二十九 石と幼馴染

「いってきます」

 いちたかが言って、石から離れた。

「一緒に来てくれて、ありがとう」

 皓夜こうやが言うと由良ゆらは静かに首を振って、いちたかは明るくこたえてくれた。

「来られてよかったよ! 挨拶できたし」

 ふたりにうなずいてみせて、皓夜はゆっくり立ち上がった。

「じゃあ、行こうか」

 皓夜は石に背を向けた。そして広場を囲んだ木々の下に、誰かがいることに気づく。

 山吹色の小袖を着た女性だった。目が合って会釈をすると、ふわりと返してくれた。広場に入って、石のほうへ近づいてくる。

「すてきな演奏でした」

 そのひとはやわらかな笑顔で言った。聞いていたようだ。

「ありがとうございます」

 皓夜は頭を下げた。

「でもおれたちが演奏してるから入りにくかったですね、すみません」

「いいえいいえ」

 女性は慌てたように首を横に振って、ふたたび笑みを浮かべる。

「本当に、よかったですよ。時間を忘れていました」

 そのまっすぐな言葉に、思わず由良を振り返ると、由良も皓夜を見ていた。あまくとける氷菓子を口に含んだような、しあわせそうで切なそうな表情だった。いちたかは得意げに、ふんぞり返っている。

「そう言ってもらえるとうれしいです」

 皓夜が言うと女性はうなずいて、懐かしむようにゆったりと目を細めた。

「昔よく、笛を吹いてくれた幼馴染がいましてね。そのひとの音に似ていて。思い出に浸ってしまいました」

「そうなんですね」

「ええ」

 いとおしそうにこたえた彼女は石の前にしゃがみこむと、そのそばに小さな包みを置いた。皓夜はその背中を見つめた。誰も何も言わなかった。

 長い静寂のあと、女性が振り返って微笑む。

「あなたがたは、旅の芸人さんたちですか?」

 ひと呼吸おいて皓夜はこたえた。

「はい、そんなところです」

 彼女はうれしそうにうなずいた。

「そうなのね。応援していますよ。あなたの歌、とてもやさしかった」

 言われた由良は、両手で胸元を押さえた。そのまま頭を下げる。いちたかににこりと笑いかけた女性は、皓夜を見た。

「ここに来てくれてありがとう。続けてね、笛」

 とても和やかな表情を浮かべていた。

「ありがとうございます」

 ふいに込み上げてきたものを抑えると、声が小さくなってしまった。




***




 暗くなってきた空の下、のんびりとした風情の町を歩いていく。芒村すすきむらの近くの町に入っていた。櫛笥くしげ袖振そでふりのようなにぎやかさはないが、そのぶん落ち着いて、のどかな空気が漂っている。行き交うひとびとの歩みも、心なしかゆっくりしていた。

 皓夜は少し、視線を上げた。色を深めた空に、いちばん星を見た。かすかに揺らぎながら、誇らしげにきらめいている。

 そうやって宵の空など見ながらゆったり進んでいると突然、先頭を歩いていたいちたかが言い出した。

「皓夜兄ちゃんとさあ、由良姉ちゃんはさあ、名前つけないの?」

「え?」

 いちたかがくるりと振り向く。

「おれにもあのひとにも、旅芸人みたいなもんだって、言ったしさあ。せっかくだから、名前つけてもいいんじゃない?」

 羽衣座はごろもざにはしないんだろうけどね、といちたかは急に大人びた横顔を見せた。皓夜はすぐに返事ができなかった。由良と演奏をするのは、少しのあいだだけ、連波つらなみに着くまでだけだ。

