二十三 薄氷と椿

 遠くから聞こえる音が、皓夜こうやの意識を眠りから徐々に引き戻していた。だんだん、はっきりしてくる。それは物音ではなく、声で、遠くではなくすぐそばから聞こえていた。

「……はやて?」

 皓夜は起き上がり、隣で寝ている颯をゆすった。横向きになり傷を抱え込むように丸まった颯は、言葉にならない声を上げていた。

「颯、だいじょうぶか?」

 颯の隣には鹿倉かぐらがいるが、飲みすぎたせいかすやすや眠っていて、起きる気配がない。皓夜は顔をしかめ、颯を強く揺さぶった。

「おいどうした、腹痛いのか?」

「お、ねがい」

「え?」

「おねがい、します」

 皓夜はやっとわかった。いま、颯はここにはいないのだ。どこか颯をひどく苛む世界で迷子になって、取り残されて、苦しんでいる。

「しにたく、ない」

 皓夜は唇をかんだ。

「ころさ、ないで……」

 皓夜は思い切り力を入れて颯を転がした。顔が見える。歪んでかたくなった頬に、渾身のつねりをかます。

「起きろ」

 その瞬間、颯ががばりと起き上がった。額同士がぶつかりそうになり、急いで身体を引く。

「何? 誰? おまえ何?」

 目をみひらいた颯が叫ぶので、皓夜はひとさし指を口元にあてた。

「外じゃない。ほかのお客もいる」

 ここは宿の中だ。まばたきもせず皓夜を見ていた颯は、やがてふっと力を抜いたようだった。

「ごめん」

 颯の言葉に、皓夜は眉をひそめた。

「何が?」

 颯も眉を寄せる。

「いや、起こしてごめんってこと。寝言いってただろ、おれ」

 寝言というか、うなされていた。

「べつにいいよ。腹が痛くなったのかと思って心配した」

 皓夜が言うと、颯はふきだした。

「腹痛くない。いたって元気」

「そうか、よかった」

 静かになる。

 皓夜は鹿倉の言葉を思い出していた。照れとか相手との距離とか、ほっぽりだすことがあるんだなと言っていた。無意識じゃなくて、意識してほっぽりだすのもありだろうか。

「しにたくないってどういう意味だ?」

 皓夜は決心する前にそうたずねた。颯の肩がかすかに揺れる。

「え、何どういうこと?」

 そう言う笑顔が引きつっているから、皓夜は立ち上がって戸を示した。

「ちょっと出よう」

「なんで?」

「いいから来い」

 にらみつけると、皓夜ってたまに怖い、と颯はあきらめたように笑った。




***




 寝静まった町は明かりが消えていた。満月の、青白い光だけが頼りだった。皓夜は宿の建物の前に置かれた縁台に座った。颯も隣に座らせた。

 皓夜はしばらく黙っていた。颯も何も言わなかった。誰もいないみたいに静かな、寂しい月影を受け止めるだけの世界を眺めていた。

「おれ今日、最低だった」

 ぽつりと、颯が言った。静寂の中に吸い込まれて消えそうな言葉を、なんとか手繰り寄せて手の中におさめる。

「どうしてだ?」

 皓夜はたずねた。颯はうつむいて、自嘲するように唇を歪ませる。

まどかに」

 それを聞いて、皓夜は店での光景を思い出した。颯はひっくり返りかけた圓を引き寄せていた。

「最低か?」

 皓夜には、そうは思えなかった。誰も見ていなかったことに、なぜかほっとしてしまったが、それほどのことではないと思う。

「うん、最低だよ」

 颯は力なく言う。

「そうか」

 それしか言えなくて、皓夜は己の膝を見つめた。静けさが飽和する。

 ほっぽりだしたはずなのにな。

「だってさ、だめなんだ」

 皓夜は顔を上げた。颯が声を発したから。

「うん」

「おれはなんていうか、誰も守ってやれないの」

「そうなのか」

 颯は片手で、みずからの首を触っている。掴んでいるように見えた。

「あいつのことも守ってやれないの」

 静かな中でその言葉は、はっとするほどよく響いた。

「なのにあんなこと」

 圓を一瞬、抱きすくめたことだろうか。

「なんかさあ」

 颯は空虚な声を出して、髪をかき回す。

「三つ年上だし。おかしいぐらい美人だし。踊りの天才だし。でもあほで何するかわかんねえ」

 わかんねえよ、と颯はつぶやく。

「どうやって生きてきたのか、いつもぎりぎりで喋らない。ひとなのに、ひとじゃないみたいに見える。踊ってるときとか、ほんとにきれいすぎて、そのまま死ぬんじゃないかって思う。ほら、なんていうか、召されるんじゃないかって」

