十五  たらいと茣蓙

 鍋の中にいつもの味噌をとかし込むと、ふわりとやさしい香りが広がった。

「いい匂いだね」

 えんが言った。皓夜こうやが行李に入れている、明砂あけすなで買った白味噌だ。少しあまい匂いがするし、味もそうだった。このあたりで使っている味噌は色が濃いもののようなので、白味噌を食べてもらおうと思って出した。

 えんとこすずに三日お世話になり、由良ゆらはずいぶん回復していた。いちたかと皓夜は、えんとこすずの畑仕事を手伝わせてもらっていた。いま由良とこすずは温泉に行っており、残った三人で朝餉の支度をしている。

 由良には、預かっていた櫛を返した。由良が眠っていて直接渡す機会がなかったので、荷物を包んでいる緑の布の中に滑り込ませておいたのだ。由良は気づいたらしく、皓夜に礼を言った。

「ねぎ切れた」

 集中して包丁を使っていたいちたかが、まな板の上から青いねぎを鍋に入れる。

「あれ」

 ねぎは、全部つながっていた。

「入っちゃった」

 いちたかが呆然とした様子で言う。皓夜は思わず笑ってしまい、ぷくりと膨れたいちたかににらまれた。

「だいじょうぶだいじょうぶ。そのねぎはあたりだよ」

 えんが鍋を混ぜながら言った。

「食べたひとはあたり」

「あたり?」

 うしろで声がした。振り返ると、こすずが戻ってきていた。低いところで結んでいた髪が、頭のてっぺんで丸くまとまっている。ずいぶん印象が違った。

「その髪、かわいい」

 いちたかが言う。皓夜は唇を噛んで笑いをこらえた。返す言葉を封じるようなまっすぐな言い方に襲われたこすずが、目をみひらく。そして、にこりと笑った。余裕たっぷりに首を傾げる。

「でしょ。わかってるね」

 強い。この子は強いぞいちたかよ。

「うん。わかるよ」

 いちたかは笑い返していた。そうか、この子も強いからだいじょうぶか。

「気持ちよかったね、お姉ちゃん」

 こすずが楽しそうに振り返る。うしろから由良がこたえた。 

「本当に、気持ちがよかったです」

 由良は、髪はいつもどおりだが、櫛笥くしげの古着屋で選んでいた紅緋の小袖を着ている。袖を通しているのを見るのははじめてだった。落ち着いた色を着たところしか見たことがなかったので、なんだか新鮮だ。いちたかがちらりと見てきたので見つめ返すと、ふいっと目をそらされた。

「とてもいいところでした。教えてくださって、ありがとうございます。こすずさん、一緒に行ってくれてありがとう」

 由良が明るい笑顔で言う。

「ううん、お姉ちゃんと行きたかったから」

 こすずはその場で小さく飛び跳ねている。そのうしろから、ひょこりと顔を出すひとがいた。

「おはようみなさん」

 さわやかな笑顔で言ったのはしょうだった。つぎの瞬間、いちたかが悲鳴を上げる。

「笙兄ちゃん何やってるのっ?」

「ん?」

 首を傾げる笙に詰め寄り、いちたかは喚いた。

「なんでふたりと一緒に来たのっ?」

 皓夜は思わずえんのほうを見た。えんはひょいと肩をすくめた。笑いを押さえつけたような顔だ。いちたかに迫られた笙は、背中をのけぞらせながらにこにこしている。

「まあまあ落ち着け。なんだいちたか、笙兄ちゃんのことそんな、助平野郎だと思ってるのか?」

「だってなんでなの!」

「朝。山の上までお散歩するのが日課なの。帰りにたまたま会っただけ」

「何それ!」

「怒るな、男前が台無しだぞ?」

「知らないもん!」

 騒ぐいちたかと、それをおもしろそうにいなす笙を、こすずと由良はあっけにとられた顔で眺めている。

「はいはいわかった。たぶん腹減ってるんだよな」

 笙は、憤懣やるかたない様子のいちたかの頭を撫でる。そんな笙と、ふいに目が合った。

「あ、朴念仁」

 何やら名誉とは言えない呼び方をされ、皓夜はわざとあたりを見回した。しっかり目を見て言われたので、わかっているのだが。

「ごめん、皓夜」

 向き直ると、笙は皓夜を手招きした。

「ちょっと来て」

 ぼけっとしていると、踏み込んできた笙に腕を掴まれ、外へ引っ張り出された。うしろでみんな、皓夜兄ちゃんに何するんだ、とか、うるさい、とか、まあいいじゃないか、とか騒いでいた。

