二十七 香気と風車
目の前では小川が心地よい音を立てて流れている。
しばらく歩いたので、川のほとりで休むことにしたのだ。
洞穴を出てから、柔らかくなって足がのめりこむような道を歩いてきた。
それから関所を通って、
並んで座った一鷹と
一鷹が持っている風車も、笑うように回っている。
一鷹のそばに腰を下ろした
「皓夜兄ちゃん!」
耳元で叫ばれて前のめりに倒れそうになる。
なんとか踏みとどまって隣に顔を向けると、一鷹が心配そうに見ていた。
「だいじょうぶ? 由良姉ちゃんが呼んでるよ」
「……え、あっ」
一鷹の向こうに座った由良を見ると、申し訳なさそうな顔をしている。
「すみません、ぼうっとしてて」
謝ると、由良は首を振った。
「いいえ、だいじょうぶですよ」
そう言った由良の表情が不意に変わった。
何かを決意したような、真剣なまなざしが向けられる。
「皓夜さん、わたしが言ってもしかたないのですが」
「はい……?」
「つらくなったら言ってくださいね」
瓢箪が落ちて地面に転がった。
「言うほうがつらいのなら言わないでください。でも、言ったほうが少しでもましなら、教えてほしいと思っています」
きっと今、芒村に向かっているからだ。
皓夜がぼんやりしていたから、やはりつらいのではと案じてくれているとわかった。
「わたしたちは、あなたの経験したことを教えてもらったので。言いたいとき少しは言いやすくなってくれていたらなと、思っています」
由良の声はどうしようもなく優しかった。
「勝手なことを言ったので、いらなかったら捨ててくださいね」
あなたもですよ、と由良は一鷹を見た。
「おれは捨てないよ! ここに入れとくから」
一鷹は懐に手を突っ込んでいる。由良が笑った。
「由良姉ちゃんもだよ」
一鷹が言って、由良がかたまる。
血の巡りが止まったように静止して、でもすぐにうなずいた。
「ありがとうございます。そうさせてもらいますね」
皓夜も言った。
「おれもきっとそうします。今はだいじょうぶです。由良さんと一鷹のおかげだ」
ふたりが、ずっとこびりついていたものを優しくどかしてくれたから。だいじょうぶだ。
ふたりともそれに気づいていなさそうだけれど。
それから、自分だけ言いそびれていたことを思い出す。
渡しておきたい言葉を思うと、柔らかく笑みが浮かんだ。
皓夜は隣の一鷹に伝えた。
「一鷹に会えてよかった」
一瞬静止した一鷹は、すごい勢いでまばたきしながら唇をかんで上を向く。珍妙な反応だったが、かまわず由良のこともまっすぐに見て言う。
「由良さん、会ってくれてありがとう」
由良はまばたきもしなくなった。
ちゃんと聞こえただろうか。じっと見つめ返すと、由良の目の縁がじわりと赤くなるのがわかった。
由良ははっとしたように下を向き、喉元を押さえている。どうかしたのかと言おうとすると、袖を引かれた。
「……皓夜兄ちゃん」
一鷹が、なぜか目を糸のように細めていた。
「ずるい」
「は?」
「たち悪いよ」
なんのたちが悪いのか不明だが、なんとなく、一鷹に言われたくない。むっと眉を寄せると、一鷹がこれだからこいつはといった様子で肩をすくめた。
ちょっとひどいと思う。
しばらくそれぞれ、黙っていた。
「ねえおれなれるよね」
くるくる回る小さな風車を熱心に見つめていた一鷹が、不意に言った。
「ん?」
皓夜は顔を向けた。
「ええっと、かっこよく」
一鷹が言いながら、由良に風車を渡す。
受け取った由良は、続きを促すように首をかしげて一鷹を見ている。
一鷹は
きみのことが好きだ、かっこいい人になるから待っててくれる?
