十七 雷雨と秘密
三人で、押し黙ったまま歩いていた。
しかしそのあたりまえのような、もどかしいような沈黙は、ふいに破られた。いちたかが皓夜の袖を引っ張りながら、どこかのんきそうな声で言ったのだ。
「
皓夜は息を詰めた。あのふたりは、「羽衣座」が得意先だというようなことを言っていた。つまりその「羽衣座」は、あのふたりのようなひとたちがさらってきた、ひとを買っている。でももう、あの、羽衣座はないのだ。偶然かもしれないが、意図して同じ名前をつけたのかもしれない。
その名を、穢すなど、許せない。
「そんな、悪いひとたちだということはないと思います。あの有名な羽衣座は、素晴らしい一座だったようですし。さっきのかたたちは……、同じ名前のべつの一座のことを言っていただけでしょうし、それにひとを売り買いしているのは、あのかたたちだけでは、ない、ですし……」
由良の声はしぼんでいった。いちたかは下を向いて、そうだねえ、とつぶやいた。
そのときふと、何か聞こえた。耳を澄ませる。岩が転がるような、獣が唸るような、遠い音だ。
「何?」
顔を上げたいちたかがあたりを見回す。
「雷でしょうか?」
由良が言ったとき、頬にぽたりと、落ちてきた。
「あ、雨……」
いちたかが手を空に差し出す。ぽたりぽたりと、頭に肩に雨が落ちてくる。低い雷鳴が聞こえ、冷たい風が吹き抜けた。
「これ、なんかまずいね!」
いちたかがなんだか明るい声で言った。見上げると、青い空が重たそうな灰色の雲に食われていくところだった。これは、かなり来る。
まわりには雨宿りができそうなところはない。どうしようかと思ったとき、由良が声を上げた。
「あそこ!」
由良がゆびさしたのは、道からそれた林の中だった。のぼりの斜面の上のほうに、ぽっかりと穴があいている。あまり大きくはないが、雨をしのぐことはできそうだ。
「走れっ!」
いちたかが叫んで、斜面を駆けのぼり始める。由良がそれに続き、皓夜も走り出した。雨の雫は大きく、ひと粒でかなり身体が濡れる。打たれながら走って、いちたかと由良が先に穴に飛び込み、皓夜も入った。湿った空気に包まれ、雨音がふっと遠くなる。
中は暗かった。岩の天井は、由良と皓夜では身をかがめなければならず、いちたかは普通に立っていられるくらいの高さだ。思いのほか奥行きがある。奥に進んだいちたかが声を上げた。
「行き止まりだ!」
ぺちぺちと岩肌を叩いている。
「よかったね、雨宿りできて」
振り返ったいちたかの顔はよく見えなかったが、楽しそうな声だった。
「そうだな」
皓夜はうなずいた。水分を含んだ地面に脱いだ草鞋を置き、腰を下ろす。しっとりした袖が腕にはりついた。
「そこに椅子あるぞ」
いい具合に突き出した岩をゆびさすと、いちたかがさっそく座った。
「いい椅子だ!」
皓夜は笑って、行李を横倒しに置いた。
「どうぞ座ってください」
由良を見て行李を叩く。由良は首を振った。
「壊してしまいます」
「そんなにやわな箱じゃないですよ」
十四のときから使っている相棒だ。放り出しても落としても、びくともしない。由良は静かに首を振って皓夜と同じように草鞋を脱ぎ、その上に座った。
雨音が、世界を閉ざす。矢のような雨が、地面に突き刺さるのがよく見える。また三人で、しばらく黙っていた。なんとなく、沈黙していた。
雨の音が、だんだん大きくなっていくような気がした。それしか聞こえなくなってしまうような気がした。
みんなそれぞれ言いたいことや聞きたいことがあるのに、言い出せないのだと、空気でわかった。皓夜もそうだった。お互いを気遣って遠慮して、少し怖がって、黙っている。近いのに遠くて、平行線をたどっているようで、それが寂しくて、でも踏み出せない。耳鳴りみたいな、もどかしい雨音だけが聞こえる。
しばらく、そうやっていた。でも、ずっと続くことはなかった。玻璃の触れ合うような声が控えめに、皓夜に向けられたのだ。
「皓夜さんは、羽衣座がおすきなのですか」
聞かれてしまった、と思った。
ひと買いの口から「羽衣座」と聞いたとたん、頭が、冷え切ったのだ。あまり表に出さないようにしたかったが、きっとうまくいっていなかった。様子がおかしいことに、気づかれていたようだ。
