十九 醜悪と醜悪
朝が来たのだな、と思った。まぶたを閉じていても、明るいのがわかる。すずやかな風が、そよそよと吹いている。おだやかな、朝だ。
でもそんなのどかさは、すぐに叩き壊された。突如、大声が聞こえたのだ。
「あの糞爺!」
少女のものらしい高い声が、思い切り何かを罵倒しているようだ。
「何考えてんの、ど腐れ助平が! わたしたちの芸を穢そうとしやがって! 馬鹿にしないでよ、きったないんだよ!」
忌々しげに、激しく足を踏み鳴らすような音もする。
「汚い! 汚い汚い汚い! 寒気がする! おまえなんかいますぐしん」
そこで甲高い罵詈雑言はもごもごとくぐもった。
「こら。声が大きいぞ」
やさしげな男性の声がたしなめている。
「そうよ、どこで誰が聞いているかわからないんだから。真実はひとを傷つけることのほうが多いしね」
艶のある女性の声がした。
「でもよくやるよな。お願い、おねがぁぁい、ってさ。笑いこらえるのに骨折るぜこっちは」
からかうような声が言った。少女の声が噛みつくように言い返す。
「うるさい! しかたないでしょ!」
ここはどこだろう。
どうしてこんなところに。
「ああすればあの肥溜め野郎、言うこと聞くと思ったんだもん! わたしたちのこともほかのひとのことも馬鹿にしてる、なめ腐った破廉恥ど阿呆だよ! あんな、趣味が反吐みたいなの、ほっとけるわけないでしょ許せるわけないでしょ! そうやってみんなで決めたじゃん! この子だって、やりたくないって顔が言ってたし、ねっ?」
突然、視界に淡紅色が入り込んできて、白くうつくしい面にのぞき込まれた。その顔を見て、皓夜は思い出した。朝が来たんじゃ、ない。
王に、舞台に呼び出されて、青年を殺せと言われて。音楽を聞きながら、殺そうとして、それで。心臓が震えて、息が詰まる。
「あっ、起きてる」
能天気な声に、引き戻される。のぞき込んできたひとは、皓夜のそばにかがんでにこりと笑った。秀麗なかんばせは、笑うと親しみやすいものになった。
「だいじょうぶ? わたしのことわかる? さっき会ったばっかりだけどね。
圓。
あの天女のような踊り子。
「あ、気がついたか」
「よかったわね」
「だいじょぶか?」
皓夜のそばにひとが集まってくる。どのひとも一瞬だが、見覚えがあった。目じりがたれて温厚そうな、三十くらいに見える男性、素朴でさっぱりした顔立ちだが年齢が不詳な感じのする女性、皓夜と同い年くらいに見える、快活そうな少年。皓夜は三人の顔を順番に眺めた。
「あっそうだな、混乱してるよな。おれたちのことは覚えてるか?」
男性に聞かれ、皓夜はうなずいた。すると男性はおだやかな様子で、そうかと言った。
「おれは
彼は、己と女性と少年と圓を順に示し、そのあと空気をかき回すように手を動かしながら説明してくれた。皓夜はまた、うなずいた。
「おれたち旅芸人なんだけど、
鹿倉と名乗ったひとは、困ったように眉を下げる。
「それであそこにいたんだけどね。でもひと殺しを盛り上げるなんてことは、おれたちの仕事じゃないんだ。だからちょっと暴れた。びっくりしただろ」
鹿倉の言っていることは、よくわからなかった。
「鹿倉。まだこの子、そこに驚くに至っていないみたいよ」
澪木というらしい女性につつかれ、鹿倉が頭をかく。澪木は皓夜に布をかけなおしながら、さばさばと言った。
「あのね。とにかくきみは、誰も殺していないわ。縛られていたひとは死んでいない。圓がもはや超絶技巧とも呼べるお色気攻撃で解放させたから。だから安心して」
澪木の言葉に、全身の力が抜ける。
「あっまた気絶するっ!」
「待ってわたしまだ聞きたいことがっ!」
なぜか必死なふたつの悲鳴を聞きながら、皓夜の意識は地面に沈み込んでいった。
***
つぎに目が覚めたときには、夜になっていた。そばで焚火をしていて、そのまわりに四人が座っていた。皓夜が起きたことに気づくと、鹿倉がすぐに横に来てくれた。