 家から数歩離れてから、笙は急に距離を詰めてきた。なんだかおかしい。にやにや、笑っている。

「なんですか……」

「いいひとじゃん」

 笙は言った。皓夜が思わず眉を寄せると、笙は口に両手を当てて笑った。やけに楽しそうだ。

「皓夜の『すきな』、由良さん? いいひとじゃん?」

「ああ……」

 偶然こすずと由良に会って、話しながら帰ってきたのだろう。笙はからかうように笑ったまま、何かの圧を送ってきた。

「ちょっと違うかと思ったけど、やっぱりそうなんじゃないの?」

「はい?」

「はい?」

 笙が、よくもそこまでというほど顔をしかめる。いちたかのことを言えないと思う、男前が台無しだ。そのままこめかみを押さえ、あきれ返ったように笙は言った。

「これだから朴念仁は……」

 何かが大変心外という気がした。皓夜が眉をひそめて黙っていると、笙は突然、ふっと笑みを浮かべた。頬に木の葉の影がちらつく。

「……しょうがないなあ。でもどうせそうなるだろ? おれって鋭いからなあ、わかるんだよ」

「何……」

 笙はくるりと皓夜に背を向けた。

「悔やまなくていいようにしろよ? 生きてんのか死んでんのかも、わからなくなることだってあるんだからな?」

 ひらりと手を振って去りかけた笙は、急に振り返り、家に向かって呼ばわった。

「帰る! またな!」

「うん、またね笙兄ちゃん!」

「気をつけてね」

「お話できてよかったです!」

「またね!」

 いちたかが最後に怒鳴った。

 そのあと、四人で朝餉を食べた。いちたかが切れなかった、あたりのねぎを引き当てたのは、こすずだった。こすずはそれを箸でつまみ上げながらあきれていたが、少し、うれしそうに見えた。




***




 その夜、村長むらおさの家に連れて行かれた。村長の家と言っても、えんの家やほかの家と変わりはない、茅葺屋根の小さな建物だった。でもその前に、広い庭があった。玉村たまむらのみんなで集まるための場所らしい。皓夜と由良がお礼に演奏をさせてほしいと言うと、えんが村長に話を通して、村じゅうのひとを集めてくれたのだ。

 日は沈み、夜空にたくさんの星がきらめいている。瑠璃紺の紙の上に、光る砂をまいたみたいだ。そのもとの広場には篝火が焚かれ、地面も空気も炎の色に染まっていた。紅の薄衣の、帳をおろしたようだ。そして、即席の舞台がある。大きなたらいをひっくり返したものだった。さすがにひとつでは狭いので、ふたつ並べられている。

「ちょっとのってみて」

 笙に言われ、皓夜はそっと上にのぼってみた。

「おお、壊れない」

 笙は満足そうに笑って手を叩いた。

「これで頼むよ。もうすぐみんな来るから」

 たらいの舞台の前には、大きな茣蓙が敷かれ観客席が作られていた。いちたかと、えんとこすずが、すでに座っている。

「盛大にしていただいて、ありがとうございます」

 皓夜が言うと、笙は少年のような笑顔で首を振る。

「娯楽の少ない小さい村なんだよ。楽しませてやって。おれも楽しみだ」

 そして皓夜の横にいた由良を見る。何やらよそいきのような笑みを浮かべた笙は、かなりうるわしく見えた。笙は由良に言った。

「由良さん、よろしくお願いしますね」

「はい、こちらこそ。すてきな舞台を用意していただいて、本当にありがとうございます」

 由良が微笑みながらこたえると、笙は目に星を飛ばした。

「本当に、いい声ですよね!」

 皓夜はたらいからずり落ちた。

「そうでしょうか……」

「そうです。すてきな声ですよ」

「ありがとうございます」

 由良は恥ずかしそうに首をすくめている。笙はなぜか、皓夜のほうを見てきた。なんだろうと思って見つめると、ふいっと顔をそらされてしまった。同じ反応をしたいちたかと笙は、似た者同士なのかもしれない。

