二十二 はじまりと鈍痛

 皓夜こうやははじめて、うつつとは思えないような宵を過ごした。

 満ちた月が浮かぶ空の下。枝に丸く集まって咲く桜花の鞠が、白く浮かび上がっていた。

 やさしくぬるんだ風は、どこかほろ苦い香りがして。

 濃紺の闇を照らす明かりはあたたかそうに揺れて、生きているようで。

 まわりを取り囲むひとびとは、瞳に月の光を映していて。

 新しい真白の衣はひんやりして、心が洗われるような肌触りで。

 手には馴染んだ笛があって、そばには羽衣座はごろもざのひとたちがいて、その中にいて。

 演奏が始まれば、まわりのざわめきが波にさらわれたように静かになった。舞い踊るまどかは桜の化身のようだった。その舞は皓夜を、鹿倉かぐら澪木みおぎはやてを、周囲で見つめるひとびとを、現世ではないどこかへいざなってのめり込ませた。すっかり連れ去られた皓夜は、音色に身をゆだねて酔った。己もこの調べの一部だと思うと、どうしようもなくしあわせだった。

 それは永遠の刹那だった。




***




「澪木さん……。おれたちのへたくそで見え透いた罠にかかってくれてありがとう……」

「あ、ええ」

「圓さん……。あのとき川のほとりで踊っててくれてありがとう……。六花座りっかざの誘いを蹴ってくれてありがとう……」

「うん! 蹴っ飛ばした!」

「颯……。生きててくれてありがとうなあ……」

「え、雑……?」

「皓夜……。笛吹きになってくれてありがとう……」

「こちらこそ」

 夜桜が見える酒場で、鹿倉はすっかり酔っぱらっていた。ぐすぐすと泣いている。どうやらお礼大会が始まったらしい。何を言っているのかはよくわからないのだが。

 大広間と呼ぶような畳敷きの広い部屋で、ほかの客もいる。でもみんなそれぞれ楽しんでいるし、向こうのほうでは床に突っ伏して何事か叫んでいるひともいるので、べつに鹿倉の泣き声が迷惑というわけではない。でも、こんな泣き上戸とは。

 澪木はそんな鹿倉を横目で見つつ、茶碗で酒をあおり続けていた。圓は猫のようにちびちび飲んでいて、ときおり肴の味噌をなめてはしょっぱそうに顔をしかめている。

 颯と皓夜は、きみたちに酒はまだ早いとのたまう澪木に米麴の甘酒をあてがわれた。圓が集めてきて入れた桜の花びらが浮かんでいる。聞こえはいいが、風流と言うには少し花びらが多すぎた。

 五人での初舞台に感極まった様子の鹿倉に、ここに連れてこられたのだ。皓夜はしばらく夢見心地だったが、酔っぱらって泣き出す鹿倉を見ていると少しずつ酔いが醒めてきた。

「これだともうなあ、於慈佳おじかに着くころにはものすごいことになってしまうぞ」

 鹿倉が鼻をすすりながら言うと澪木が、そうねといたって簡潔にこたえた。

「なんかそれ、前も聞いたな」

 颯がぼやいて、圓が声を上げる。

「そう、颯のはじめてのときも言ってた! えらいことになるぞって!」

「ああそうそう」

 颯が笑いながら肩をすくめる。

「そうなのか」

 皓夜は桜たっぷりの甘酒をひとくち飲んだ。とろりとあまい。

「うん。じゃあ圓も澪木さんも言われたの?」

 颯が聞く。圓と澪木が顔を見合わせた。

「あっそういえば、羽衣座って誰が最初なの? 誰が言い出したの?」

 たずねる颯は、甘酒の器を揺らしていた。皓夜も、羽衣座が不香ふきょう出身の三人から始まったということはなんとなく知っていたが、詳しくは聞いていなかった。颯もはじまりを知らないらしい。突然、鹿倉が床を叩いた。