 縁台に足を持ち上げて、颯は膝を抱えた。

「怖いんだ」

 皓夜はうなずいた。

「気づいたら、守ってやりたいなって思ってたけど。でもそんなのおれには無理だし。守ってやれるところにいないし。遠いんだよ。……なんて」

 この期に及んで、へらりと笑う。皓夜は、その薄氷みたいな笑顔が割れればいいと思った。そんな嘘、崩れ去ってしまえばいいと思った。でもそんなに簡単ではなかった。

「……守ってやらなきゃいけなかったひと、みんな守れなかったからさ」

 颯は、粉々になる前に膝に顔をうずめて隠してしまう。

「だから無理なんだ。あいつのことも。そもそも届かないし。守ってやるどころの騒ぎじゃない」

「うん」

「なのにまだ、おれ」

 膝を抱えた腕に力がこもるのがわかる。

「圓のこと」

 声が震えた。

 皓夜は黙って空を仰いだ。月が見えた。丸くてちっとも欠けたところがないのに、あんなにかなしく見えるのはどうしてだろう。演奏していたときは、満ち足りた心と同じかたちをしていると思ったのに。

「いままでもこれからも、できないからさ。なのに身の丈に合わないことばっかり思うの。鬱陶しくなる。そういうやつ嫌いだ。いなくなっちまえとか思うわけ」

 颯が言う。

 いなくなっちまえ。

 誰が。

 それはきっと、颯自身に向けられた言葉だ。

 皓夜は首を振った。

「しにたくないって言ってたのに」

 しにたくないって。ころさないでって。

 皓夜の脳裏に浮かんだのは、颯が颯に刃を向ける様子だった。魅入られそうにうつくしい刀を、颯が手にしている。それを首筋に突き付けられた颯は、何も映さない目をしてただうなだれている。

 刀を捨てて逃げ出せばいいと思った。

 立ち上がって逃げ出せばいいと思った。

 でも、きっとそうしないのだろうと、思った。

「わかんねえの」

 颯が消えそうな声でつぶやく。

「たまに寝言いうみたいなんだよな。最近はなかったんだけど。寝言いってるときは、夢、見てるんだろうけどあんまり覚えてない。とりあえずつらいんだけどさ」

 そんなの、耐えられない。

「皓夜はさ、守ってやれるよ」

 なぜだかとてもやわらかく、颯は言う。

「皓夜は強いし、やさしいし。守りたいやつのこと、守ってやれるよ」

 意味がわからない。そんな話をしているんじゃない。でも、どうしたらいいのかも、わからない。

 どうしてだろう。どうしてこんなに近くにいるのに、こんなに遠いんだろう。意識して距離をほっぽりだすのは、やっぱり無理なのか。

 言いたいことがたくさんある気がして、言えることなんか何もない気がして、言葉も感情も、早瀬のさなかにあるようで何ひとつ、つかまえられなかった。

「話、聞いてくれてありがとな。なんか楽になった」

 嘘。

 嘘吐くなよ。

 そう言っても、颯には近づけない。それだけはわかる。何をすればいいのか、どうして何もできないのか、大事なことは全部わからない。もどかしさが、ぞわぞわと背中をのぼっておりる。声にできない叫びが腹の底にわだかまっている。

