三曲目 在りし日と漂泊
十八 処刑場と天女
この世は、女神によって作られた。
はじめは、水しかなかったのだ。広く、青く、深い、海。揺れて渦巻く様子は、まるで何かを求めているようだった。
それを見た女神は、そのあまりのひろさに、あおさに、ふかさに。涙をこぼした。その雫が海に落ちて、茫漠とした水のうねりにとけ込んで。それを合図にしたように、海の底から陸が現れた。
それはあまりに大きかったので、女神は四つに分けた。四つの陸は潮に乗って流れ、それぞれの場所に落ち着いた。その途中で、波にくだけた陸のかけらが島になった。
そういう夢を、見た。
涙によって、世界は作られた。涙を流すことは、尊いものを生み出すのだ。夢を見たひとは、そう考えた。
そのひとは周囲のひとびとに夢の話をして、涙を流してもよいのだと訴えた。ひとびとは賛同した。そしてみんなで、集まって泣いた。ここでなら、すきなだけ泣いていい。涙には、世界を作る力さえあるのだから。
その輪の中はやさしい空気で満ちていた。
しかし、外から見ればそれは、異様な光景以外の何ものでもなかった。
怪しい、奇妙な、危険な儀式だった。
集まり涙を流すひとびとは、蔑みと恐れを込めて、「
目の前には、「腫眼」の青年が縛り上げられて座らされていた。
彼のまぶたは腫れあがっている。でもこれは泣いたためではなく、殴られたせいだとわかる。着ているものは破れて、土と赤黒い血がこびりつきすり込まれていた。
彼は
虚ろな目をして。全部何もかも、どうでもいいというような顔で。彼の前に立つ皓夜の手には、抜き身の大太刀が握られているのに。これから彼の首を、落とそうとしているのに。
太刀の刀身は、見つめれば吸い込まれてしまいそうなほどに、うつくしい。研ぎ澄まされて磨き込まれて、水面のように鏡のように、輝きを放っている。
抜け殻のような青年を前に、ぞっとするほど艶美な太刀を手にして、皓夜は立ちすくんでいた。
ほとんど何もわからない。きっと半ば気を失っている。
頭が氷を浴びたみたいに冷たくて、視界が微妙に歪んでいて、腹の奥がぐるぐるして、心臓の動きが遅い気がして、耳の奥で高い音や低い音がずっと鳴り続けていて、手足の感覚がない。
「
裏返った高い声が、己の名を呼ぶのが聞こえる。それは青年と皓夜から離れた厚い畳の上に座り、脇息に寄りかかっている男の、声だった。
王のうしろには金色の屏風が立ち、左右には護衛の者が控えている。彼らは、紅蓮に金の模様の入った豪奢な直垂をまとって、大きな槍を手にしていた。
そして王は、常闇の色の直垂を身に着け、同じ色の扇を広げていた。その黒い姿は黄金を背景にやけにくっきりと浮かび上がり、見る者の心に畏怖の情をこびりつかせる。
王が座る、その場所は特等席だった。舞台の目の前の、いちばんよく見える席。青年と皓夜は、舞台の上にいる。ふたりのうしろには、さざなみのように連なる松原が描かれた壁。下には、傷が走り色が剥げた木の床。
伝統ある舞台は、処刑場になろうとしていた。
「黒鳶皓夜よ、さきの
王が、気がたかぶった様子でもう一度呼ぶ。皓夜はふらりと王のほうを向き、ひざまずいた。
「はい、陛下」
そう言ったつもりでも、声は出ない。喉の奥から空気が漏れるだけだった。
「そろそろ始めようか」
王は楽しそうに、楽しそうに宣告する。そして愛猫を呼ぶような声を出す。
「
「はい、王さま」
あまえたような声とともに屏風のうしろから出てきたのは、天女のようなひとだった。
雪のように白い、袖の大きな衣をまとい、透けた淡紅色の布を肩にかけている。つややかで豊かな黒髪が、ふしぎな術をかけたようにかろやかに揺れる。その様子にはえもいわれぬ品があり、それなのにどこか危うい幼さと、匂いたつ色を感じさせた。圓、と呼ばれた天女は、ふわりと猫のような身のこなしで、王の足元にひざまずく。
「お呼びでしょうか、王さま」
王は顔を崩して笑った。
「圓よ、そろそろ始めておくれ。おい、酒を持て」
王が大声で命じる。圓は一輪の花が風に揺れるように頭を下げた。
「かしこまりました、王さま」
そして立ち上がり、舞台のほうを見る。
目が合った。
圓は、この世のものではないような、うつくしい顔立ちをしていた。肌はぬけるように白く、小さな唇はあざやかな紅色、まなじりの切れたくっきりとした目は、黒々と長い睫毛にふちどられている。圓はもの問いたげな表情で皓夜を眺めていたが、すっと流し目で視線をそらした。
「みんな、始めるよ」
圓が言うと、屏風のうしろから続々と「みんな」が現れる。笛を持った背の高い男、琵琶を抱えた小柄な女、太鼓を担いだ少年。