思い出して、なんだか腹の中がそわそわした。
やっぱり幼いんだか、ませているんだかわからない。
小鈴とのことは、少しだけ気になっていた。
「おれ、もっとかっこよくならなきゃいけないから。あの子のこと守れるくらい」
「小鈴さんですね」
由良がうれしそうに微笑む。
「うん、そう」
皓夜は自分の足元を見た。
「三日くらいしか一緒にいなかったけど、おれはあの子のことが好き。かわいくて優しくて気が強いの。ご飯作ってるときすごくまじめな顔してた。
一鷹は目をしばたいて見せる。
そっと光る玉を包むように口にする。
「皓夜兄ちゃんの笛と由良姉ちゃんの歌聞いてるときね、泣いてた」
きれいだった、と一鷹は言った。きれいだけどなんか痛かった、と小袖の合わせを掴んでいた。
「すぐ好きになったんだよ、見てすぐにわかったって言ったよね。でも、泣いてたらなんか、ぎゅってしたくなったの。でもしてないよ、そんなの急にやるのはよろしくないでしょ」
由良が難しい顔をする。
「おれまだかっこよくないし。でもなるの。かっこいいって、大きくなるってことだと思ってたけど、それだけじゃ嫌だなって。父ちゃんも皓夜兄ちゃんも、それだけじゃないからかっこいいんだよねって、優しくて強いのもかっこいいには必要だよねって、寝るとき考えてたら気づいたんだよね」
風向きが変わったのか、どこからか清らかに甘い香りがした。
「今は甘えちゃって泣いちゃうばっかりなんだけどね……。なんかひとりでいたときより弱っちくなった気がする。でもね、それは嫌じゃない。今はそうでも、ちゃんとかっこよくなれるって思うんだ、変だよね」
悩んでいた一鷹は、いきなり身体ごと大きく傾けてぶつかってきた。
「あれえ、なんの話? なんの話だろう皓夜兄ちゃん?」
皓夜はすぐ隣にいるのに、一鷹はやたらと大きな声で呼びかけるように言っている。
そんなこと言われても知らん。
「一鷹が始めたんだろ」
「そうだっけね?」
すっとぼけた顔をする一鷹を、ちょっとどうしてくれようかと思ったとき、由良が言った。
「一鷹さんは、たくさんたくさん考えているのですね」
「うん? うん」
「すみません」
皓夜はびっくりしてしまった。由良は頭を下げている。
一鷹も、どしたのと叫んで慌てている。
由良は少し顔をあげて言った。
「あなたが小鈴さんのことを思っていることは知っていたけれど、八つの子だから、かわいらしい初恋なのだろうなと思っていました。まじめなふりをしていましたが少しからかう気持ちもあって。好きだったのはそのときだけで、もう忘れてしまってはいないかななんて、思ってもいたのです」
「やっぱり由良姉ちゃんも、おれのことちびだって思ってるんだあ」
一鷹が目を細める。皓夜がちびすけと言ったのを根に持っているようだ。人に頼れという意味で言ったのだが、失敗だったかもしれない。
由良が一鷹にこたえる。
「そうですね。対等に話しているつもりだったけれど、そうではないところもあったみたいです」
由良は風車を握りしめていた。
「恥ずかしいです。あなたはもうかっこいい人なのに」
「ええ? 何? 全然違うと思うけど?」
一鷹が手をせわしなく動かし始めた。由良が微笑む。
「いいえ、そうですよ。なりたい自分になるためにたくさん考えているでしょう。大切な人のために」
「なんかさ、すごくきれいな言い方してるよね?」
「だってそうでしょう」
「かっこよくないよ、だって何もしてないしできてないもん。かっこいいなんておかしいよ。考えてるだけだよ? 絶対かっこよくなんかないもんね」
一鷹が珍しくひねくれている。
「わたしもあなたのようになりたい」
ぶすりとしていた一鷹が目を見張った。
「あなたは考えているだけではありません。しっかり今の自分を見つめているでしょう。それは簡単なことではありませんよ」
甘く柔らかくて。
でもどこか虚ろな秋の花の香りが由良の髪と袖を揺らしている。
それなのにその手にある風車は、ちっとも回っていない。
なんだかそれが嫌だった。皓夜は一鷹の背中側から手を伸ばし、風車の羽を触って無理やり回した。
何やってんのと一鷹に言われ、由良にも不思議そうな顔で見られた。でも皓夜だって、自分が何をしたのかわからなかった。
なんとなくだとこたえて行李に手を突っ込み、地図を取り出す。
すぐに一鷹が覗き込んできた。
「今どこ?」
皓夜は美萩野と
「このあたりだよ」
「の、も、り」
「そう、
一鷹は少しずつ字の練習をしていた。
「芒村の隣だね」
一鷹が芒村の文字をなぞりながら言った。
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