二十七 香気と風車

 目の前では小川が心地よい音を立てて流れている。

 一鷹いちたかが瓢箪の水を勢いよく飲んで、うまいと叫んだ。

 しばらく歩いたので、川のほとりで休むことにしたのだ。

 洞穴を出てから、柔らかくなって足がのめりこむような道を歩いてきた。

 それから関所を通って、美萩野みはぎのに入っている。

 芒村すすきむらに、向かっているところだ。

 並んで座った一鷹と由良ゆらは、何か楽しそうにお喋りしていた。

 一鷹が持っている風車も、笑うように回っている。

 一鷹のそばに腰を下ろした皓夜こうやは、水で満たした瓢箪をもてあそびながら小川を眺めていた。

 「皓夜兄ちゃん!」

 耳元で叫ばれて前のめりに倒れそうになる。

 なんとか踏みとどまって隣に顔を向けると、一鷹が心配そうに見ていた。

 「だいじょうぶ? 由良姉ちゃんが呼んでるよ」

 「……え、あっ」

 一鷹の向こうに座った由良を見ると、申し訳なさそうな顔をしている。

 「すみません、ぼうっとしてて」

 謝ると、由良は首を振った。

 「いいえ、だいじょうぶですよ」

 そう言った由良の表情が不意に変わった。

 何かを決意したような、真剣なまなざしが向けられる。

 「皓夜さん、わたしが言ってもしかたないのですが」

 「はい……?」

 「つらくなったら言ってくださいね」

 瓢箪が落ちて地面に転がった。

 「言うほうがつらいのなら言わないでください。でも、言ったほうが少しでもましなら、教えてほしいと思っています」

 きっと今、芒村に向かっているからだ。

 皓夜がぼんやりしていたから、やはりつらいのではと案じてくれているとわかった。

 「わたしたちは、あなたの経験したことを教えてもらったので。言いたいとき少しは言いやすくなってくれていたらなと、思っています」

 由良の声はどうしようもなく優しかった。

 「勝手なことを言ったので、いらなかったら捨ててくださいね」

 あなたもですよ、と由良は一鷹を見た。

 「おれは捨てないよ! ここに入れとくから」

 一鷹は懐に手を突っ込んでいる。由良が笑った。

 「由良姉ちゃんもだよ」

 一鷹が言って、由良がかたまる。

 血の巡りが止まったように静止して、でもすぐにうなずいた。

 「ありがとうございます。そうさせてもらいますね」

 皓夜も言った。

 「おれもきっとそうします。今はだいじょうぶです。由良さんと一鷹のおかげだ」

 ふたりが、ずっとこびりついていたものを優しくどかしてくれたから。だいじょうぶだ。

 ふたりともそれに気づいていなさそうだけれど。

 それから、自分だけ言いそびれていたことを思い出す。

 渡しておきたい言葉を思うと、柔らかく笑みが浮かんだ。

 皓夜は隣の一鷹に伝えた。

 「一鷹に会えてよかった」

 一瞬静止した一鷹は、すごい勢いでまばたきしながら唇をかんで上を向く。珍妙な反応だったが、かまわず由良のこともまっすぐに見て言う。

 「由良さん、会ってくれてありがとう」

 由良はまばたきもしなくなった。

 ちゃんと聞こえただろうか。じっと見つめ返すと、由良の目の縁がじわりと赤くなるのがわかった。

 由良ははっとしたように下を向き、喉元を押さえている。どうかしたのかと言おうとすると、袖を引かれた。

 「……皓夜兄ちゃん」

 一鷹が、なぜか目を糸のように細めていた。

 「ずるい」

 「は?」

 「たち悪いよ」

 なんのたちが悪いのか不明だが、なんとなく、一鷹に言われたくない。むっと眉を寄せると、一鷹がこれだからこいつはといった様子で肩をすくめた。

 ちょっとひどいと思う。

 しばらくそれぞれ、黙っていた。

 「ねえおれなれるよね」

 くるくる回る小さな風車を熱心に見つめていた一鷹が、不意に言った。

 「ん?」

 皓夜は顔を向けた。

 「ええっと、かっこよく」

 一鷹が言いながら、由良に風車を渡す。

 受け取った由良は、続きを促すように首をかしげて一鷹を見ている。

 一鷹は玉村たまむらを出るとき、小鈴こすずに思いを告げていた。

 きみのことが好きだ、かっこいい人になるから待っててくれる?

