二十四 高潔と酸鼻

 それから於慈佳おじかまで、いくつもの町や村に寄ってゆっくり滞在して、芸を披露した。於慈佳も、萩が咲く秋ももうすぐだ。きっと満開の、萩畑が見られる。

 今日は芒村すすきむらという村の広場で公演する。

 広場には少しずつ人が集まっている。今は木の陰で待機していた。本番の前でも、のんびりしている。

 今日は公演日和の、いい天気だ。

 夏の尾を少し引いた鮮やかな青い空には、刷毛で描いたような雲が浮かんでいる。

 さらりとした風は涼しい。暑い日が続いていたから、それだけでなんだかうれしくなる。

 「そろそろ始めるころだね」

 鹿倉かぐらが広場をのぞいて言う。

 「そだね」

 太鼓を担いだはやてが軽くこたえた。

 先に楽器が出て行って演奏を始め、頃合いになったらまどかが出てきて舞い始めるということになっている。白い衣を着て朱鷺色の布を羽織った圓は、本番を想像しているのか目を閉じて踊っている。軽くやっているようなのに、目がひきつけられる。相変わらず不思議な舞だ。

 「思ったより人いるな」

 颯が言った。

 皓夜こうやは衣の襟を直しながら、そうだなとこたえた。

 「みんなまとめてわたしたちのものよ」

 澪木みおぎのせりふに、皓夜はふきだしてしまう。鹿倉が姐御、とつぶやいていた。

 「そうだよ、みんなわたしたちのものにするの」

 くるりと、花が開くように回転した圓が言う。

 「わたしたちは羽衣座はごろもざだからね」

 もうすぐ、この世にふたつとない一座の、最初で最後の公演が始まる。いつも、始まる前はそんな気持ちになる。自信と誇りと信頼と、喜びでいっぱいになる。

 おれたちは羽衣座だから。




***




 それは突然だった。

 笛が割れた。

 皓夜が使わせてもらっていた、鹿倉の予備の笛だ。

 最初は何が起こったかわからなくて、理解した途端に頭が真っ白になって衝撃が身体を駆け巡った。大事な笛なのに、演奏中なのに。でも演奏中だから、割れた笛で邪魔するわけにはいかないと、頭の端で考えた。

