っていない」

 よく通る声が大きめに発せられたので、みんなの視線がそちらを向く。声の主は、少し波打った長い髪をそのままおろしている青年だった。皓夜のほうを、やさしい瞳で見てくれる。

「思っていない。しかしこれは求婚みたい。しかし、求婚しないときも使える、違いますか」

 皓夜は思わず目を見張った。青年は、おだやかに続ける。

「あなたさま、こ、そのひと、一緒に生きたい。それはまことの気持ち、違いますか」

 それは、本当の気持ちだ。間違い、ない。

「この、そのひと、わかった。だいじょうぶ平気。絶対に、わかった、思う。あなたさまの心、わかった思うです」

 青年は微笑んだ。

「そのひと、そんなこと言う思うひと、あなたさまの大切。いまからも絶対に」

 皓夜は、素直にうなずくことができた。

「すばらしいことありますように」

 青年は言って、手を差し伸べてきた。

「ありがとうございます」

 皓夜はその手を取った。あたたかい手だった。

 部屋の隅で誰かが言うのが聞こえた。

「なんだあ? すいたやつなんてなあ」

「おまえちょっと黙れよ」

「すいたやつなんかなあ、そいつがどっかで笑っててくれりゃあそれでいいんだよお」

「なんだおまえ……」

 いちたかが振り返った。

「えっと、ごめんね、皓夜兄ちゃん」

 皓夜の前にぺたりと座っていちたかは言った。皓夜は笑って首を振った。

「謝ることしてないだろ。おかげでなんか、わかったよ」

「わかったのか?」

 たずねてくる「求婚」の作者と顔を向けてくるひとたちに、皓夜はうなずいた。

「あのひとはおれの大事なひとだ」

 みんなが一斉にひっくり返るので、皓夜は慌てた。

「あなたさまたち、心の話できない?」

 そう言った長髪の青年が首を傾げて皓夜を見る。顔を見合わせると、なんだか笑えた。

 一緒に、生きていきたいのだ。一緒に生きると、約束してくれたのだ。

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