三人とも、白い衣にひだのない袴を着ている。手首と足首、腰には、各人微妙に違う紅色の紐が、衣の上から結ばれていた。三人は王の前に、舞台に背を向けて座った。
皓夜はその姿を食い入るように見つめていた。
それぞれが、楽器を構える。太鼓が乾いた音を響かせる。そして、演奏が始まった。
琵琶がかき鳴らされる。語り掛けるような音色に、やわらかな笛が重なる。太鼓の重い低音が響く。皓夜はひととき、置かれた状況を忘れた。
三つの楽器の音色は、結び合っていた。とけ合って、うつくしさを引き出し合って、ひとつになっていた。
ふいに、圓がすっと手をあげる。白魚が天にのぼるような動きだった。圓は、踊り出す。
袖がなびく。黒髪が波打つ。淡紅色の布が春霞のように揺れる。
しなやかでたおやかで。か弱くて力強くて。誘うようで突き放すようで。どうしてもひきつけられるその舞を、笛と琵琶と太鼓が支える。
なんて、きれいなんだろうと、それだけを思った。
「黒鳶のせがれ」
甘美な、清雅な音色の中、王の酔ったような声が聞こえた。
「殺せ」
陶酔したかのように、否、完全に陶酔して、王は言う。
「そこの腫眼を、殺せ、黒鳶のせがれよ」
皓夜はよろりと立ち上がる。王はひととして持っておくべきものが抜け落ちたように、笑っていた。
「おまえの兄の、仇だ。存分にいたぶれよ」
夢のような音楽の中、天女が舞い踊る中、いまならやれる気がした。これは夢だから。うつつではないから。青年の顔はもう見えなかった。では何が見えているのかは、よくわからない。
青年の斜めうしろに立つ。大太刀を、振り上げる。
そのときだった。
「王さまぁ」
甲高い声が響いた。
「ちゃんと、圓を見てくださっていますか?」
皓夜は重い太刀を振りかぶったまま、静止した。演奏は続く。
「どうした圓。見ておるぞ、ちゃんと見ておる」
王がこたえる。
「いいえ。そこの子ばかり見てらっしゃいます。しっかり圓を見てくださいませ」
「なんと。愛い娘よ」
「だって、王さまに、見ていただきたいもの。そのために稽古してるんですよ。でも見てくださってない。そうですよね、圓はいま主役じゃ、ないもの。主役はそこの男の子だもの、ねえ? 圓が踊る必要もないんじゃないかしら? なんか舞台の下だし」
「そんなことはない、そなたを見ておるぞ」
「嘘。絶対に嘘。圓は怒りました」
あまやかな音楽にのせて、歌うように圓はすねる。
「すまぬすまぬ、機嫌を直してくれ」
「あらあら? では、圓のお願いを、聞いていただけます?」
「かまわんよ、なんでも聞こう」
「なんでも?」
「ああ、なんでもそなたの望みのとおりにしよう」
「本当? 王さまってやっぱりおやさしいのね。圓うれしい。圓、王さま好きよ」
王がこもった声で笑うのが聞こえる。
「あのね王さま。圓のお願いっていうのはね」
そしてうつくしい調べが一瞬途切れた瞬間、圓は誘惑するように言った。
「あの子を圓にくださいな」
ふたたび、音楽が始まる。
「あの太刀を持ってる子。くださらなきゃいやよ」
圓は駄々をこねるように言っている。
「いますぐよ。気に入ったの。汚れてるのはいやよ。いまの、きれいなままちょうだい。ねえ、王さま」
たたみかける。演奏は続く。
「ひとをぶっ殺して汚くなったらいや。圓、汚いものは大嫌いだから。だからねえ、あの子がいますぐほしいの。お願い」
王の返事は聞こえない。皓夜は時が止まったように、動かなかった。動くことが、できなかった。
そのときだった。ふわりと、花のような香りがした。濃密で、甘酸っぱいような芳香だった。しなやかな腕がうしろから伸びてきて、太刀を持つ手を支えられる。
「だいじょうぶ?」
耳元で声がした。静かな声音だった。つぎの瞬間、手が、身体じゅうが、己のものではなくなった。勝手にがたがた震えて、持っていられない立っていられない。太刀が手からこぼれる。脳天に衝撃が走る。皓夜は舞台の上に崩れ落ちていた。目を開けているはずなのに、前が見えない。地上にいるのに、息ができない。
「あらあ、かわいい」
あまい声が、反響して聞こえる。
「ねえ、やっぱりとってもかわいい、この子。ほしい。ほしくてたまらないの、ねえ王さま!」
ころころとかわいらしい笑い声か、狂気的な高笑いか判別のつかない音が、がんがんと響く。
くれるでしょう。ねえ、くれるでしょう!
幽世に導くような音色が最後にはっきり聞こえて、目の前が、紅色に染まって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます