二十五 血と羽衣
どこをどう走ったのか歩いたのか這いずったのかわからなかった。
気が付くと、知らない町にいた。
今がいつなのかもわからず、とにかく足を動かした。
曲がったり戻ったりしないで、ずっとずっとまっすぐ進んだ。
そうしていたら、足元に何かが滑り込んできた。
反射的に、かがんで拾った。
白い紙だった。
裏返す。
赤が目に飛び込んだ。
音も匂いも全部消えて、目の前の紙だけが鮮やかに映る。
朱殷の筆で塗りたくられ、あとは黒い墨だけで描かれた二色の絵だった。
赤は血の海なのだと、わかった。
その前で立ち尽くす男と、武器を持った集団。
視線の先に、血濡れで倒れた人が、四人。
棒立ちの集団のいちばん近くに、男の人が横たわっていた。胸から腹が紅に染まり、その手には何か細長いものが握られていた。
そのうしろに、長い髪を濡れた地面に広げた女の人。その横には、弦がずたずたに切れて傷ついた琵琶が転がっていた。
そして女の人のすぐそばに、折り重なったふたり。
少年が少女に覆いかぶさり、その背はぱくりと割れていた。
少年の頭を抱きしめた少女は、静かに目を閉じている。
彼女に向かって、刃が。
がたりと衝撃を感じて、自分が地面に崩れ落ちたことに気づく。
それは単なる絵で、あまり真に迫った細かい描きこみはされていなくて、でもひどく、生々しかった。
それは
止められたかもしれない惨劇だった。
違う。
この絵の中に、自分もいるはずだった。
これは皓夜が迎えるはずの、迎えるべき結末だった。
この絵を今すぐ破り捨てたい。
それなのに呪いがかかったように身体が動かない。
「だいじょうぶかい?」
声がかかり肩を叩かれる。
心配そうに覗き込んでくれている人がいた。周りにも、様子をうかがっている人たちがいる。
町の真ん中で、座り込んでいたのだ。
誰かが言った。
「確かにこれはびっくりだよね」
「
「信じられないね」
「うへえ、やっぱりこの絵、刺激が強すぎるよ」
「煽ってるのかな」
「こういうの見せとけば満足すると思われてんだよ」
「なめられたもんだね」
「これほんとなの?」
「ほんとらしいよ。この絵は実際見た人の話ももとに描いたんだって」
「今、
「お客たちが通報したんだね」
「やったやつらも自分で申し出たんだって」
「じゃあやるなよ」
「確かに」
「わああかわいそう気の毒」
「見たかったのに」
「もうすぐここにも来るかもって楽しみだったのにね、羽衣座」
「おいだいじょうぶか、坊ちゃん」
皓夜を囲む人たちはみんな、赤い絵を手にしていた。
縊り殺されているような音が、喉から漏れる。
「顔色悪いよ?」
「まったくやりすぎだよねこの絵は」
「趣味悪」
「なんかあったらすぐ絵にしてばらまくやつがいるんだよこの町。すまんね」
「立って、坊ちゃん」
手が差し伸べられる。
「あれ? あんた妙なかっこうしてるね?」
「ほんと。変わってるね」
「羽衣座みたい」
「あんた見たことあるの?」
「うんあるよ。でも羽衣座って、四人だったっけ……」
違う。
おれも羽衣座だ。羽衣座は五人だ。
抜かすな。
違う。
おれは、羽衣座だなんて言う資格、ない。
皓夜は立ち上がった。
力が抜けた足で、走り出す。
うしろで声が聞こえた気がしたけれど、立ち止まれなかった。
途中で、真っ赤な絵をぐしゃぐしゃにして踏みつけて捨て置いた。
皓夜、羽衣座へようこそ。
一緒にいろんなところに行って、楽しもうな。
今日からきみはおれたちの仲間だよ。
あら、似合っているじゃない衣装。
すっかりうちの一員ね、すてきよ。
きみが仲間になってくれてうれしいわ。
皓夜はわたしのものだって言ったけど、冗談だよ。
あのね、皓夜は皓夜だけのものだよ、ねえわかった?
皓夜はわたしのものじゃなくて、わたしの、わたしたちの仲間。
で、わたしは誰でしょう?
