十七  雷雨と秘密

 男たちが行ってしまうと、その場は妙に静かになった。

 「びっくりしたねえ」

 一鷹いちたかが言った。

 「そうですね、驚きました」

 由良ゆらがこたえる。ふたりとも、まだ心がここにないような様子だった。由良はさっきまで平気そうに男たちと話していたけれど、気を張っていたのかもしれない。

 「急にあの赤い人が出てきて由良姉ちゃんに、よう嬢ちゃんって言ったの。それで由良姉ちゃんがこんにちはって言ったら、連れて行こうとしたんだよ」

 一鷹が皓夜こうやの袖を引っ張りながら言った。

 「羽衣座はごろもざの人なの?」

 皓夜は首を振った。あの男たちは雇われているだけのようだったし、人を雇って人さらいをさせるやつらは羽衣座などではない。

 「羽衣座って、悪い人たちなのかな」

 首をひねった一鷹が不満げにつぶやく。

 「そんなことはありませんよ。羽衣座は素晴らしい一座だったようですし。今はたくさんの人が羽衣座を名乗っていますがまっとうに芸をしている人たちのほうが多いはずですよ」

 さらわれかけた由良が擁護していた。

 皓夜は放り出していた行李を背負った。

 「行きましょうか。もうすぐ美萩野みはぎのに入ります」

 「そうですね」

 由良がうなずく。

 そのとき、遠くでうなり声のような音が聞こえた。

 「何?」

 一鷹があたりを見回す。

 「雷でしょうか」

 由良が言ったとき、頬にぽたりと何かが落ちてきた。

 雨粒だ。

 「あ、雨……」

 一鷹が手を空に差し出す。

 ぽたりぽたりと、頭に肩に雨が落ちてくる。

 低い雷鳴が聞こえ、冷たい風が吹き抜けた。

 「これ、なんかまずいね!」

 一鷹がなんだか明るい声で言った。

 見上げると、青い空が重たそうな灰色の雲に食われていくところだった。

 これは、かなり来る。

 周りには雨宿りができそうなところはない。どうしようかと思ったとき、由良が声をあげた。

 「あっ、あそこ!」

 由良がゆびさしたのは、道からそれた林の中だった。のぼりの斜面の上のほうに、ぽっかりと穴があいている。

 あまり大きくはないが、雨をしのぐことはできそうだ。

 「走れっ!」

 一鷹が叫んで、斜面を駆けのぼり始める。

 由良がそれに続き、皓夜も走り出した。

 大きな雫なので、ひと粒でかなり身体が濡れる。

 一鷹と由良が穴に飛び込み、皓夜も入った。

 湿った空気に包まれ、雨音がふっと遠くなる。

 中は暗かった。

 岩の天井は、皓夜と由良では身をかがめなければならず、一鷹は普通に立っていられるくらいの高さだ。

 思いのほか奥行きがある。

 三歩ほど奥に進んだ一鷹が声をあげた。

 「行き止まりだ!」

 ぺちぺちと岩肌を叩いている。

 「よかったね、雨宿りできて」

 振り返った一鷹の顔はよく見えなかったが、楽しそうな声だった。

 「そうだな」

 皓夜はうなずいた。水分を含んだ地面に脱いだ草鞋を置き、腰を下ろす。しっとりした袖が腕にはりついた。

 「そこに椅子あるぞ」

 いい具合に突き出した岩をゆびさすと、一鷹が早速座った。

 「いい椅子だ!」

 皓夜は笑って、行李を横倒しに置いた。

 「どうぞ座ってください」

 由良を見て行李を叩く。由良は首を振った。

 「あなたの荷物を壊します」

 「そんなにやわな箱じゃないですよ」

 十四のときから使っている相棒だ。放り出しても落としても、びくともしない。

 由良は静かに首を振って皓夜と同じように草鞋を脱ぎ、その上に座った。

 雨音が世界を閉ざす。

 矢のような雨が、地面に突き刺さるのがよく見える。

 三人で、しばらく黙っていた。

 なんとなく、沈黙していた。

 雨の音が、だんだん大きくなっていくような気がした。それしか聞こえなくなってしまうような気がした。

 みんなそれぞれ言いたいことや聞きたいことがあるのに、言い出せないのだと、空気でわかった。皓夜もそうだった。

 一鷹に、本当についてきてよかったのかと聞きたくて。

 由良に、男たちに言った言葉はどういう意味なのかと、どうして連波に行きたいのかと聞きたくて。

 同じように、ふたりも何かを持っている気がした。でも。

 お互いを気遣って遠慮して、少し怖がって、黙っている。

 近いのに遠くて、平行線をたどっているようで、それが寂しくて、でも踏み出せない。

 耳鳴りみたいなもどかしい雨音だけが聞こえる。

 しばらくそうやっていた。

 でもずっと続くことはなかった。

