四曲目 救いと気づき
二十六 朝日と花
空気が抜けるような笑い方になってしまった。
今までのことを、
皓夜は一鷹を撫でようとして、自分の手が震えていることに気づく。
止めようと思っても止め方がわからなくて、身体って不思議だなあと、ひとごとのように思った。
うなずくだけで、何も言わずに聞いてくれていた由良が手を伸ばしてくる。
細い手が、皓夜の震えている手に触れる直前で止まり、きゅっと握りこまれて彼女の膝の上に戻った。
「だいじょうぶ」
皓夜は言った。
「だいじょうぶ、おれは怖い思いしてないから」
一鷹が首を振るのがわかる。皓夜は苦笑した。
「おれは逃げただけだよ。ずっと逃げて、ここにいるんだ。何ともたたかってないよ。ほら、こんなに無事」
くすぐろうとすると、一鷹は皓夜から離れた。
その代わり、正面から大きな目で皓夜をとらえる。
「あのねおれね、全部はわかってないの。でもね、皓夜兄ちゃんだいじょうぶじゃないよ」
一鷹はなぜか泣きそうな顔をしていた。
「だっておれ、怖いよ。怖い……」
もう一度、一鷹はすがりついてくる。さっきよりも腕に力が込められる。
「皓夜兄ちゃん、こんなに震えてるの、怖いよ……。どうやったら止まる? こうしててもだめ? ねえ皓夜兄ちゃん」
手だけではないようだった。身体じゅうが言うことを聞いていなかった。
皓夜は一鷹を引きはがそうとした。でも離れてくれなかった。
「嫌だよ皓夜兄ちゃん。いやだいやだ。おいてかないで。ひとりにしないで」
一鷹の細い腕が皓夜の身体を締め付ける。
ひどく取り乱して、懇願する。
「だめだよしんじゃったらいやだおねがいおいてかないで……」
一鷹、と呼ぼうとして声が出なかった。
苦しい、と思った。
苦しい。
胸の中がどろどろする。
それだけで精一杯なのに、熱くて痛いものを浴びせられる。
ああ沈む。
沈んでしまう。
「一鷹さん」
冷えた清水のような声が注ぎ込まれて、一鷹の腕が身体から離れていった。
「だいじょうぶ。だいじょうぶですよ。皓夜さんは死んでしまったりしません。わたしたちに大切なものをくれたから、その反動が出ているのですよ」
由良は一鷹を抱きしめて、優しく包み込むように言う。
その声を聞いていると、まだ浮かんでいられる気がした。
「ほんとに? ほんとに死んじゃわない?」
一鷹が由良の腕の中でしゃくりあげる。
「ええ、本当に。だいじょうぶですよ。怖いことはありません。だいじょうぶ」
「だいじょうぶ。だいじょうぶ」
「はい。だいじょうぶです」
自分だけではどうしようもなかったのに、震えがおさまってくる。
上下していた一鷹の肩も落ち着いていた。
由良が顔をあげる。
慈しむような、静かな目が皓夜を見る。
「皓夜さん、すみません。あなたに話させてしまいました」
皓夜は首を振った。
由良は一鷹の背中を撫でながら目を伏せた。
「どうしてあなたが、羽衣座と聞いて人が変わったようになったのか、知りたかったのです。何か、あまり触れられたくないものだろうなとはわかっていたのに聞きました。わたしのつまらない好奇心です。すまないと思っています」
皓夜はもう一度首を振る。
「話したのは、おれだから。聞かれたって、何から何まで喋る必要なかったのに」
しわがれた声が出てしまった。
由良が、朝露が落ちるように微笑んで、言った。
「でも話してくれて、ありがとうございます」
すぐに返事ができなかった。
「勝手なことですが、あなたが話してくれたことをうれしいと思ってしまいました。あなたの、これまでのことを知ることができたので」
一鷹は由良にしがみついたまま動かない。
「逃げてきたんです」
皓夜はつぶやいていた。
「自分のことだけ考えて、逃げてきたんです。まともにぶつかってたら、死ぬから」
みんな、死んでしまったから。
「恥ずかしいとは思ってないんですけど。でも、いいやり方だとも思えなくて」
由良がうなずく。
「どうしよう」