諦観のような、安堵のような、喜びのような。どれかではなくきっと全部が、湧いてくるのを感じた。
皓夜は目を閉じた。雨音で聞こえなかったことにしようかと思う気持ちもあった。でも由良が、沈黙を破ってくれたから。
「見たことがあるのですか? あの、もちろん一代目というか、本物というか」
由良が言い、それを聞いたいちたかが身を乗り出す気配がする。
「えっ、見たことある?」
皓夜は目を開けて、こたえた。
「ある」
ふたりが顔を見合わせる。
「そうなのですね。どうでしたか? わたしも見てみたかった」
「すごいね! よくわかんないけど有名なんだよねそれ!」
由良が抱えた膝を抱きしめるようにする。
「天女みたいな踊り子のかたと、やさしい笛を吹くかたと、琵琶の達人のかたと、揺らがない太鼓のかたがいらっしゃるのですよね。皓夜さんはいつごろ見たのですか?」
天女みたいな踊り子のかた。
やさしい笛を吹くかた。
琵琶の達人のかた。
揺らがない太鼓のかた。
由良の言うとおりだった。皓夜はこたえた。
「三年前に見ました」
「そうなのですね」
「三年前? おれ生まれてた?」
「生まれていますよ、ほら指を出して八を作って」
「えっと……あ、ほんとだ、五つ?」
「そのとおりです」
文字だけじゃなくて計算も教えたいな、とぼんやり考えていると、由良の黒い真珠が、皓夜を射抜いた。
「そのときから、おすきなのですね。羽衣座のみなさんのことが」
羽衣座が、ではなくて。
そうだ。
羽衣座のひとたちのことが、すきだ。
恩人たちだから。仲間と呼んでくれたひとたちだから。
「はい、すきです」
皓夜は言った。由良がふわりと微笑む。
「羽衣座のみなさんのお話、聞かせてくれませんか」
やわらかに乞われて、皓夜はうなずいた。雨音は世界を閉ざす音ではなくて、寂しい静けさを消してくれる健気なさざめきかもしれない。
「なんか、秘密の会合みたい」
いちたかが口を押さえて、含み笑いを漏らした。
「洞穴の中でお話しするの」
由良も、本当ですね、と口元に手をやる。皓夜も片手で口を覆ってみた。小さく打ち明ける。
「おれ、羽衣座にいたんだ」
しっかり、ふたりには聞こえていた。ぴたん、ぴたんと、水がしたたる音がしてくる。どこかにたまった水が落ちてきたのだろう。ふたりは目をみひらいて皓夜を見ていた。
「羽衣座のひとだったの?」
いちたかの問いに、皓夜はうなずいた。
由良が、痛ましげに目を伏せる。
「お仲間だったのですね」
いちたかがふしぎそうに由良を見た。いちたかは、羽衣座がいまはもうないわけを知らないのかもしれない。伝説のようになっている羽衣座のひとたちは、美萩野でみんな死んでしまった。
殺された。皓夜以外は。みんな。
花の化身みたいに天女みたいに踊るひとも。
笛で包み込むような音色を醸すひとも。
あざやかに清々しく琵琶をかき鳴らすひとも。
力強くかろやかに太鼓を叩くひとも。
皓夜はひとりだけ助かった。運がよかったわけじゃない。
皓夜は笑ってみせた。
「羽衣座のひとたち、狼藉者に襲われてなくなったんだ。おれ以外はみんな」
いちたかが衝撃を受けた顔をする。
「でもおれは」
いちたかが立ち上がったと思うと、すがりついてきた。
違う。それは違う。
あまえてすがってきているのではない。皓夜を抱きしめてくれているのだ。
「皓夜兄ちゃん、怖かったでしょ」
皓夜の肩に顔をうずめたいちたかが、くぐもった声で言う。皓夜はその背中を撫でながら首を振った。
「ありがとう。でも怖くなかったんだ。怖い思いはしてない」
いちたかが、皓夜の筒袖の背中をぎゅっと握る。由良はいちたかを撫でる皓夜の手を、静かに見ていた。
「怖い思いする前に、逃げたから」
ひとりだけ逃げたから。みんなを置いて、逃げたから。それは決して恥ではなくて、でも誇りでもなくて。
洞穴の中が白く光る。岩がくだけるような音が、響く。
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