三十  亀と蜉蝣

 火をまたいだ五徳の上で、黒い鍋が湯気を立てている。小さな蓋が、ふつふつとわいてくる泡に持ち上げられていた。三人で囲炉裏を囲んで、鍋の様子を見つめている。

 見つけたのは民宿のような宿だった。囲炉裏のついた小さな小屋が貸し出されるかたちだ。相部屋になることもあるらしいが、いまはほかに誰もいない。さきほど主人が、食事に使う器と、むしろを持ってきてくれた。

 よい頃合いだと思い、皓夜こうやは素手で蓋を持ち上げた。いちたかが熱いと声を上げたが、手の皮が厚いので平気である。いちたかはやさしい子だ。

 鍋の中では、とろみのついた米がふくふくと動いている。そこに味噌をとかし込んでまぜる。碗によそって渡すと、いちたかは目を輝かせた。

 皓夜は残りの器に、由良のぶんと、己のぶんの粥をよそった。今日は、蓋を使って食べなくてもいい。椀を渡すと由良は、お礼を言ってくれたあとで笑いをこらえるように唇を噛んでいた。蓋の件を思い出したのだろう。

「いただきます!」

 いちたかがさっそくひとくちめを食べて、目をぱちくりさせた。

「あつっ!」

「急がなくていいから。いっぱいあるから」

「だめだぁ味がわかんないよう」

「お水飲みますか?」

 由良が横から瓢箪を差し出す。いちたかは由良が持ったままの瓢箪から、直接水をがぶがぶ飲んだ。口の中が落ち着いてきた様子のいちたかに、由良が手拭いを渡していた。

 そのあと、きちんと程よく冷ました粥を食べて、いちたかはうまいうまいと叫んだ。由良も、おだやかな笑みを浮かべて粥を口に運んでいた。そんなふたりと一緒に食べていると、己の作った粥がとてもおいしいもののように感じるからふしぎだ。 

 食事が終わりかけたころ、皓夜は呼んだ。

「なあいちたか」

「ふえ?」

 匙をくわえていたいちたかが、珍妙な声を上げる。皓夜は笑って、囲炉裏をはさんで向かいに座るいちたかの目を見た。

「ひとつ聞くぞ」

 きょとんとした様子でうなずくいちたかに、皓夜はたずねた。

「いちたかは、本当におれたちについてきてよかったのか?」

 いままで聞けなかったが、ちゃんと話したいと思っていたことだった。櫛笥くしげからいちたかを連れ出してきたことは、間違ってはいなかったと思う。でも、そのあともずっとついてきて、いちたかは本当によかったのだろうか。

 雨が降る中、洞穴でした秘密の会合では、結局皓夜だけが話をした。皓夜も、聞いておきたいことはある。いちたかにも、由良にもだ。

 皓夜が見つめると、いちたかは静止。そして突然に、脳天に雷を落とされたような顔をした。はじめて会ったときも、同じような顔をしていたことを思い出す。

「えっ……。まだそんなこと……」

 そしてぎゅっと眉を寄せ、上目遣いに皓夜を見た。

「そんなこと聞くってことはさ……。おれのこといやになったの……?」

「違う」

 皓夜は首を振った。

「違うよ。そんなことあるわけない。でもいちたかは、いまみたいにふらふら旅するんじゃなくて、もっと落ち着いた暮らしをしたほうがいいんじゃないかって思ったんだよ。だからえんさんに頼もうとしたんだ」

 いちたかは思い出したのか、ぶすりと頬を膨らませる。

「そうだよ! 皓夜兄ちゃんおれに、一緒に来て、お願い、だめ? とか言ってたのに、おれのこと置いていこうとしたんだよね! なんにも言わないで! おれは一緒に行きたいのに! えんさんのことはだいすきだけど!」

「そんなことがあったのですか?」

 由良が声を上げる。そういえば由良は、その話をしているときはまだ、調子が悪かったはずだ。隣の部屋で眠っていた。由良は皓夜に批難の目を向けてくる。

「いちたかさんに聞かないで、そんなことをしようとしていたなんて」

「ひどいよね!」

「ええひどいです!」

「そのときもついていきたいよって言ったのに、また聞いてきた!」

「そんな!」

 ふたりに責め立てられ、もうごめんなさいと言うしかなくなる。するといちたかは、ふっと表情をゆるめた。

「……皓夜兄ちゃんは、おれのこと心配してくれてるんだよね」

 いちたかは、わかってるよと言うようにうなずく。

「でもおれはね、皓夜兄ちゃんと由良姉ちゃんと一緒に行きたいの。三人でふらふら旅するのがいいの」

「そうなのか?」

 いちたかはこくりとうなずいた。

「ついてきて、いいことしかなかったよ!」

 いきなり立ち上がって宣言し、そしてふと、八つの子には似合わないような、憂いを帯びた笑みを浮かべた。

「あとね、皓夜兄ちゃんと由良姉ちゃんは、父ちゃんとお母さんみたいだって思うの」

 いちたかの顔に、囲炉裏の炎が赤い影を落とす。

「皓夜兄ちゃんは強くてやさしくてかっこよくてなんか変で、父ちゃんみたいだ。由良姉ちゃんは明るくてきれいでやさしくて、お母さんみたい。父ちゃんが、お母さんはそういうひとだったっていつも言ってたんだ」

 皓夜はいちたかを見つめた。強くはないし、やさしくもかっこよくもない。なんか変というより、かなり変だ。いちたかが敬愛する父親とは、似ても似つかないと思う。そんな己に父親を重ねるいちたかが、切なかった。

「だからね、一緒に連れて行ってね。おいてかないで」

 いちたかは言った。迷子の子犬みたいに、心細そうに見えた。

「おいてったら、いやだよ」

 皓夜はたまらずいちたかのそばに寄って、細い身体をぎゅっと抱き込んだ。いちたかが腕の中でくぐもった声を出す。

「つれてってね。あと、倒れちゃうのも震えちゃうのも怖いから、あんまりしないで」

 いちたかは由良が倒れたときも、皓夜が苦しくて余裕がなくなっていたときも、ひどくおびえていた。

「死んじゃったりしないでね」

「死なないよ」

 皓夜はこたえた。

「死なない。寿命までは。それも結構長いつもりだし」

「うん、長生きしてね」

「そのつもりだよ。自信ある」

 図太く生き抜くことに関しては、自信がある。かなり。皓夜の力強い返事に安心したのか、いちたかはふふっと笑った。

「皓夜兄ちゃんならだいじょうぶそうだね」

 やっぱり生きてきて、よかったのかもしれないと、思った。いちたかが由良を見る。

「由良姉ちゃんもだよ。長生きするんだよ」

 由良はいちたかの頭を撫でた。

「そうですね。もしできたら」

「由良姉ちゃんならできるよ」

「いちたかさんが言うなら、そうなのでしょうね」

 由良はやわらかに微笑んでいた。皓夜はいちたかの背中をさすりながら伝えた。

「いちたかさ、おれはいちたかの父上に一生かなわないけど、いちたかが必要って言ううちはずっと兄ちゃんだから。あまえるんだぞ」

 八つで父親をなくして、いないことにされて、そのあと誰にも頼らず生きようとしていた子だ。まったくあまえ足りていないと断言できる。いまは話し方も幼くなってきたし、じゃれついてくるようになったし、少しあまえてくれているのかなとは思っているのだが。

「じゃあ、ずっとね」

 いちたかは顔を上げていたずらっぽくにやりとした。

「ずっとあまえるよおれ。皓夜兄ちゃあぁぁぁぁんって」

「望むところだよ」

「わあっ、かっこいい! ときめく!」

「馬鹿にするな」

 えへへへ、といちたかは舌を出して笑っている。皓夜は由良の横に座り、いちたかを抱え上げて胡坐をかいた足の上に座らせた。うしろからいちたかをのぞき込む。

「あとさ、いちたか、小刀はどうしたんだ?」

「ああ」

 いちたかが思い出したように声を上げた。いちたかは、小刀を持ち歩いているようだった。もう、盗みにも使わなくてよいから、必要ないとも言える。でも皓夜は、いちたかの持ちものを取り上げてしまうことはないだろうと考えていた。だから持たせておいたのだが、近頃見かけていなくて気になっていたのだ。

「あれね、預かってくれてるよね」

 いちたかが由良を見て言う。皓夜が顔を向けると、由良ははっとしたように肩を揺らして、大きくうなずいた。

「はい、そうですね」

「そうなんですか……」

 それは、ちっとも知らなかった。由良はそばに置いてある緑色の包みを示した。

「その中に入っています。少し、危ないと思ったので……」

「おれもう、いらないし」

 いちたかはあっけらかんと言う。いちたかがいらないと言うのなら、それでいいのかもしれない。皓夜はうなずいた。

「そうですか。わかった」

 由良が力を抜くように、目元をゆるめた。

「あったかいねえ」

 ふいにいちたかが言って、火に手をかざす。

「あたたかいですね」

 由良が包み込むようにこたえる。皓夜はいちたかを抱えたまま、由良に身体を向けた。気づいた由良が、戸惑ったような顔をする。

 いちたかと同じで、由良は大切な旅の仲間だ。だからもっと知りたいと思う。聞いておきたいと思う。由良のことを見ていただけで、胸騒ぎがしたし。どうしてだろうと考えると、やっぱり由良のことを何も聞いていないことが、会ったころから気になっているからだと思った。それに以前よりも、知りたい気持ちが強くなってしまっている。秘密の会合の続きを勝手に始めたのは、そのせいでもあった。

「由良さんにも聞きます」

 皓夜が告げると、由良はこくんとうなずいた。皓夜はたずねた。

「由良さんはどうして、連波つらなみに行きたいんですか。用事はなんですか。その用事が済んだら、どうするつもりなんですか」

 椀を持っている由良の指先に、力がこもるのがわかった。いちたかが、もぞもぞと動きながら言う。

「そうだよね! おれも気になってたの。でも言いたくないなら言わなくていいんじゃないって思ってた」

 いちたかは、櫛笥でさっそくいまの皓夜と同じような質問をしていた。それを受けて、わかりやすく動揺する由良に言っていた。

 わかります、ひとに言えないことって誰にでもあるものだって。全部さらけ出しているひとなんていないんです。

「皓夜兄ちゃんってそういうの聞くひとなのぉ」

 いちたかは早熟さを発揮し、意外そうに言った。皓夜は少しだけ、苦い思いが込み上げるのを感じた。

「『つまらない好奇心』です」

 皓夜は言った。

「無理にとは言わないけど、聞いておきたいと思ってしまって」

 由良が目を泳がせる。

「あの、はい」

 皓夜はうなずいて続きを待った。

「無理して言うことないんだよ、由良姉ちゃん」

 いちたかが由良をのぞき込んでいる。

「いいえ、そんなに、秘密にするようなことでもないので、この機会に」

 そう言う声は、心ここにあらずという感じがした。でも皓夜は待った。いちたかは、ぽかんとしていた。

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