「だいじょうぶか?」
「はい」
皓夜は返事をした。ひさしぶりに出した声はかすれてしまっていた。起き上がろうとすると、鹿倉が支えてくれた。鹿倉はおだやかにたずねてくれる。
「飯できてるよ。食うか?」
「飯……」
ぼんやりと繰り返すと、目の前に椀がつきだされた。中には、とろりとした黄金色に見えるものが入っている。香ばしくてやさしい匂いがした。
「雑炊だよ。いろいろ入ってる。滋養があるんだぜ」
そう言ったのは、颯だった。椀を見つめていると、颯は急にもじもじし始めた。
「もしかして食わせてほしいのか? いいんだけど、なんか照れるな」
頭がぼうっとしている皓夜が反応できずにいると、颯の頭がうしろから叩かれて、いい音をたてた。
「困らせてどうすんの。まだ会ったばっかりなんだよ」
圓だった。
「いや、ちょっと緊張してるのかと思って」
「そんなのりで来られたら引くよ。やめなよ」
「圓、おまえやっぱりひでえな」
「ひでえのは颯の寝言でしょ?」
「おまえなあ!」
圓と颯が戦い始めたのを、皓夜はとりあえず眺めた。
「まあこんな感じだよ、ごめんな」
鹿倉が謝ることはないと思う。ふいに、きみ、と声をかけられて顔を向けた。焚火の前で、澪木がこちらを見ていた。
「勝手に連れてきて悪かったけれど、あそこにいることも、あのひとを手にかけることも望んでいないんじゃないかと思ったのよ」
澪木は軽く首を傾げて言う。
「きみの名前、聞いてもいいかしら?」
鹿倉が背中をさすってくれる。颯と圓もけんかを中断して皓夜を見た。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
皓夜は言った。
「
「お父上はお役人?」
澪木がさらりと聞いてくる。
「はい。父は
皓夜はすらすらとこたえていた。隠そうとか言いたくないとか思わなかった。まだ頭がはっきりしていなかったからかもしれない。
「でした?」
澪木が眉をひそめる。無意識にそう言っていたことに、気づかされた。皓夜はうなずいた。
「みまかりましたので」
口にしても、何も感じなかった。事実だから。父は、事故でなくなった。事故で。王宮の階段から落ちて。
事故。
そうじゃない。消されたのだ。父は王のやり方に、異を唱え続けていたから。
「そう」
みんなが静まり返る中、澪木が簡単な相槌を打ってくれた。髪を耳にかけながら問うてくる。
「それと……陛下が、あの男のひとはきみの兄上の仇だとおっしゃっていたけれど、本当なの?」
あの男のひと。皓夜が殺せと王に命じられた、もう少しで殺そうとした、あの青年。
父と同じように護国府に務めていた兄は、巡回中に「
「わかりません」
皓夜は澪木にこたえた。
出穂の王は「腫眼」たちを忌み嫌い、弾圧していた。集まって一緒に泣くということを一切禁じ、国の治安を守る護国府の役人たちに見回りをさせた。「腫眼」のひとたちが集まる建物を壊したり、燃やしたりさせた。それでも飽き足らず、外で泣いている者は役所に連行するようにと命じた。
赤子でも幼子でも連れて行かれる。棒で叩かれる。死人も出た。それは、常軌を逸していた。でも誰も、何も言わなかった。王は恐れられていたのだ。意に添わない者は、抹殺されるから。
でも父は、抗った。何度も、そんな馬鹿げた弾圧はやめるべきだと訴えた。
「腫眼」は確かに信じないひとにとっては不気味かもしれない。でも泣いているだけであって、誰かを傷つけるわけではない。だからいまの抑圧は行き過ぎていると、提言し続けた。
父はまっすぐで正義感が強くて、心から尊敬できるひとだ。でも、己の身を危険にさらしてまで誰かをかばう必要があるのかと、皓夜は思っていた。
母は、皓夜が五歳のときになくなった。懸命に仕事をこなす父を支えて、いつも笑顔で、休んでいるところを見たことがなかった。そんな母が死んで、家族もまわりのひとびともひどく悲しんだ。皓夜は幼いながら、もやもやしていた。
己のことを、いちばんに考えてほしかった。でも父も、そんなことを知らないひとだった。気高い、うるわしいいきかたをするひとだった。だから己をかえりみずにたたかい続けて、死んだ。たたかう父に忠誠を尽くしてくれた家臣たちは、父の死に殉じた。そうだ。彼らの死は、殉死、だったのだ。
そして兄も。
五つ上で十九の兄は、父と母によく似て誠実で責任感が強いひとだった。兄は、父が殺されたのだとわかっていたのに、王の暴挙と向き合うことを選んだ。
もうたくさんだと思った。
放っておけばいい、あんなのそのうち死ぬから。
放っておけばいい、「腫眼」なんて関係ないから。
放っておけばいい、兄者のほうが大事だから。
おいていかないで。
兄は止まってくれなかった。止められなかった。
兄はまだ父ほどの身分がなかったから、王に会う機会は少ない。だから兄は、偶然通りかかった王に直訴した。
その翌日、巡回中に刺されて死んだ。「腫眼」の青年に、殺された。「腫眼」の会合に出くわした兄は、彼らを取り締まることなく見逃して。いつかこのひどい弾圧がなくなるようにするから待っていてくれと言って。そんなきれいごとを言うなと青年が叫んで。そして兄を刺した、らしい。
ふたりの弔いが済み、皓夜は家人たちに暇を出した。代々出穂王に仕えた黒鳶家にも、もう将来はないと思ったから。もうこんな家にいることはないと思ったから。みんなやさしくて仕事ができるから、どこでも雇ってもらえる。
そして残った皓夜は父と兄の遺志を継ぎ、最期まで抗い続けることなど決めなかった。
逃げようと思った。このままでは殺されるかもしれない。だから逃げる。己が、いちばん大切なのだ。家人の中でも最も古株で、幼いころから面倒を見てもらっていた
留里は、若をお連れしようと思っていたのだと言ってくれた。父も兄も留里に言ったのだと、教えてくれた。
己がもし王を説得できずに世を去るようなことがあれば、ほかの者たちとともに屋敷を出てよい、皓夜を頼むと。
そこまで考えていたのなら、どうして逃げてくれなかったのかと思った。でも、それについてじっくり考えている暇はなかった。
屋敷を出る支度をしているとき、父の部下で、副官の
父と兄を救えなかったことを、詫びられた。謝ることなんてない。誰もきっと、あのひとたちを止めることなどできなかった。
でも、そんなふうにはいきない。いきられない。逃げ出してやる。
そしていよいよ、屋敷を出ようというときだった。屋敷に
あの舞台に。
そこには、暴力を振るわれて縛り上げられた青年がいた。そして、王がいた。王は言った。
その者が、そなたの兄、
仇を連れてきてやったぞ。
この上ない舞台に。
さあ殺せ。
黒鳶皓夜。
それを殺せ。
へえそうか。
なんて劇的な展開だ。
父上も兄者もみんなも、殺したのはおまえの命令のくせに。
「腫眼」のひとが兄者を殺めたことにして、弾圧を正当化しようとしたのだろう。
このひとはなんの関係もないひとだろう。
そこにいたから連れてきたくらいのものだろう。
父上も兄者も、おまえに従わなかったな。
わたしは従うのか、試したいのだろう。
殺さない、おまえは間違っている、と叫んでほしいか。
そう言ったわたしを、始末したいか。
それとも殺してほしいか。
すべてあなたさまの仰せのままにいたしますと、言わせたいか。
そうやって、たたかって死んだ父と兄を愚かだと笑いたいか。
ああ。
醜悪だ。
おまえが。
わたしが。
わたしはこのひとを殺す。
助かろうとする。
あまりの醜さに吐き気がした。己は目の前の、なんの罪もないひとを殺すのだとわかってしまったから。想像すると気が遠のいた。思考が麻痺した。意図的なものだったかもしれない。
そして音楽が流れて。太刀を振り上げて。
でも、殺さずに済んだ。
でも、きっと殺したのと同じだった。
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