はい、合ってるけど違います。
座長で天女の、
はあ? 早く一緒にやりたいとかおれは言ってねえよ。
弟ががんばってると応援してやりたいだろ、そういうこと。
まああれだ、仲間って言ってもいいけどさ。
待ってやっぱり今のなし。やっぱりあり。あっなしにしとくとみせかけてありにしよう。
おい黙って去るなよなんか言えよ!
救ってくれて、仲間と呼んでくれた人たちは、もういない。
みんな死んでしまったから。
でも皓夜は生きている。
ひとりだけ逃げたから。
みんなを置いて逃げたから。
それは決して恥ではなくて。
そうだ、うしろめたいことなんかない。
自分のことをいちばんに考えて生きて行こうと決めたから。
父が兄が、家臣たちがつぎつぎとこの世を去ったときに。
もしかしたら、五つのころ母がなくなったときにはもう決めていたのかもしれない。
何も恥ずべきことなどない。
でも、それは誇りでもなくて。
そうだ、胸を張ることなんてできない。
重くぬめったものが胸の中に巣くって苦しい。
この生き方を誇ることなど不可能だ。
それでも、こうやって生きていく。
ちゃんと腹が減って、食ったらうまくて、夜が来れば眠たくなるから。
生きていけるから。
皓夜は羽衣座が死んだその翌日、ひとりで
そこで純白の衣装を売って笛を買った。
ひとりでも生きていくすべをせっかく持っているのだから、使わない手はないだろうと思ったのだ。
於慈佳の町は、羽衣座が「みんな」殺された事件の話でもちきりで、皓夜は熱心に喋る町の人たちに、相槌を打っていた。
頭がおかしいなと思った。
どうしてそんなことができるんだろうと思った。
でも自分の行いを否定する気にはならなかった。
笛を吹いた。
歩いた。
旅をしようとは思わないまま、旅が続いた。
於慈佳の萩畑は、見なかった。
ある日、羽衣座を全員なき者にした男たちが、
でも羽衣座の芸人たちは誰も逃げなかったから、殺した。
血も出ないように殺して亡骸を始末して、報酬を受け取ることもできたはずだ。その予定だったはずだ。でも男たちはそうせず、羽衣座の人たちを殺めたあと
意味がわからないやつらだなと、思った。
男が言っていた、「どこぞの北国のなにがしとかいう一座」というのはなんのことかも、だいたい察しがついていた。
羽衣座に嫉妬したか、追い出した琵琶打ちの輝かしい活躍を知ったか、みすみす逃したその美しい音色への思いをこじらせたか。なんでもいいと思った。そいつらが憎いとも思わなかった。
そしてある日には、
出穂は、近頃力をつけてきた国である
「
出穂王は家臣たちに戦うことを命じたが、殺された。らしい。
その首謀者は、父の跡を継いで護国府の長官、
父が言っていた。
王は、心が休まることがないのだと。
幼いころから王となる者として厳しく教育され、泣くな、弱みを見せるなと言われて育ってきた。
父はそれを知っていた。年が近い王とは、ともに育ったからだ。一緒に学んで、遊んできた。
泣いてもいいという、泣けばいいという「腫眼」たちの会合が理解できなくて、少しうらやましくて許せないのだろう。
気持ちを押し殺して生きてきたから、美しいものや癒しを与えてくれるものに執着してしまうのだろう。
父はそうやって王の心の内を推し量っていた。
でも陛下は、本当はお優しい方だから。
だから、きっとわかってくださると、父は信じていた。
向き合い続けた。
それのせいで父も兄も家臣たちも死んだ。
しまいには王も死んだ。
出穂は戦う前に降伏し、桜雲のものになった。
心底どうでもよかった。
皓夜は旅を続けた。
出穂を乗っ取った桜雲にも行って、
笛を吹き続けた。
何かにずっと、追われているような気がした。
誰にも、追われていないのに。
追いかけてくれるような人もいないのに。
洞穴の中が白く光る。
岩がくだけるような音が、響く。
雨はまだ激しく降り続いている。
決して消せないものを、必死に洗い流そうとしているみたいだ。
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