 皓夜はすすっとうしろに下がって木陰に退散した。

 みんな素知らぬ顔をしていたし、お客も皓夜のほうを見ていなかった。

 木の陰に座って確認すると、笛にはきれいに縦の亀裂が入っていた。

 鹿倉の笛なのに。

 鹿倉が大事にしてきたはずなのに。

 これでずっと練習してきたのに。初めての公演もこれでやったのに。

 申し訳なさと寂しさがこみあげる。

 でも同時に、思った。

 鹿倉はきっと、ちょうどいいと言ってくれる。

 於慈佳に着いたら新しいの買うもんな、笛も祝ってくれてるんだよ。

 そう言う優しい笑顔が簡単に想像できた。自惚れているなあと思うけれど、絶対にそうなると思う。

 そして圓が、笛のお墓を作ろうとか言いだして。

 颯が、何言ってんだよあほだろと茶化して、ふたりは仲良くけんかして。

 澪木が、修理に出せばいいじゃないと、さらりと言って。

 そうなんだろうな。

 きっと、そうだったんだろうな。

 口元に淡く笑みが浮かぶ。

 そんな自分に気づいた瞬間、ぞわりと悪寒が走った。

 何を、考えているんだろう。

 おかしい。

 みんなは目の前にいるのに。

 まるで、もういない、人たちみたいに。

 そのときだった。

 腐った果実の中身がはじけ飛ぶような音が、響いた。

 破裂したあと、高低を激しく行き来しながら伸びるその音。

 法螺貝だ、と気づいたとき、見えた。

 羽衣座のみんなが、皓夜のいる木陰に背を向けて演奏を続けていて。

 その前にたくさんのお客が座っていて。

 その、お客のうしろに、誰かいた。

 集団だった。

 十人くらいいる。

 物々しい雰囲気だった。

 まずいものが来たと、それだけはっきりわかった。

 お客たちがうしろを振り返り、かたまる。

 その集団は、槍とか刀とか、弓とかを持っていた。

 うしろのほうから、ひとりの男が進み出てくる。

 お客の数人が、人だかりから抜け出して走り去っていくのが見えた。

 それでも羽衣座は、演奏も舞もやめていない。

 出てきた男は、小柄で細身な人だった。虎の皮の袴を履き、豪奢な女物の打掛を肩にかけている。

 客はみんなもう、男たちに釘付けになっていた。

 皓夜も、呆然と集団を眺めることしかできなかった。

 「おい」

 男が声を発した。

 客たちは、返事ができない。

 言葉を失っている。

 羽衣座は、返事をしようとしない。

 圓は笑みを浮かべて天女のように舞っている。

 鹿倉は笛の歌口から唇を離さない。

 澪木は男たちに一瞥もくれずに撥を動かしている。

 颯は少しも乱れない低音を響かせている。

 そこに自分がいないことが、悔しくて歯がゆくて。

 幸運だ、と思った。


 「おい」

 男の声が大きく、荒くなる。客たちは意を決したように逃げ出した。

 男が顎をしゃくると、控えていた数人が出てきて人々の前に立ちはだかった。

 抵抗しようとした人は、押されてあっけなく地面に転がる。

 悲鳴が上がった。

 それでも羽衣座は、こたえようとしない。

 「おいおまえら」

 男が怒鳴る。

 客たちは怯え切っていた。頭を抱えて地面に突っ伏した人、土下座をしている人、顔を覆って肩を震わせている人。痛々しく、怖がって、助けを乞うていた。

 そのうちひとりの髪を、男の仲間が掴んで立たせる。その人に、刀が突き付けられた。

 叫び声があがる。

 「おい貴様ら!」

 男が大音声で呼ばわったときだ。

 「なんでしょうかあ」

 甘えたような、甲高い声がこたえた。

 圓だ。

 圓は風に吹かれる花びらのように男に近づいていく。

 そして男の周りを、ひらりひらりと回る。

 「これはこれは、なんて立派なお方。見に来てくださったの?」

 三人は音楽を止めない。

 「うれしいわ。でも、その方怯えてる。放してくださらない?」

 拘束されてがたがたと震えている人を示して、圓は言った。そのあいだも、しなやかに軽やかに、舞うことをやめない。

 男が笑った。自分の中に湧いた苦みをかみ殺すような笑みに見えた。

 男は低くつぶやく。

 「見に来た、か」

 圓は刀を向けられた人のそばでぐるぐると回転し、転びそうにつんのめって見せていた。おどけているだけなのに妙に見入ってしまう動きを目にして、その人の身体の震えがおさまっていく。