 思い出して、なんだか腹の中がそわそわした。

 やっぱり幼いんだか、ませているんだかわからない。

 小鈴とのことは、少しだけ気になっていた。

 「おれ、もっとかっこよくならなきゃいけないから。あの子のこと守れるくらい」

 「小鈴さんですね」

 由良がうれしそうに微笑む。

 「うん、そう」

 皓夜は自分の足元を見た。

 「三日くらいしか一緒にいなかったけど、おれはあの子のことが好き。かわいくて優しくて気が強いの。ご飯作ってるときすごくまじめな顔してた。えんさんの肩もんであげてた。あとね、目が合ったら、目をぱちぱちってするんだ、こうやって」

 一鷹は目をしばたいて見せる。

 そっと光る玉を包むように口にする。

 「皓夜兄ちゃんの笛と由良姉ちゃんの歌聞いてるときね、泣いてた」

 きれいだった、と一鷹は言った。きれいだけどなんか痛かった、と小袖の合わせを掴んでいた。

 「すぐ好きになったんだよ、見てすぐにわかったって言ったよね。でも、泣いてたらなんか、ぎゅってしたくなったの。でもしてないよ、そんなの急にやるのはよろしくないでしょ」

 由良が難しい顔をする。

 「おれまだかっこよくないし。でもなるの。かっこいいって、大きくなるってことだと思ってたけど、それだけじゃ嫌だなって。父ちゃんも皓夜兄ちゃんも、それだけじゃないからかっこいいんだよねって、優しくて強いのもかっこいいには必要だよねって、寝るとき考えてたら気づいたんだよね」

 風向きが変わったのか、どこからか清らかに甘い香りがした。

 「今は甘えちゃって泣いちゃうばっかりなんだけどね……。なんかひとりでいたときより弱っちくなった気がする。でもね、それは嫌じゃない。今はそうでも、ちゃんとかっこよくなれるって思うんだ、変だよね」

 悩んでいた一鷹は、いきなり身体ごと大きく傾けてぶつかってきた。

 「あれえ、なんの話? なんの話だろう皓夜兄ちゃん?」

 皓夜はすぐ隣にいるのに、一鷹はやたらと大きな声で呼びかけるように言っている。

 そんなこと言われても知らん。

 「一鷹が始めたんだろ」

 「そうだっけね?」

 すっとぼけた顔をする一鷹を、ちょっとどうしてくれようかと思ったとき、由良が言った。

 「一鷹さんは、たくさんたくさん考えているのですね」

 「うん? うん」

 「すみません」

 皓夜はびっくりしてしまった。由良は頭を下げている。

 一鷹も、どしたのと叫んで慌てている。

 由良は少し顔をあげて言った。

 「あなたが小鈴さんのことを思っていることは知っていたけれど、八つの子だから、かわいらしい初恋なのだろうなと思っていました。まじめなふりをしていましたが少しからかう気持ちもあって。好きだったのはそのときだけで、もう忘れてしまってはいないかななんて、思ってもいたのです」

 「やっぱり由良姉ちゃんも、おれのことちびだって思ってるんだあ」

 一鷹が目を細める。皓夜がちびすけと言ったのを根に持っているようだ。人に頼れという意味で言ったのだが、失敗だったかもしれない。

 由良が一鷹にこたえる。

 「そうですね。対等に話しているつもりだったけれど、そうではないところもあったみたいです」

 由良は風車を握りしめていた。

 「恥ずかしいです。あなたはもうかっこいい人なのに」

 「ええ? 何? 全然違うと思うけど?」

 一鷹が手をせわしなく動かし始めた。由良が微笑む。

 「いいえ、そうですよ。なりたい自分になるためにたくさん考えているでしょう。大切な人のために」

 「なんかさ、すごくきれいな言い方してるよね?」

 「だってそうでしょう」

 「かっこよくないよ、だって何もしてないしできてないもん。かっこいいなんておかしいよ。考えてるだけだよ? 絶対かっこよくなんかないもんね」

 一鷹が珍しくひねくれている。

 「わたしもあなたのようになりたい」

 ぶすりとしていた一鷹が目を見張った。

 「あなたは考えているだけではありません。しっかり今の自分を見つめているでしょう。それは簡単なことではありませんよ」

 甘く柔らかくて。

 でもどこか虚ろな秋の花の香りが由良の髪と袖を揺らしている。

 それなのにその手にある風車は、ちっとも回っていない。

 なんだかそれが嫌だった。皓夜は一鷹の背中側から手を伸ばし、風車の羽を触って無理やり回した。

 何やってんのと一鷹に言われ、由良にも不思議そうな顔で見られた。でも皓夜だって、自分が何をしたのかわからなかった。

 なんとなくだとこたえて行李に手を突っ込み、地図を取り出す。

 すぐに一鷹が覗き込んできた。

 「今どこ?」

 皓夜は美萩野と古扇ふるおうぎの境目あたりを示した。

 「このあたりだよ」

 「の、も、り」

 「そう、野守村のもりむら

 一鷹は少しずつ字の練習をしていた。

 「芒村の隣だね」

 一鷹が芒村の文字をなぞりながら言った。

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