皓夜は言ってしまってから、あまりの情けなさにもう笑えた。
どうしようって、そんなこと言ってどうするんだ。
由良も困るだろう。皓夜はとりあえず下を向いた。
由良はしばらく黙っていた。
ほら困ってる、どうしようかと悩み始めたときだ。
「わたしはよかったですよ」
由良が言った。
ご飯を食べているときみたいな、朗らかな言い方だった。
顔をあげると、由良は黒蝶真珠の瞳でまっすぐ皓夜を見ていた。
「……え?」
間抜けな声を出してしまう。由良は不意にまじめな顔になった。
「皓夜さんが、逃げて、きてくれたから、わたしは皓夜さんと会えましたし。そうでなければ死んでいたと思います、本当に」
「ああ……?」
「あなたと会えたので死ぬことはなさそうです、きっととてもいいことです。それに、一鷹さんに会えました。わたしは下のきょうだいがいないので、なんだかうれしいのです。一鷹さんはそんなふうに思われて迷惑かもしれませんが」
一鷹が顔をあげ、力強く首を振っている。由良は、ありがとうございますと微笑んだ。
「それと、あなたと演奏させてもらって、羽衣座のみなさんにはかなわないけれどたくさんの人に喜んでいただけました。それからたくさんすてきな人に会えました。あなたがいなければ、全部なかったことです」
由良は楽しそうに言った。
「皓夜さんが逃げ出してくれたので、わたしおおいに助かりました」
そんなことを言われても困った。
逃げるのは自分のためでしかないのに、役に立ったみたいなこと。
「ありがとうございます、逃げてきてくれて。会ってくれて、ありがとうございます」
由良は朝日みたいに笑う。
人と向き合っているということを忘れて見つめた。
またこの人、まっすぐさが暴力的だ。
「おれも……」
一鷹が振り返る。涙の跡が残った頬をこすって言った。
「おれも皓夜兄ちゃんに会えてよかったよ」
雨上がりの、雫をのせた花みたいににっこりされると、ちょっとどうしていいかわからなくなる。ふたりして攻撃しないでほしいと思う。これで本人たちは自分が放つ威力にまったく気づいていないようだから、たちが悪い。
「あなたがいいと思えなくても、わたしはよかったと思っています」
「おれもよかったと思う!」
逃げて、よかったって。
よかったと思ったことはなかった。
でも、ちょっと恐ろしいくらい素直に、よかったんだと言ってくれる人たちがいた。
「あの、ありがとう」
皓夜はやっとの思いで言った。
どう言っていいかわからなかったけれど、どろどろしたものがいつのまにか消えていたから。風通しが良くなったから、ありがとうと言った。
由良と一鷹が顔を見合わせて笑う。
つられて、頬が緩んだ。
まだ雨はざあざあ降っている。ごろごろと雷の音もする。
ひたひたと水がしたたるのも聞こえる。
音楽みたいに、聞こえないこともない。
「ねえおれ、
一鷹が言い出した。
行きたいところを言うなんて初めてだった。
そしてそこは、羽衣座の人たちが死んだ場所だった。
「どうして行きたいのですか?」
由良が、玻璃が触れ合う優しい声音でたずねる。
一鷹は目を拭いながらこたえた。
「皓夜兄ちゃん、仲間のみんなに挨拶したらいいって思って」
一鷹の大きな目が皓夜を映す。
「お墓はないの?」
四人の亡骸がどうなったのか、墓があるのか、皓夜は知らない。逃げ出したからだ。
「おれも挨拶したいんだ。皓夜兄ちゃんを大事にしてくれてありがとうございますって」
一鷹の言葉はまっさらでまっすぐだった。
「父ちゃんも、お母さんのお墓に行ってた。こっちは元気でしあわせだよって言うんだって。おれは父ちゃんもお母さんも置いてきちゃったけど、帰ったら絶対会いに行くよ。それで今、元気でしあわせだよありがとうって言う。皓夜兄ちゃん今、元気でしあわせなら教えてあげたほうがいいよ」
今、元気でしあわせだろうか。
しごく元気だ。もとより身体は丈夫なほうだし風邪もひいていないし、怪我もしていない。ご飯はうまいしよく寝られる。健康に毎日やっている。