「圓さんだよお。圓さんが始めたんだよお」

「圓?」

 颯に視線を向けられた圓が、ちろりと舌を出した。その隣の澪木はあきれたように笑うと、鹿倉の背中をばしんと叩いた。

「そうなの。それは初耳ね。どういうことかしら?」

「聞く? 聞きます?」

「ええ、わたしはもう何回目かわからない初耳だけれど」

 皓夜はぎょっとしたが、鹿倉はさめざめと泣きながら、話し始めた。


 鹿倉は不香の王に仕える名門、山吹家やまぶきけに生まれた。生まれたときから、将来は役人になるのだと決まっていた。でも鹿倉は音楽がすきで笛がすきで、笛吹きになりたくて。でもそれを言えずに、十六の年に役人になった。でもやっぱりあきらめきれなくて、二十二歳のときに家を出たのだという。そして、不香では知らぬ者のいない一座である、六花座に入ろうと試験を受けた。


「落ちたね。落ちまくった」

 鹿倉の涙はそのときだけぴたりと止まった。

「二年間挑み続けましたが、ことごとく落ちました」


 二十四歳になった鹿倉は、川のほとりでたそがれていた。これからどうしようと、考えたり考えなかったりして。そんなとき、見つけた。


「向こう岸で、踊ってたんだ」

 鹿倉は両手で顔を覆っていた。

「天女さまだと思ったよ。ぼろきれみたいなものを着てたのにそう見えた」

 それは、十三の圓だった。鹿倉はその舞にひとめ惚れして、どうやってか向こう岸に渡り、圓に声をかけた。

「あのとき圓さん、よく逃げなかったよね……」

 鹿倉は懐古する。

「急に変なやつに声かけられて、怖いって思わなかったのか?」

「鹿倉さんは変なやつじゃないよ。いまはちょっと変だけど」

 圓に真剣な表情で言われた鹿倉は、涙を拭いながらありがとうありがとうと繰り返した。


 鹿倉は幼い圓に頼んだそうだ。自分の笛にのせて、踊ってくれないかと、頭を下げた。圓は、すぐに踊り出した。

 逆だったのだ。圓の舞にのせて、鹿倉が笛を吹いた。するとひとが集まってきて、投げ銭をされた。そこで鹿倉は圓に言ったという。


「きみはその才能だと、六花座に入れるだろう。でもいますぐ試験を受けるより、練習したほうがいい。だからおれの笛で練習しないかなって。でも、すぐ自分がいやになったよ。だってそんなこと言いながら、圓さんを利用して稼ごうとしてたんだから」

 鹿倉はむせび泣く。澪木が茶碗片手にその肩をさすっていた。だって金は必要だものね、と言って。


 小さな圓は、鹿倉が己の舞で客寄せをして、金もうけをしようとしていることなどもちろん知らなかった。だから無垢な瞳で、すごい勢いで食いついたのだ。


「だって楽しそうだと思って、ひとりで踊るより」

 圓はさらりと回想した。


 鹿倉は自己嫌悪に陥りながらも、瞳をきらきらさせる圓にやっぱりやめるとは言えなかった。ふたりは毎日、川のほとりで合奏するようになった。

 すると噂が広まり、それなりの収入が得られるようになってしまう。それに褒められたのも客の目当ても、圓の舞だけではなかった。鹿倉がひそかに磨き続けてきた笛も、認められていたのだ。

 そしてついにある日、六花座に入らないかと打診された。夢の舞台が先方から歩み寄ってきたことが信じられず、鹿倉が言葉を失っていると。

 隣の圓が、突如として烈火のごとく怒り、喚き散らし始めた。


「『絶対いやだ! おまえらのところになんか行かない! なめやがって、腐れ婆! とっとと失せろ! 二度とわたしたちのそばに来るな!』と、おっしゃったよ、うちの座長さま」