 玻璃の触れ合うような声が控えめに、皓夜に向けられたのだ。

 「皓夜さんは、羽衣座がお好きなのですか」

 聞かれてしまった、と思った。

 諦観のような、安堵のような、喜びのような。どれかではなくきっと全部が、湧いてくるのを感じた。

 皓夜は目を閉じた。雨音で聞こえなかったことにしようかと思う気持ちもあった。でも由良が、沈黙を破ってくれたから。

 「見たことがあるのですか? あの、もちろん一代目というか、本物というか」

 由良が言い、それを聞いた一鷹が身を乗り出す気配がする。

 「えっ、見たことある?」

 皓夜は目を開けて、こたえた。

 「ある」

 ふたりが顔を見合わせる。

 「そうなのですね。どうでしたか? わたしも見てみたかった」

 「すごいね! よくわかんないけど有名なんだよねそれ!」

 由良が抱えた膝を抱きしめるようにする。

 「天女みたいな踊り子の方と、優しい笛を吹く方と、琵琶の達人の方と、とても安定した太鼓の方がいらっしゃるのですよね。皓夜さんはいつごろ見たのですか?」

 天女みたいな踊り子の方。

 優しい笛を吹く方。

 琵琶の達人の方。

 とても安定した太鼓の方。

 由良の言うとおりだった。

 「三年前に見ました」

 「そうなのですね」

 「三年前? おれ生まれてた?」

 「生まれていますよ、ほら指を出して八を作って」

 「えっと……あ、ほんとだ、五つ?」

 「その通りです」

 文字だけじゃなくて計算も教えたいな、とぼんやり考えていると、由良の黒蝶真珠が皓夜を射抜いた。

 「そのときから、お好きなのですね。羽衣座のみなさんのことが」


 羽衣座が、ではなくて。

 そうだ。

 羽衣座の人たちのことが、好きだ。

 恩人たちだから。

 仲間と呼んでくれた人たちだから。

 「はい、好きです」

 皓夜は言った。由良が微笑む。

 「羽衣座のみなさんのお話、聞かせてくれませんか」

 柔らかに乞われて、皓夜はうなずく。

 雨音は世界を閉ざす音ではなくて、寂しい静けさを消してくれる健気なさざめきかもしれない。

 「なんか、秘密の会合みたい」

 一鷹は口を押さえて含み笑いを漏らした。

 「洞穴の中でお話しするの」

 由良が本当ですね、と口元に手をやる。

 皓夜も片手で口を覆ってみた。

 小さく打ち明ける。

 「おれ、羽衣座にいたんだ」

 しっかり、ふたりには聞こえていた。

 ぴたん、ぴたんと、水がしたたる音がしてくる。どこかにたまった水が落ちてきたのだろう。

 ふたりは目を見開いて皓夜を見ていた。

 「羽衣座の人だったの?」

 一鷹の問いに、皓夜はうなずいた。

 「本物の?」

 重ねられた質問にも、うなずく。本物というか、最初の。羽衣座と名乗り、誇りを持って芸をしている人たちはみんな本物だと思う。さっきの男たちを雇っていたような者らは許せないけれど。

 由良が痛ましげに目を伏せる。

 「お仲間だったのですね」

 一鷹が不思議そうに由良を見た。

 一鷹は、最初の羽衣座が今はもうないわけを知らないのかもしれない。

 今は伝説のようになっている最初の羽衣座の人たちは、美萩野でみんな死んでしまった。

 殺された。

 皓夜以外は。みんな。

 桃源郷の天女みたいに踊る人も。

 笛で包み込むような音色を醸す人も。

 鮮やかに清々しく琵琶をかき鳴らす人も。

 力強く軽やかに太鼓を叩く人も。

 皓夜はひとりだけ助かった。

 運がよかったわけじゃない。

 皓夜は笑ってみせた。

 「羽衣座の人たち、狼藉者に襲われて死んだんだ。おれ以外はみんな」

 一鷹が衝撃を受けた顔をする。

 「でもおれは」

 一鷹が立ち上がったと思うと、すがりついてきた。

 違う。

 さっきと同じだ。

 甘えてすがってきているのではない。皓夜を抱きしめてくれているのだ。

 「皓夜兄ちゃん、怖かったでしょ」

 皓夜の肩に顔をうずめた一鷹が、くぐもった声で言う。

 皓夜はその背中を撫でながら首を振った。

 「ありがとう。でも怖くなかったんだ。怖い思いはしてない」

 一鷹が皓夜の筒袖の背中をぎゅっと握る。

 由良は一鷹を撫でる皓夜の手を、静かに見ていた。

 「怖い思いする前に、逃げたから」

 ひとりだけ逃げたから。

 みんなを置いて、逃げたから。

 それは決して恥ではなくて、でも誇りでもなくて。

 洞穴の中が白く光る。

 岩がくだけるような音が、響く。

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