しあわせ。
しあわせだと思う。笛を吹いて喜んでもらえて、心を奪われた歌と重ねることができて、かわいい弟みたいな子を甘やかすことができて、いろいろな人に出会うことができる。
必要としてもらえる。
会えてよかったと言ってもらえる。
会えてよかったと、思える。
自分でも飲み込み切れない思いを、あっさり包み込んでもらえる。
これはきっと、しあわせだ。
今、元気でしあわせなのだ。
皓夜は、自分がいちばん大事だと思って生きていこうと決めてきた。誰かのために命を懸けて尽くしきるとか、誇りのために死を選ぶとか御免だ。
恐ろしい危ないものからはさっさと逃げる。
自分の力ではどうしようもないことは、どうにかしようとしない。
自分を守る。
生きていく。
それが、皓夜にとっての最も大切なことだ。
それはまったく麗しくも、気高くもないのだと思う。
ときに批難すらされると思う。
自分でも、その生き方に胸を張ることはできていなかった。
でも。
それでも、そうしてきてよかった。
よかったと思えた。今は。
逃げていなければ、目の前のふたりに会えなかった。
ふたりはそんな、あたりまえなのに見えていなかったことを見せてくれた。
逃げ出すことは恥ではないとは、ずっと思ってきた。でもどこかにずっとうしろめたさがあった。
目の前で誇りを貫いて死のうとする人たちに背を向けたときも。
ひとりで旅を続けているときもずっと。
身体じゅうを震わせるくらい、罪の意識がまとわりついていた。
どうして逃げるのだろう。
なぜ向き合おうとしないのか。
なぜ立ち向かおうとしないのか。
なぜ貫き通そうとしないのか。
どうして一緒に、死なないのだろう。
どこかでずっと、そんなふうに自分に問い続けていた。
自分がいちばん大事と思いながら、自分を認めることができていなかった。
逃げるのなんて、みっともなくて無責任でみじめなように見えるから。
でもいい。
逃げていい。
向き合って焼き切れるくらいなら目をそらしていい。
立ち向かって倒れるくらいならそんなたたかいは放り出していい。
貫き通して折れるくらいならそんなところに穴あけようとしなくていい。
そうでないと本当に、かけがえのないものを、失う。
いちばん大切なものがなくなってしまう。
そうなったら、どこにも行けない。何にもなれない。何もできない。
待っているかもしれない人に、いちばん会いたいかもしれない人に、会えない。
会えなかったかもしれない。
それはだめだ。
そんなの嫌だ。
嫌だった。
だから逃げていい。
逃げないといけない。
よかった。
逃げてきてよかった。
生きていて、よかった。
そう、今。
元気で、しあわせだ。
「一鷹、ありがとう」
一鷹が首をかしげる。
「芒村に行く」
「ほんと? やった」
言いたいから。
「逃げてごめんって、でもそれでよかった、今元気でしあわせだって言うよ」
羽衣座の人たちは、手に入れるはずだったそれを捨ててたたかった。自分を守るために、生きるためにそんな人たちを置いてきたのだ。いつまでも、うしろめたいし誇ることはできないなどと言っていたら、みんな皓夜を殴り倒したくなるかもしれない。そろそろ、前を向けばいいんじゃないかと思えた。しっかり前を見て、これでよかった、これがよかったと伝えに行く。
一鷹が大きくうなずいてくれる。
「じゃあ行こう!」
そのとき、洞穴に光が差し込んできた。
「あ……」
一鷹が声を漏らす。
雨の音が、いつのまにか消えていた。
日がさしている。
「晴れたね!」
一鷹が外に走り出ようとする。
「わっびっしょびしょ!」
叫びながら、一鷹が洞穴の出口でたまった水を跳ね上げる。由良がくすくすと笑う。
皓夜を見て、由良は言った。
「晴れましたね」
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