 鹿倉は遠い目をしていた。怒り狂った圓の口の悪さは、変わっていないようだ。颯が顔を引きつらせて見ても、圓は素知らぬ様子で酒をなめていた。

「圓のせいで鹿倉さん、あこがれの六花座から永久に出入り禁止食らったんじゃ」

 颯がおそるおそるといった感じでたずねる。

「そのとおりだよ」

 鹿倉は腕に目を押し付けて言った。颯がかける言葉もなくしたように黙り込む。皓夜も何も言えなかった。

「でも圓さん、言ったんだ」


 あんな婆にはついていかない。わたしたちだけの、一座を作ろう。わたしたちはできるよ。

 

 皓夜ははっとして圓を見た。とんでもないが、かっこいい、と思ってしまった。目の前の圓は、きょとりと目を丸めて首を傾げている。


 でも傷心の鹿倉は、なんとも返事ができなかったらしい。そんな鹿倉を、圓はある茶屋に連れて行った。そこには、看板娘として働いている澪木がいたのだという。


「看板娘? もう娘という歳でもなかったわよ。よくわからないけれど、姐御とは呼ばれていたわ」

 澪木はひらひらと手を振った。


 茶屋の姐御の姿を見て、鹿倉はまた言葉を失ったそうだ。茶屋の姐御は、その十二年前に姿を消した、六花座の伝説的琵琶の名手だったから。見た目も雰囲気も、少しも変わっていなかった。


「そう、変わっていなかったかしら? ありがとう」

 そう言った澪木が手酌をしようとするので、皓夜は徳利を取り上げて茶碗に酒を注いだ。澪木が、やさしいのねと微笑む。余裕たっぷりで、余裕たっぷりにも見えない自然な様子は、やはり三百歳か千歳の人のようだ。それが十九歳から変わっていないって、いったい。

 

 あのすごい琵琶のひとを誘おうと、圓は鹿倉に言った。鹿倉は俄然やる気になってしまった。それからふたりは、毎日澪木のいる茶屋に通い、大声で話した。


 ねえ、わたしたちってものすごく天才だけど、なんか、なんかが足りないよねえ。

 そうだなあ、何が足りないんだろう?

 えっと、あ、やっぱり琵琶とか? 琵琶がないとだめなんだよ!

 そうだな確かに! 琵琶を弾いてくれるひとがいればなあ。

 うんうん。いたらいいのになあ、六花座の、澪木みたいなひとがねえ。

 

 その恐ろしく見え透いた作戦に、澪木は落ちたという。颯と皓夜は驚きにのけぞった。この澪木が、どうして。

「わたしも琵琶に未練があったのよ。また弾きたくてたまらなくなったの。自分からふたりに声をかけたわ」

 澪木はあっさりと言った。

 

 それで三人は、仲間になった、らしい。

「な、圓さんだろう? そうだよすべてのはじまりは、この座長の天女さまなんだよう」

 鹿倉がすすり泣く。

「言い始めたのが圓だから、圓が座長なのよね。それに誰もこの天女さまにはかなわないし」

 澪木が圓のつやめく黒髪を撫でる。圓は蜜のようにあまく笑っていた。

「羽衣座っていうのも、わたしが天女みたいだからって、鹿倉さんが考えたの」

 得意そうに言う。

「鹿倉さん命名だったんだ」

 颯が意外そうにつぶやいた。しばらくして、思いついたように澪木を見る。

「なんで澪木さんは琵琶辞めてたの?」

 すると圓が笑い出した。澪木が圓の額を軽く叩く。

「何もおもしろくないわ。六花座から勘当されたのよ」

 おもしろくないと言いながら、さらりとこたえた。

「なんで? なんでなの?」

 圓がわざとらしく笑いながら聞く。澪木は肩をすくめて言った。

「わたしは六花座にいたとき、なかなかに人気があったのよ。町に行けばたくさんのひとに囲まれていたわ。その中にはなぜかどこまでもついてくるひともいてね」

 澪木は心からわけがわからないという様子で首を傾げた。

「わたしの部屋に入ってきたひとがいたから、やりすぎではないですかと言ったのよ。でも聞こえていないようだったから、ちょっと床に沈めたわ。そうしたら、お客さまに何をしているんだって叱られて、追い出されてしまったの。お客を殴り飛ばしたという話が広まっていたから、見向きもされなくなったわ。やっぱり少しおもしろいわね」