 それを眺めていた男が言った。

 「貴様らのことはなあ、もう飽きるほど見たよ。いつまで経っても飽きないけどなあ」

 「あらあ、なんてうれしいお言葉」

 圓が恭しく、雅やかに頭を下げた。

 音楽も、止まらない。空気にとけ込んでいる。それが聞こえなくなったら世界が終わるのだろうなと、皓夜はぼんやりと思う。

 「まあいい。放してやれ」

 男が言うと、捕まえられていた人は解放された。

 「行かせろ」

 その言葉で客たちを取り囲んでいた集団が道をあける。客たちはしばし呆然として、そして急に蜘蛛の子を散らすように駆け出した。

 広場には、羽衣座と、男たちだけが残された。

 「おれたちみたいなごろつきは、仕事を選ばねえ」

 男が打掛を肩にかけなおしながら言う。

 「金をより多く積むやつから依頼を受ける」

 ああきっと、もうすぐ終わってしまうのだと、五感以外の何かが勝手に理解する。

 「でもなあ、ずっと見てたら情が湧くってもんよ」

 男の言葉に、圓がふふっと軽やかに笑う。

 「あのね。立ちっぱなしもなんだから、そこにお座りになったら?」

 「いらねえよ」

 男がすぐにこたえる。そして言った。

 「貴様ら、羽衣座。今すぐ芸をやめろ」

 「どうして?」

 のんきな様子で舞いながら、圓がたずねる。

 その声音ににじんだ激情に、きっと男は気づいていない。

 「こんなことを教えるのは、貴様らを助けてやりたいからだ。こんな糞ほど派手なかっこうして、わざわざ目の前に出てきてんのもびびって逃げてほしいからだ」

 「なあに? どういうことなのかしら?」

 「どこぞの北国のなにがしとかいう一座がな、貴様らが目障りなんだとよ。消えてほしいんだとよ。それで抜け忍のろくでなし集団に頼んできたわけだ」

 「あらあ」

 「おれたちは死ぬほど金を積まれてる」

 「まあそれ、とってもすてきだわあ」

 「踊り子の領巾。笛。太鼓の桴。琵琶の撥」

 「ひれふえばちばち?」

 「それを証拠と言えば信用するだろう」

 「そうなのお」

 「芸をやめろ。それを置いて去れ。もう二度と芸をやるな」

 「あらまあ」

 「でなけりゃ、殺す」

 男のそばに控える集団は、みんな能面のような顔をして立っていた。

 男は舞う圓を、真摯とも言える目でじっと見ていた。

 音は止まらなかった。

 四人の背中はいつも通りだった。

 気高く麗しくいきる、芸人だった。

 「そうなのねえ、わかったあ」

 圓の手にした朱鷺色の布が、さあっと広がって宙を舞い。

 そしてつぎの瞬間には、ぎゅっと縮んで男に巻き付く紐になった。

 圓は男の首に布をひっかけて自分のほうに引っ張っていた。

 羽のような舞からは想像がつかない、素早く激しい動作。

 男は不意を突かれて素直に圓に引き寄せられる。

 そのとき、琵琶がひときわ高く鳴らされた。

 途中で曲を変える合図。

 そうこの音は、弥栄にきりかえるときのものだ。

 笛と太鼓が即座に反応する。

 弥栄が、始まった。

 背を向けているのに、圓がにいと唇を左右に引くのがわかった。

 きっとそれは。

 恐怖するほど美しく、激烈な笑みで。

 男が怯む。

 「黙れ、腐れ鼻つまみ」

 圓の声は、低かった。

 「許さない」

 ああやめて。

 やめてくれ。

 おねがいだからやめて。

 「おまえら、わたしたちの邪魔をした」

 向き合おうとしないで。立ち向かおうとしないで。

 「わたしたちを馬鹿にした」

 貫き通そうとしないで。

 「助けるなんてちゃんちゃらおかしい」

 圓が男に顔を寄せ、その頬に白い指を這わせる。

 「どこぞの北国のなにがしとかいう一座? 上等だ」

 溺れそうに艶めかしいささやき。

 狂乱の宴を飾るような音楽。

 「極めた芸を目障りだ消えろって? やっぱり思った通りだ。思ってたよりずっとずっと悪い。腐れ落ちてへどろになってる。きったない寒気がする」

 皓夜は立ち上がっていた。

 あとずさっていた。

 「そんな人畜生のなり損ないは、地獄の底を血まみれで這いずるんだ」

 ひび割れた笛が手から滑り落ちる。

 石にぶつかる。

 真っ二つになる。

 「それのために芸をやめろって?」

 いやだ、と唇が動いても、声が出なかった。

 「そんなの、それにひざまずくのと同じだ」

 ひざまずけばいい。

 全部かなぐり捨ててしまえばいい。

 でも。

 「馬鹿にするな。邪魔をするな」

 言い捨てた天女は男から離れ、空へ駆けのぼるように舞い始める。

 舞を支える、結び合ってとけ合って美しさを引き出しあう音色が、惨たらしい行く末を連れてくる。

 永遠の繁栄を祈りながら。

 天女が両腕を大きく広げた。

 この世はわたしのものだと言うようだった。

 実際そうなのだろう。

 今このときだけは。

 夢のような音色の中、羽衣をたなびかせて天女は言った。

 「やめない。逃げも隠れもしない。鬼畜ごときに膝は折らない」

 天へ掲げた手は全能で、あまりにも小さい。

 「わたしたちは、羽衣座だ」

 男の顔から表情が消える。

 おしまいがちかい。

 皓夜は、終末へまっしぐらに飛び込む輝かしい人々に背を向けた。

 目の端に映った、無残な姿の笛を意識から押し出す。

 そしてそこから逃げ出した。

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