 今朝の言葉はどういう意味だったのか、聞くことはできていない。いまも、できない。

 ほんとに調子狂うなあ、朴念仁だからしょうがないのかあ、とかなんとかつぶやいた笙は、投げやりな様子で皓夜の背中を押した。

「じゃあ、おふたりさんは家の中で待ってて。おれが呼んだら出てきて」

 由良とふたりで家の中に押し込まれる。

「親父、今日の主役さんたちのおもてなしをよろしく」

 そう言いおいて、笙は出て行った。

「お邪魔します」

「こんばんは」

 由良と皓夜は、囲炉裏の前に座っていたひとに挨拶した。笙の父親の、村長だ。きれいな顔をした笙とよく似て、引き締まった顔立ちの男性だった。

「こんばんは。わたしが村長です」

 村長は立ち上がって言った。

「今晩はどうぞよろしく」

「こちらこそ、村のみなさんに聞いていただけるなんてうれしいです」

 皓夜は言った。由良がうなずく。村長はやわらかく笑うと、由良と皓夜に上がるようにと促した。囲炉裏の前まで行って座ると、村長はお茶を淹れてくれる。

「温泉で息子と会ったとか」

 村長が湯飲みを差し出しながら皓夜を見た。

「はい」

 ありがたく受け取る。

「そのあともいろいろと、気にかけてくださって」

「そうですか」

「やさしいかたです」

 皓夜が言うと、村長はふわりと口元に笑みをにじませた。

「いえいえ、うるさいでしょう。あんなふうではなかったのですが」

 うるさくなどないが、前はいまのように、お喋りではなかったということだろうか。

「ところであなたたちは、いままでどんなところへ行かれたのですか」

 村長に聞かれ、皓夜はこたえた。しばらく三人で話をしていると、外がにぎやかになってきた。笙の大きな声と、ひとびとの笑い声や拍手が聞こえてきた。

「もうすぐですね」

 村長が笑いをこらえるように言った。その直後、笙の大声が聞こえた。

「じゃあ、呼んでみましょう! おれに続いてどうぞ! 皓夜くーん、由良さーん!」

 掛け声に、ひとびとが続く。皓夜はびっくりして由良を見た。由良も目を丸くしていた。村長がふきだす。

「どうぞ、よろしくお願いします」

 村長に促されて、由良の瞳がきらりと光を放つ。皓夜も、自然と口元がゆるんでいた。

「行きましょう」

 皓夜が言うと、由良ははい、とうなずいた。


 由良の歌声は、夜の村に染み込むように響き渡った。皓夜は耳を傾けながら、笛を吹いていた。

 演奏したのは、「とこしえ」と、わらべ歌と、はやりの歌だ。最後には「弥栄」を頼まれた。「弥栄」の歌詞は、ひたすら「弥栄を」と繰り返すだけなのだが、長い繁栄を願うものの名前を入れて歌う。由良は、玉村の弥栄を、と歌った。村のひとたちは盛り上がってくれた。そして己の名前も入れてくれと言うので、由良と皓夜はほとんど全員の末永いしあわせを願うことになった。

 ときおり目を合わせた由良は、篝火に照らされて光をまとっているように見えた。わらべ歌は朗らかに少しおどけて、はやりの歌はしっとりと、「とこしえ」は厳かに、「弥栄」は思い切り笑顔で、由良は歌った。その声は星の夜にとけ込むようで、眩しい朝日を呼ぶようで。とても、きれいだと思った。そこにみんなの手拍子と声が重なって、笑顔が見えて。

 まるで、しあわせみたいだった。

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