二十一 笛吹きと弟子

 冷たい空気が足元を這っている。稲株の残る田が広がったのどかな村の中、皓夜こうやはひとり立ち尽くしていた。迷子になっているわけではない。笛の師匠、鹿倉かぐらに捨て置かれたのだ。

 田のあいだにはまばらに家がある。外に出て、薪を割っているひとや、畦道を歩いているひとがいる。向こうのほうでは、子供たちがきゃらきゃらと声を上げながら追いかけっこをしている。ひとはいる。それでも、町に比べれば少ない。だからちょうどいいと言った。師匠が。

 皓夜は三つの曲を覚えた。なかなか出来もよくなってきたから、ここで披露してみろと鹿倉に言われたのだ。鹿倉はとてもおだやかなひとで、教え方もわかりやすい。でも、意外と雑に突き放すこともあるようだ。

 遠くで見守っているからということで、四人はどこかへ行ってしまった。楽しみにしてるぞ、がんばれよ、皓夜はできるよ、皓夜の笛すきよ、といろいろ勝手なことを言い残された。

 正直なところ、途方に暮れている。 こんなところで素人が笛を吹いて、おまえうるさいとか、耳障りだとか言われないだろうか。言われたっていいのだが、迷惑をかけるのはつらいなと思う。町より少ないと言ってもひとはいるのだ。

 確かに最初よりは上達したと思うのだが、四人は褒めてくれるのだが、自信のほどはいかにと問われたらあるとは言えない。皓夜は握っていた温石を懐に入れて、腰にさげた袋の上から笛を握りしめた。やる気はあっても怖気づいてしまう。

 でも、きっと。

 やさしい鹿倉が雑に突き放してくれたから、なかなか悪くないのだと思う。

 たぶん。きっと。

 皓夜は笛を取り出して、構えた。

 笛を吹くのはすきだ。いまは鹿倉の予備を借りているが、演奏に参加するようになったら新しいものを持てばいいと言ってもらっている。

 楽しみだ。己の笛で、みんなと一緒に演奏する日に近づきたい。朝から温石を握らされていたから、手はかじかんでいない。

 始めよう。

 皓夜は目を閉じた。

 まずは「とこしえ」。いちばん最初に覚えた。空に五色の雲がたなびき、白い砂浜に波が寄せる、めでたい情景をまぶたの裏に描きながら、笛を吹く。

 なんだか楽しくなってきた。

 もう一度。もう一度。もう一度。

 じゃあつぎは、詠みびと知らずの流行歌。この曲は歌詞が陰気でちょっとよくわからないのだが、踊り出したくなる明るい調べが特徴だ。

 つぎは「弥栄」。ひたすら同じ旋律の繰り返し。皓夜は心の中で、この村の弥栄を祈った。

 そのときだった。皓夜の笛に、歌声が重なった。少し尻上がりのくせがあってしわがれた、でも楽しそうな歌だった。

 目を開けると目の前に、七十も超えていそうな老爺がいた。手を叩きながら、笑顔で歌ってくれている。驚いて吹くのをやめそうになる。でも、その笑った顔がうれしくて続けた。歌ってくれるそのひとと目を合わせて笑みをかわしながら、ふたりで合奏する。

 なんだこれ。

 すごく、すごくうれしい。

 己でも驚くくらい心がたかぶって、音色も震えそうになってこらえる。

「じいちゃんなにやってるのお」

「いやさかやってるのお?」

「じいちゃぁぁぁぁぁん」

 子供たちが駆け寄ってくる。わかってる、笛を聞きに来たわけじゃない。じいちゃんのところに来たんだ。でも、心が華やいでしまって、音色も明るくなるのがわかる。

「おれたちも歌う!」

「歌う!」

 子供たちが声を上げ、歌い始める。弥栄を弥栄をと、大きくて元気な声が響き渡る。子供たちは身体を揺らしながら、すごく口を開けて歌ってくれている。辺りを見回すと、外に出ているひとたちがこちらを見ていた。家から出てきたひともいる。拍手をしてくれているひとも見えた。

 なんだこれ。

 楽しい。

 何回「弥栄」を吹いたんだかすっかりわからなくなっていた。でも子供たちはいっこうに歌うのをやめようとしなかった。無尽蔵の力があるのかと思うくらい、ずっと全力で歌ってくれていた。

 だからしまいに、皓夜は笑いをこらえきれず笛から口を離してしまった。

「いつまで歌ってくれるんだ?」

 結構な前から思い続けていたことを聞くと、子供たちは顔を見合わせて、けらけらと笑い出す。よくわからなかったが、皓夜も一緒になって大笑いした。最初に来てくれたひとも、まわりのひとたちも、拍手をくれた。なぜだか、笑いが止まらなかった。皓夜は子供たちと、腹がよじれるくらい笑った。




