十五 たらいと茣蓙
鍋の中にいつもの味噌をとかし込むと、ふわりとやさしい香りが広がった。
「いい匂いだね」
えんが言った。
えんとこすずに三日お世話になり、
由良には、預かっていた櫛を返した。由良が眠っていて直接渡す機会がなかったので、荷物を包んでいる緑の布の中に滑り込ませておいたのだ。由良は気づいたらしく、皓夜に礼を言った。
「ねぎ切れた」
集中して包丁を使っていたいちたかが、まな板の上から青いねぎを鍋に入れる。
「あれ」
ねぎは、全部つながっていた。
「入っちゃった」
いちたかが呆然とした様子で言う。皓夜は思わず笑ってしまい、ぷくりと膨れたいちたかににらまれた。
「だいじょうぶだいじょうぶ。そのねぎはあたりだよ」
えんが鍋を混ぜながら言った。
「食べたひとはあたり」
「あたり?」
うしろで声がした。振り返ると、こすずが戻ってきていた。低いところで結んでいた髪が、頭のてっぺんで丸くまとまっている。ずいぶん印象が違った。
「その髪、かわいい」
いちたかが言う。皓夜は唇を噛んで笑いをこらえた。返す言葉を封じるようなまっすぐな言い方に襲われたこすずが、目をみひらく。そして、にこりと笑った。余裕たっぷりに首を傾げる。
「でしょ。わかってるね」
強い。この子は強いぞいちたかよ。
「うん。わかるよ」
いちたかは笑い返していた。そうか、この子も強いからだいじょうぶか。
「気持ちよかったね、お姉ちゃん」
こすずが楽しそうに振り返る。うしろから由良がこたえた。
「本当に、気持ちがよかったです」
由良は、髪はいつもどおりだが、
「とてもいいところでした。教えてくださって、ありがとうございます。こすずさん、一緒に行ってくれてありがとう」
由良が明るい笑顔で言う。
「ううん、お姉ちゃんと行きたかったから」
こすずはその場で小さく飛び跳ねている。そのうしろから、ひょこりと顔を出すひとがいた。
「おはようみなさん」
さわやかな笑顔で言ったのは
「笙兄ちゃん何やってるのっ?」
「ん?」
首を傾げる笙に詰め寄り、いちたかは喚いた。
「なんでふたりと一緒に来たのっ?」
皓夜は思わずえんのほうを見た。えんはひょいと肩をすくめた。笑いを押さえつけたような顔だ。いちたかに迫られた笙は、背中をのけぞらせながらにこにこしている。
「まあまあ落ち着け。なんだいちたか、笙兄ちゃんのことそんな、助平野郎だと思ってるのか?」
「だってなんでなの!」
「朝。山の上までお散歩するのが日課なの。帰りにたまたま会っただけ」
「何それ!」
「怒るな、男前が台無しだぞ?」
「知らないもん!」
騒ぐいちたかと、それをおもしろそうにいなす笙を、こすずと由良はあっけにとられた顔で眺めている。
「はいはいわかった。たぶん腹減ってるんだよな」
笙は、憤懣やるかたない様子のいちたかの頭を撫でる。そんな笙と、ふいに目が合った。
「あ、朴念仁」
何やら名誉とは言えない呼び方をされ、皓夜はわざとあたりを見回した。しっかり目を見て言われたので、わかっているのだが。
「ごめん、皓夜」
向き直ると、笙は皓夜を手招きした。
「ちょっと来て」
ぼけっとしていると、踏み込んできた笙に腕を掴まれ、外へ引っ張り出された。うしろでみんな、皓夜兄ちゃんに何するんだ、とか、うるさい、とか、まあいいじゃないか、とか騒いでいた。
家から数歩離れてから、笙は急に距離を詰めてきた。なんだかおかしい。にやにや、笑っている。
「なんですか……」
「いいひとじゃん」
笙は言った。皓夜が思わず眉を寄せると、笙は口に両手を当てて笑った。やけに楽しそうだ。
「皓夜の『すきな』、由良さん? いいひとじゃん?」
「ああ……」
偶然こすずと由良に会って、話しながら帰ってきたのだろう。笙はからかうように笑ったまま、何かの圧を送ってきた。
「ちょっと違うかと思ったけど、やっぱりそうなんじゃないの?」
「はい?」
「はい?」
笙が、よくもそこまでというほど顔をしかめる。いちたかのことを言えないと思う、男前が台無しだ。そのままこめかみを押さえ、あきれ返ったように笙は言った。
「これだから朴念仁は……」
何かが大変心外という気がした。皓夜が眉をひそめて黙っていると、笙は突然、ふっと笑みを浮かべた。頬に木の葉の影がちらつく。
「……しょうがないなあ。でもどうせそうなるだろ? おれって鋭いからなあ、わかるんだよ」
「何……」
笙はくるりと皓夜に背を向けた。
「悔やまなくていいようにしろよ? 生きてんのか死んでんのかも、わからなくなることだってあるんだからな?」
ひらりと手を振って去りかけた笙は、急に振り返り、家に向かって呼ばわった。
「帰る! またな!」
「うん、またね笙兄ちゃん!」
「気をつけてね」
「お話できてよかったです!」
「またね!」
いちたかが最後に怒鳴った。
そのあと、四人で朝餉を食べた。いちたかが切れなかった、あたりのねぎを引き当てたのは、こすずだった。こすずはそれを箸でつまみ上げながらあきれていたが、少し、うれしそうに見えた。
***
その夜、
