二十四 高潔と酸鼻
それから
今日は
広場には少しずつ人が集まっている。今は木の陰で待機していた。本番の前でも、のんびりしている。
今日は公演日和の、いい天気だ。
夏の尾を少し引いた鮮やかな青い空には、刷毛で描いたような雲が浮かんでいる。
さらりとした風は涼しい。暑い日が続いていたから、それだけでなんだかうれしくなる。
「そろそろ始めるころだね」
「そだね」
太鼓を担いだ
先に楽器が出て行って演奏を始め、頃合いになったら
「思ったより人いるな」
颯が言った。
「みんなまとめてわたしたちのものよ」
「そうだよ、みんなわたしたちのものにするの」
くるりと、花が開くように回転した圓が言う。
「わたしたちは
もうすぐ、この世にふたつとない一座の、最初で最後の公演が始まる。いつも、始まる前はそんな気持ちになる。自信と誇りと信頼と、喜びでいっぱいになる。
おれたちは羽衣座だから。
***
それは突然だった。
笛が割れた。
皓夜が使わせてもらっていた、鹿倉の予備の笛だ。
最初は何が起こったかわからなくて、理解した途端に頭が真っ白になって衝撃が身体を駆け巡った。大事な笛なのに、演奏中なのに。でも演奏中だから、割れた笛で邪魔するわけにはいかないと、頭の端で考えた。
皓夜はすすっとうしろに下がって木陰に退散した。
みんな素知らぬ顔をしていたし、お客も皓夜のほうを見ていなかった。
木の陰に座って確認すると、笛にはきれいに縦の亀裂が入っていた。
鹿倉の笛なのに。
鹿倉が大事にしてきたはずなのに。
これでずっと練習してきたのに。初めての公演もこれでやったのに。
申し訳なさと寂しさがこみあげる。
でも同時に、思った。
鹿倉はきっと、ちょうどいいと言ってくれる。
於慈佳に着いたら新しいの買うもんな、笛も祝ってくれてるんだよ。
そう言う優しい笑顔が簡単に想像できた。自惚れているなあと思うけれど、絶対にそうなると思う。
そして圓が、笛のお墓を作ろうとか言いだして。
颯が、何言ってんだよあほだろと茶化して、ふたりは仲良くけんかして。
澪木が、修理に出せばいいじゃないと、さらりと言って。
そうなんだろうな。
きっと、そうだったんだろうな。
口元に淡く笑みが浮かぶ。
そんな自分に気づいた瞬間、ぞわりと悪寒が走った。
何を、考えているんだろう。
おかしい。
みんなは目の前にいるのに。
まるで、もういない、人たちみたいに。
そのときだった。
腐った果実の中身がはじけ飛ぶような音が、響いた。
破裂したあと、高低を激しく行き来しながら伸びるその音。
法螺貝だ、と気づいたとき、見えた。
羽衣座のみんなが、皓夜のいる木陰に背を向けて演奏を続けていて。
その前にたくさんのお客が座っていて。
その、お客のうしろに、誰かいた。
集団だった。
十人くらいいる。
物々しい雰囲気だった。
まずいものが来たと、それだけはっきりわかった。
お客たちがうしろを振り返り、かたまる。
その集団は、槍とか刀とか、弓とかを持っていた。
うしろのほうから、ひとりの男が進み出てくる。
お客の数人が、人だかりから抜け出して走り去っていくのが見えた。
それでも羽衣座は、演奏も舞もやめていない。
出てきた男は、小柄で細身な人だった。虎の皮の袴を履き、豪奢な女物の打掛を肩にかけている。
客はみんなもう、男たちに釘付けになっていた。
皓夜も、呆然と集団を眺めることしかできなかった。
「おい」
男が声を発した。
客たちは、返事ができない。
言葉を失っている。
羽衣座は、返事をしようとしない。
圓は笑みを浮かべて天女のように舞っている。
鹿倉は笛の歌口から唇を離さない。
澪木は男たちに一瞥もくれずに撥を動かしている。
颯は少しも乱れない低音を響かせている。
そこに自分がいないことが、悔しくて歯がゆくて。
幸運だ、と思った。
「おい」
男の声が大きく、荒くなる。客たちは意を決したように逃げ出した。
男が顎をしゃくると、控えていた数人が出てきて人々の前に立ちはだかった。
抵抗しようとした人は、押されてあっけなく地面に転がる。
悲鳴が上がった。
それでも羽衣座は、こたえようとしない。
「おいおまえら」
男が怒鳴る。
客たちは怯え切っていた。頭を抱えて地面に突っ伏した人、土下座をしている人、顔を覆って肩を震わせている人。痛々しく、怖がって、助けを乞うていた。
そのうちひとりの髪を、男の仲間が掴んで立たせる。その人に、刀が突き付けられた。
叫び声があがる。
「おい貴様ら!」
男が大音声で呼ばわったときだ。
「なんでしょうかあ」
甘えたような、甲高い声がこたえた。
圓だ。
圓は風に吹かれる花びらのように男に近づいていく。
そして男の周りを、ひらりひらりと回る。
「これはこれは、なんて立派なお方。見に来てくださったの?」
三人は音楽を止めない。
「うれしいわ。でも、その方怯えてる。放してくださらない?」
拘束されてがたがたと震えている人を示して、圓は言った。そのあいだも、しなやかに軽やかに、舞うことをやめない。
男が笑った。自分の中に湧いた苦みをかみ殺すような笑みに見えた。
男は低くつぶやく。
「見に来た、か」