 そのあとは。

 そのあと由良がどうするのか、まだ知らないことに気づく。連波に、何をしに行きたいのかも、まだ聞けていない。

「そうですねえ」

 少しうしろを歩く由良は、考え込み始めていた。

「いちたか座がいいと思いますね」

「えっなんで? おれはほぼお客と一緒なのに?」

「いちたかさんがいないと困りますから」

「……皓夜兄ちゃんとふたりはいや?」

「あっ違います、そういう意味では!」

「わかってるよ由良姉ちゃん」

「そうですか、よかった……?」

「うんだいじょうぶだよ」

 ふたりはなんのかんのと盛り上がり始めている。

「それではやはり、皓夜さんのお名前から何かしらとって……」

「由良姉ちゃんはどこ行ったのさ」 

「ではあなたはどこに行ったのですか?」

「だからおれは何もしてないんだってば!」

「信じないかもしれませんが、あなたはそこにいるだけでわたしたちを明るくしてくれ」

「ああもういい! 恥ずかしいからやめて!」

「明るくしてくれるのですよ。信じられなくても、わたしがそう思っているということだけ、覚えておいてくれませんか?」

「ひえぇぇ」

 皓夜はふきだしてしまった。いちたかが両腕を振り回す。 

「ちょっとこの姉ちゃんなんとかして!」

「いちたかだってそんな感じだろ」

「こんなんじゃないよいつおれがこんなんだった?」

「四六時中だよ」

「なんで!」

 由良が走って皓夜を追い抜き、憤慨していると見せつけてきた。

「どうしてなんとかされなければならないのですか。本当のことを言っているだけではないですか!」

「わあ怖いよぉ」

「何が怖いのですか!」

「おふたりさん腹減りませんか?」

 皓夜は大声を出した。ふたりが口をつぐんで、顔を見合わせた。

「腹減ったよ!」

 いちたかが叫んだ。由良もうなずいている。皓夜は笑ってしまった。

「何が食べたい?」

 大きな町ではないのでなんでも選べるわけではないし、予算にも限りはあるのだが、皓夜はふたりにたずねた。するといちたかと由良は、同時に顔を向け合って視線を交わらせた。そうやって無言のままに何かの合意が成ったのか、いちたかが口をひらく。

「おれねえ」

「うん」

「皓夜兄ちゃんのお粥が食べたい!」

「そうか。……え?」

 皓夜は、おおげさではなく耳を疑った。しかしいちたかは、いたってまじめな顔で皓夜を見上げている。由良は、何やらにこにこしていた。皓夜はほとんど当惑した。

「えっと、どうして……? そんな話してたか……?」

 いちたかはこくんとうなずいた。

「由良姉ちゃんから聞いたの。すごくおいしかったって、お粥」

 由良とはじめて会った日の夜に、ふたりで粥を食べたことを思い出す。由良はやたらと、おいしいおいしいと言って食べていた。

「そんなに期待するほどのものじゃないぞ……」

 大きな目をきらきらさせているいちたかに、頭を掻きながら言うと、由良が首を振った。

「いいえ、そんなことはありません。とてもおいしかったのです」

 真剣な顔できっぱりとそう言われると、返す言葉もなくなる。

「はあ、じゃあまた作ります」

「やったあ!」

 いちたかがぴょこんと飛び跳ねて、由良と笑みを交わす。

 宿の中には、炊事場が付いていて、客が自炊をするところもある。そんなに粥が食べたいと言ってくれるなら、今日はそういうところに泊まるといいかもしれない。

「食べたかったんだあ。楽しみ!」

 いちたかはごきげんで、鞠みたいに上下に弾みながら歩いている。由良は笑顔で、そんないちたかを見守っていた。

 いちばんうしろになった皓夜は、覚えず由良の横顔を眺めていた。何がそんなにうれしいのかわからないくらい、しあわせそうに笑っている。きらりと、音がしそうな感じだ。

 そのとき、由良が皓夜を振り向いた。

 突然に皓夜をとらえた、黒い真珠の瞳。どうしたのですか、とそっと問うように丸くみひらかれ、花のほころぶようにやわらかく、細められる。

 こまやかで確かな変化が、目の前であたりまえのように起こって。それをみとめたとたん心臓が、妙な動き方をした。身体がかたまってしまう。

「あー、皓夜兄ちゃん……」

 いちたかが、何やら面倒そうに言った。

「歩いてくださぁい?」

「だいじょうぶですか?」

 由良にも聞かれてしまい、皓夜は慌てて何度もうなずいた。由良はそうですかと、小さく首を傾げながら前に向き直った。

 いまのは何か、胸騒ぎか虫の知らせか。皓夜は口を結んで考える。由良と目が合うなど、はじめてのことではないのに。解せない。

 解せないが。やっぱり、あれだな絶対そうだ。

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