「そろそろ戻る? 鹿倉さん起きたかも」

 颯が立ち上がる。

「鹿倉さんなら起きない」

 そんなことだけは、さらさらと言える。

「すごくよく寝てたからだいじょうぶだ」




***




 つぎの朝、五人で宿を発った。みんないつもどおりだった。歩きながら目が合うと、颯は皓夜の頭をはたいてきた。

「どうしたそんな顔して。陰気だぜ。腹痛いのか?」

「いや……」

「失恋?」

 圓が急に首を突っ込んでくる。颯がのけぞった。

「おまえ、そんな言葉どこで覚えたの?」

 圓がぶすりと膨れる。

「馬鹿にしないで。わたしだってそのくらい知ってるよ」

「いや……絶対意味わかってない」

「わかってるもん!」

「ふうん……へえ……」

「信じてない!」

 圓は雲の上を駆けるような足取りで颯を追い抜いた。己はうしろ向きで歩いて、颯をじっと見つめている。颯はさりげなく視線を下に向けていた。

 なんとなくいたたまれなくなって、皓夜は目をそらす。圓はきっと、颯の抱く思いを知らないのだろう。

「きみたち恋を知っているの?」

 鹿倉と並んで、皓夜と颯のうしろを歩いていた澪木みおぎが突然、淡白な口調で問うた。圓が目を泳がせる。己の踵につまずいた圓を、颯が引っ張り戻して突き放していた。

「澪木さんは?」

 懲りずにうしろ向きで歩き続ける圓がたずねる。澪木はくすりと笑った。

「わたしは知らないわ。わたしはわたししか知らない」

 そのこたえに圓はわかりやすく衝撃を受けた顔をし、すがるように鹿倉を見上げた。

「鹿倉さんは? 恋がわかる?」

「やっぱりわかってないんじゃん」

 隣を歩く颯が、そっぽを向いて文句を垂れる。皓夜はその肩をぽんと叩いてやろうかと思って、やめた。

 鹿倉はおだやかにこたえた。

「この笛が、おれの恋人」

「ふうん」

 圓がなぜか遠い目をする。皓夜は少し、笑ってしまった。颯はふいていた。

「そういうひとも、いていいわよね」

 澪木がさっぱりと言い、鹿倉が慌て出す。

「待って、冗談。おれはひとをすきになれるよ」

「素晴らしいじゃない、笛もひともすきになれるなんて」

 澪木にからかうでもない調子でそう言われ、鹿倉が途方に暮れている気配がする。

「じゃあどんなのが恋なの?」

 圓がまっさらな疑問をぶつける。皓夜は振り返った。鹿倉は目をしばたいている。澪木がおもしろそうにそれを眺めていた。

「ええと、何かのことが、すきってことかなあ」

 鹿倉は言った。

「じゃあやっぱり笛にも恋してるの?」

「うん、そうとも言えるけど。でも恋のすきは、ほかのすきとは違うんだと思うよ」

「へえ?」

「圓さんは、おれたちのことすきか?」

「だいすきだよ! ……あ」

 口を覆う圓に、鹿倉は子守歌のようにやさしく語る。

「たぶんそのすきは、恋じゃないよ」

「そうなの?」

「うん。圓さんは、おれたちといてどんな気持ちになる?」

 圓が細い顎に指を絡める。

「ええっとね……。あのね、ほっとするかな。楽しいし、うれしいし、そう、やっぱりだいすきって思うの」

 無垢なこたえはその場の空気を癒すようだった。鹿倉が言う。

「それはすごくうれしい。でもね、恋のすきにもそれはあるかもしれないけど、恋にはもっとべつの気持ちも含まれてると思うんだ。おれはね」

「じゃあそのべつの気持ちってなんなの?」

 圓がじれったそうに口をとがらせる。

「さあね……」

「あっ鹿倉さんずるい! ひどいよ!」

 圓が抗議しても、鹿倉はもう何も言わなかった。澪木がくすくす笑っていた。颯を見ると、不満げに眉間にしわを寄せ、圓と同じ表情をしていた。皓夜は目をむいた。

 あら。おまえもわかってないの? なんで? それは恋ではないの? 

 あら。もしかして、おれもわかってないのかな?

 皓夜はひとりで混乱した。

 そのとき、圓がつぶやいた。

「違うのかな」

 みんな圓を見る。圓はこぼれ落ちそうな椿のように、少しうつむいて続ける。

「守りたいって。誰にも好き勝手させたくないって思うのは、そうじゃない?」

 五人で黙り込んだ。

「わたしはみんなのことも、わたしたちの芸のことも、そう思うんだよ」

 圓は顔を上げた。

「みんなのことはわたしが守る。それとわたしたちの芸は誰にも馬鹿にさせないし、邪魔させないよ。みんなとみんなの演奏をどうこうするやつは、わたし絶対一生絶対許さないの。ほんとだよ」

 少し幼い口調の中に、苛烈なほどの思いが見え隠れしていた。

「圓さん。そういうのはおれに任せて」

 鹿倉がやわらかに言う。

「わたしもそうよ圓」

 澪木がさらりと口にした。

 皓夜は黙ってうなずいた。羽衣座はごろもざのみんなもその芸も、皓夜にとって、とても大切なものになっていた。かけがえのない、ものだった。

 返事を聞いた圓は、切れ長の目を丸めていた。

 最後に残った颯が、わずかに顔を歪めたのがわかった。でもすぐに、颯は笑った。

「圓って、やっぱりすげえあほだな」

「なんで! あんたには言われたくない!」

 圓が叫んでも、颯は言い返さなかった。

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