圓は刀を向けられた人のそばでぐるぐると回転し、転びそうにつんのめって見せていた。おどけているだけなのに妙に見入ってしまう動きを目にして、その人の身体の震えがおさまっていく。
それを眺めていた男が言った。
「貴様らのことはなあ、もう飽きるほど見たよ。いつまで経っても飽きないけどなあ」
「あらあ、なんてうれしいお言葉」
圓が恭しく、雅やかに頭を下げた。
音楽も、止まらない。空気にとけ込んでいる。それが聞こえなくなったら世界が終わるのだろうなと、皓夜はぼんやりと思う。
「まあいい。放してやれ」
男が言うと、捕まえられていた人は解放された。
「行かせろ」
その言葉で客たちを取り囲んでいた集団が道をあける。客たちはしばし呆然として、そして急に蜘蛛の子を散らすように駆け出した。
広場には、羽衣座と、男たちだけが残された。
「おれたちみたいなごろつきは、仕事を選ばねえ」
男が打掛を肩にかけなおしながら言う。
「金をより多く積むやつから依頼を受ける」
ああきっと、もうすぐ終わってしまうのだと、五感以外の何かが勝手に理解する。
「でもなあ、ずっと見てたら情が湧くってもんよ」
男の言葉に、圓がふふっと軽やかに笑う。
「あのね。立ちっぱなしもなんだから、そこにお座りになったら?」
「いらねえよ」
男がすぐにこたえる。そして言った。
「貴様ら、羽衣座。今すぐ芸をやめろ」
「どうして?」
のんきな様子で舞いながら、圓がたずねる。
その声音ににじんだ激情に、きっと男は気づいていない。
「こんなことを教えるのは、貴様らを助けてやりたいからだ。こんな糞ほど派手なかっこうして、わざわざ目の前に出てきてんのもびびって逃げてほしいからだ」
「なあに? どういうことなのかしら?」
「どこぞの北国のなにがしとかいう一座がな、貴様らが目障りなんだとよ。消えてほしいんだとよ。それで抜け忍のろくでなし集団に頼んできたわけだ」
「あらあ」
「おれたちは死ぬほど金を積まれてる」
「まあそれ、とってもすてきだわあ」
「踊り子の領巾。笛。太鼓の桴。琵琶の撥」
「ひれふえばちばち?」
「それを証拠と言えば信用するだろう」
「そうなのお」
「芸をやめろ。それを置いて去れ。もう二度と芸をやるな」
「あらまあ」
「でなけりゃ、殺す」
男のそばに控える集団は、みんな能面のような顔をして立っていた。
男は舞う圓を、真摯とも言える目でじっと見ていた。
音は止まらなかった。
四人の背中はいつも通りだった。
気高く麗しくいきる、芸人だった。
「そうなのねえ、わかったあ」
圓の手にした朱鷺色の布が、さあっと広がって宙を舞い。
そしてつぎの瞬間には、ぎゅっと縮んで男に巻き付く紐になった。
圓は男の首に布をひっかけて自分のほうに引っ張っていた。
羽のような舞からは想像がつかない、素早く激しい動作。
男は不意を突かれて素直に圓に引き寄せられる。
そのとき、琵琶がひときわ高く鳴らされた。
途中で曲を変える合図。
そうこの音は、弥栄にきりかえるときのものだ。
笛と太鼓が即座に反応する。
弥栄が、始まった。
背を向けているのに、圓がにいと唇を左右に引くのがわかった。
きっとそれは。
恐怖するほど美しく、激烈な笑みで。
男が怯む。
「黙れ、腐れ鼻つまみ」
圓の声は、低かった。
「許さない」
ああやめて。
やめてくれ。
おねがいだからやめて。
「おまえら、わたしたちの邪魔をした」
向き合おうとしないで。立ち向かおうとしないで。
「わたしたちを馬鹿にした」
貫き通そうとしないで。
「助けるなんてちゃんちゃらおかしい」
圓が男に顔を寄せ、その頬に白い指を這わせる。
「どこぞの北国のなにがしとかいう一座? 上等だ」
溺れそうに艶めかしいささやき。
狂乱の宴を飾るような音楽。
「極めた芸を目障りだ消えろって? やっぱり思った通りだ。思ってたよりずっとずっと悪い。腐れ落ちてへどろになってる。きったない寒気がする」
皓夜は立ち上がっていた。
あとずさっていた。
「そんな人畜生のなり損ないは、地獄の底を血まみれで這いずるんだ」
ひび割れた笛が手から滑り落ちる。
石にぶつかる。
真っ二つになる。
「それのために芸をやめろって?」
いやだ、と唇が動いても、声が出なかった。
「そんなの、それにひざまずくのと同じだ」
ひざまずけばいい。
全部かなぐり捨ててしまえばいい。
でも。
「馬鹿にするな。邪魔をするな」
言い捨てた天女は男から離れ、空へ駆けのぼるように舞い始める。
舞を支える、結び合ってとけ合って美しさを引き出しあう音色が、惨たらしい行く末を連れてくる。
永遠の繁栄を祈りながら。
天女が両腕を大きく広げた。
この世はわたしのものだと言うようだった。
実際そうなのだろう。
今このときだけは。
夢のような音色の中、羽衣をたなびかせて天女は言った。
「やめない。逃げも隠れもしない。鬼畜ごときに膝は折らない」
天へ掲げた手は全能で、あまりにも小さい。
「わたしたちは、羽衣座だ」
男の顔から表情が消える。
おしまいがちかい。
皓夜は、終末へまっしぐらに飛び込む輝かしい人々に背を向けた。
目の端に映った、無残な姿の笛を意識から押し出す。
そしてそこから逃げ出した。
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