 圓がけらけらと笑い出す。皓夜はぞっとして颯のほうを見た。颯も目をむいて、皓夜に顔を向けてきた。恐ろしい話だ。部屋に知らないひとが勝手に入ってくるなんて。

「どうやって沈めたの?」

 圓の問いに、澪木は謎めいた笑みを浮かべた。

「そうね……。やって見せましょうか。鹿倉、協力してくれるかしら?」

「おれはまだ生きたいですよお」

「死にはしないわよ……」

「勘弁してください姐御……」

 酔っ払いってこういうものだろうか。皓夜は颯としばらくお互いを見合って、同時にため息をついた。なんだかなあとうなずき合っていると、圓が猪口のふちをなぞりながら言い出した。

「わたしは六花座の澪木さんを見たことはなかったけどね、すごい琵琶を弾くひとが茶屋にいるかもって噂にはなってて。でも興味もなかったの。何もおもしろいって思ったことなかったし。でも身体を動かすのは嫌いじゃなかった。そうしてたら鹿倉さんに褒めてもらえて、すてきな笛の音に合わせて踊れて、みんな喜んでくれて、それがおもしろくなったんだ。だから、すごい琵琶のひとにも興味がわいたの。いろんなひとに聞いてみたら、そのすごいひと、六花座を追い出されたんだって聞いてね。そんなすごいひとを追い出すようなところ、腐れ爺と腐れ婆しかいないんだって思ったの」

 だから六花座の誘いを、罵詈雑言で蹴ったのか。

「でもよかったでしょ? そのおかげで羽衣座ができて、有名になってひとをいっぱい喜ばせて、みんな会えたの。正解でしょ?」

 圓はにこりと笑う。その笑みは清純で、妖艶で、どこか、はかなさを感じさせた。

「腐れ婆の誘い、蹴ってくれてありがとうございます、圓さん」

 皓夜が言うと、圓はうれしそうに声を上げて笑い出した。白い喉がのけぞり、うしろに倒れかける。

 あっと思った瞬間、向き合っていた颯がその手を掴んで引き寄せた。圓の身体はしなるようにして、颯の腕の中におさまる。三つ下でも、小柄な圓より颯のほうが大きくて、力も強かった。

「ありがと……」

 圓がつぶやく。

 おまえあほなのかよ、気をつけろよ、飲みすぎじゃねえの?

 そんなことを言って、颯は圓をそっと突き放すと思った。いつもみたいに。でも颯はそうしなかった。黙って圓を、腕の中に閉じ込めた。

 頬を颯の胸に押し付けるかっこうになった圓が、ぴたりと動きを止める。颯の顔は、圓がかぶって皓夜には見えなかった。

「ね、颯? ごめん、ごめんって」

 圓が颯の胸を叩くと、颯は我に返ったように圓を離した。皓夜は咄嗟にあたりを見回した。ほかの客は誰もこちらを見ていなくて、鹿倉はなぜか澪木に土下座していて、澪木は何がおかしいのか顔を覆って肩を震わせていた。皓夜はなんだかほっとした。

「何? 怒ってるの颯?」

 圓がまた颯に近づこうとする。皓夜はなんとなく、さりげなく手を出してそれを止めた。

「だいじょうぶだよな」

 颯を見て、皓夜は息を飲んだ。颯は、ひどく傷ついた、おびえた顔をしていた。迷子になったような、取り残されたような。そんな表情ははじめて見て、驚くより先に苦しくなる。

「だいじょうぶか……?」

 思わずたずねると、颯は急に、振り払うようにして笑った。

「いや圓。おまえ、あほなのか? 気をつけろよ、飲みすぎじゃねえの?」

「何よ、余計なお世話!」

 圓がふいと顔を背ける。皓夜も、笑ってみた。 

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