日は沈み、夜空にたくさんの星がきらめいている。瑠璃紺の紙の上に、光る砂をまいたみたいだ。そのもとの広場には篝火が焚かれ、地面も空気も炎の色に染まっていた。紅の薄衣の、帳をおろしたようだ。そして、即席の舞台がある。大きなたらいをひっくり返したものだった。さすがにひとつでは狭いので、ふたつ並べられている。
「ちょっとのってみて」
笙に言われ、皓夜はそっと上にのぼってみた。
「おお、壊れない」
笙は満足そうに笑って手を叩いた。
「これで頼むよ。もうすぐみんな来るから」
たらいの舞台の前には、大きな茣蓙が敷かれ観客席が作られていた。いちたかと、えんとこすずが、すでに座っている。
「盛大にしていただいて、ありがとうございます」
皓夜が言うと、笙は少年のような笑顔で首を振る。
「娯楽の少ない小さい村なんだよ。楽しませてやって。おれも楽しみだ」
そして皓夜の横にいた由良を見る。何やらよそいきのような笑みを浮かべた笙は、かなりうるわしく見えた。笙は由良に言った。
「由良さん、よろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ。すてきな舞台を用意していただいて、本当にありがとうございます」
由良が微笑みながらこたえると、笙は目に星を飛ばした。
「本当に、いい声ですよね!」
皓夜はたらいからずり落ちた。
「そうでしょうか……」
「そうです。すてきな声ですよ」
「ありがとうございます」
由良は恥ずかしそうに首をすくめている。笙はなぜか、皓夜のほうを見てきた。なんだろうと思って見つめると、ふいっと顔をそらされてしまった。同じ反応をしたいちたかと笙は、似た者同士なのかもしれない。
今朝の言葉はどういう意味だったのか、聞くことはできていない。いまも、できない。
ほんとに調子狂うなあ、朴念仁だからしょうがないのかあ、とかなんとかつぶやいた笙は、投げやりな様子で皓夜の背中を押した。
「じゃあ、おふたりさんは家の中で待ってて。おれが呼んだら出てきて」
由良とふたりで家の中に押し込まれる。
「親父、今日の主役さんたちのおもてなしをよろしく」
そう言いおいて、笙は出て行った。
「お邪魔します」
「こんばんは」
由良と皓夜は、囲炉裏の前に座っていたひとに挨拶した。笙の父親の、村長だ。きれいな顔をした笙とよく似て、引き締まった顔立ちの男性だった。
「こんばんは。わたしが村長です」
村長は立ち上がって言った。
「今晩はどうぞよろしく」
「こちらこそ、村のみなさんに聞いていただけるなんてうれしいです」
皓夜は言った。由良がうなずく。村長はやわらかく笑うと、由良と皓夜に上がるようにと促した。囲炉裏の前まで行って座ると、村長はお茶を淹れてくれる。
「温泉で息子と会ったとか」
村長が湯飲みを差し出しながら皓夜を見た。
「はい」
ありがたく受け取る。
「そのあともいろいろと、気にかけてくださって」
「そうですか」
「やさしいかたです」
皓夜が言うと、村長はふわりと口元に笑みをにじませた。
「いえいえ、うるさいでしょう。あんなふうではなかったのですが」
うるさくなどないが、前はいまのように、お喋りではなかったということだろうか。
「ところであなたたちは、いままでどんなところへ行かれたのですか」
村長に聞かれ、皓夜はこたえた。しばらく三人で話をしていると、外がにぎやかになってきた。笙の大きな声と、ひとびとの笑い声や拍手が聞こえてきた。
「もうすぐですね」
村長が笑いをこらえるように言った。その直後、笙の大声が聞こえた。
「じゃあ、呼んでみましょう! おれに続いてどうぞ! 皓夜くーん、由良さーん!」
掛け声に、ひとびとが続く。皓夜はびっくりして由良を見た。由良も目を丸くしていた。村長がふきだす。
「どうぞ、よろしくお願いします」
村長に促されて、由良の瞳がきらりと光を放つ。皓夜も、自然と口元がゆるんでいた。
「行きましょう」
皓夜が言うと、由良ははい、とうなずいた。
由良の歌声は、夜の村に染み込むように響き渡った。皓夜は耳を傾けながら、笛を吹いていた。
演奏したのは、「とこしえ」と、わらべ歌と、はやりの歌だ。最後には「弥栄」を頼まれた。「弥栄」の歌詞は、ひたすら「弥栄を」と繰り返すだけなのだが、長い繁栄を願うものの名前を入れて歌う。由良は、玉村の弥栄を、と歌った。村のひとたちは盛り上がってくれた。そして己の名前も入れてくれと言うので、由良と皓夜はほとんど全員の末永いしあわせを願うことになった。
ときおり目を合わせた由良は、篝火に照らされて光をまとっているように見えた。わらべ歌は朗らかに少しおどけて、はやりの歌はしっとりと、「とこしえ」は厳かに、「弥栄」は思い切り笑顔で、由良は歌った。その声は星の夜にとけ込むようで、眩しい朝日を呼ぶようで。とても、きれいだと思った。そこにみんなの手拍子と声が重なって、笑顔が見えて。
まるで、しあわせみたいだった。
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