***




 小さな村での初舞台のあと、皓夜はいろいろなところに捨て置かれて武者修行をした。だんだんひとが多くなってきた。

 一度、そこ邪魔だと言われたときにはこの世の終わりのような気がしたが、かばってくれるひともいて、どうにかこうにか折れずにやった。

 そうしていたら、笛を始めて半年ほど経つころにはひとびとの反応が良くなってきて、もうひとに聞かせるのが怖くなくなった。


「そろそろ、一緒にやるか」

 隣で一緒に笛の手入れをしていた鹿倉が言った。皓夜ははっと顔を上げた。

 春のうららかな青空が映った池のほとりで、みんなそれぞれに練習をしたり休んだり、楽器の手入れをしたりしていた。横に座る鹿倉は、笛をやさしく扱いながら微笑んでいた。

「いいんですか?」

 思わずそう聞くと、鹿倉は笑って皓夜のほうを見た。鹿倉は笑うときも、困っているみたいに眉が下がる。

「ああ。もう入ってほしい出来になったよ」

 鹿倉のやわらかい声が、心にじわりとしみてくる。

「ありがとうございます」

 皓夜は我知らず笛を胸に押し当てていた。

澪木みおぎさんはもっと前から言ってたんだよ。年が明けたぐらいかな」

 鹿倉が声を潜める。皓夜は目を見張った。さっきから澪木の琵琶が聞こえてきている。思わず目を閉じてしまうような婉美な音色だ。

はやてはもっと早かったな、冬になりたてのときだ」

 颯の姿を探す。切り株に足を組んで座り、ぼんやりしているようだった。そんなふうに言ってくれていたなんて、知らなかった。

まどかさんは、もうはじめからだったよ。早く五人でやりたいって」

 圓は池のそばにしゃがんで、中を熱心にのぞき込んでいる。圓は、皓夜にもしきりにそう伝えてくれていた。鹿倉はあたたかい風が吹くみたいに言った。

「同じ楽器だから厳しくなってしまったけど、皓夜はかなりの名手だと思う」

 皓夜は声を出せずに、黙って頭を下げた。

「付き合わせて悪かったとも思ってるけど……」

 鹿倉が言うので、皓夜はすぐに顔を上げた。どうしてそんなことを言うのだろうか。鹿倉は笑う。

「夢だったんだ、笛吹きになって弟子をとるの」

 そう言って視線を遠くへ投げる。そんな鹿倉に身体を向けて、皓夜は伝えた。

「ありがとうございます」

 鹿倉に借りている笛を大事にそっと握る。

「おれに笛を教えてくれて、ありがとうございます。弟子にしてくれてありがとうございます。おれは笛がすきです。でも鹿倉さんに教わったのでなければ、こんなにすきになりませんでした。吹けるようにもならなかった。だから」

 ちょっとちょっと、と鹿倉が声を上げる。皓夜は口をつぐんだ。鹿倉は頭に手をやり、腕を組んで解いて、皓夜を見た。

 どうしたのだろう。

「きみ、すごいな」

 鹿倉はそう言った。

「はい?」

「それは、なんというか、すごいよ」

「なん……えっ?」

 戸惑っていると、鹿倉はくすくすと笑い出した。

「きみ、口数が少ないと思ってたけど、照れとか相手との距離とか全部ほっぽりだすことがあるんだな」

 皓夜は絶句した。

 照れとか相手との距離とか?

 何か恥ずかしいことを言っただろうか。鹿倉との距離を測り間違えただろうか。本音だっただけに、衝撃が大きい。呆然とかたまっていると、鹿倉がのんびりと首を傾げてのぞき込んできた。

「ん? いやごめん。いまのは褒めてる」

 そうでしょうか。皓夜はつい疑いの目を向けた。鹿倉は困ったような顔をする。どうやら本当に困っているらしい。

「つまりね。普段いらないことを喋らないから照れ屋なのかなと思ってたけど、平然と褒めちぎってくるし。ちょっと距離を置かれてるのかなと思ってたんだけど、そっちから急に詰めてくるし。ちょっとびっくりしたけど、うれしかったんだよ。こっちも照れちゃって、言葉が足りなかったな、悪かったよ」

 そんなに丁寧に解説されると、かえってつらいものがある。急激に頭に熱がのぼってきて、皓夜はうつむいた。

「おもしろいな皓夜は」

 ちょっと黙ってほしいこのひと、と鹿倉に対してはじめて思った。

「あと皓夜、おれって言うようになった?」

「……え?」

 鹿倉は珍しく、いたずらっぽい顔をする。

「最初はわたしだっただろ。品のある子だなあと思ってたけど、最近染まってきたね」

 そんなこと自覚していなかった。もう喋らないでほしいこのひと。でも鹿倉はやさしいので、それ以上は何も言わなかった。

「ああよかったなあ、皓夜に笛を教えられて」

 鹿倉がしみじみとかみしめるように言う。

不香ふきょうにいるときは、こんなふうに夢がかなうなんて思ってなかった」

 鹿倉は、一の島の雪国である不香の出身だと聞いている。颯以外の三人は、みんな不香らしい。颯は不香の隣の忍杜おしもりの生まれで、五年前に戦に巻き込まれてひとりになっていたところを、羽衣座に拾われたと言っていた。

「一緒にやろうな、皓夜」

 鹿倉の言葉に、皓夜は大きくうなずいた。澪木の琵琶がことほぐようにかき鳴らされる。話が聞こえる距離だとは思えないが、あのひとなら聞こえているのかもしれない、と思う。

「ああっ! 魚跳ねた!」

 圓が叫んでいる。

「魚跳ねたって、がきかよ」

 颯が切り株の上からからかった。圓がきっとして振り返る。

「うるさい! あんたのほうががきでしょうがよ!」

「中身はおれのほうが育ってる、間違いない」

「何よ! あんたに何がわかるの! わたしの中身見たことあるの?」

「何言ってんのおまえ?」

 ふたりはいつものようにやり合っている。

 皓夜は笛を、そっと撫でた。

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