十四  炎と思い

 いちたかいわく、こすずをひとめ見た瞬間、あっ見つけた、と思ったのだそうだ。こすずのまわりが光って見えて、眩しくて。見つめていたら、言われてしまった。

 そこの小さい子も旅をしてるの?

 あまりの衝撃でわけがわからなくなり、気がつくと言い返していたのだそうだ。しまったと思ったら、こすずはさらに切り返してきた。そして己が本当に、こすずよりも「小さい子」だということを思い知らされたため、がんばることを決意したのだという。

「かわいいねぇいちたかは」

 しょうが満足そうに笑っている。

「かわいいって言わないで!」

 いちたかは頬を膨らませている。かわいらしい。それにしてもいちたかがそんなことを思っているなんてまったく気がつかなかった。初恋、という言葉を口の中で転がしてみる。なんだか胸の奥がむずむずした。いちたかはまだ幼いのに、すごいと思う。ませたところのある子だとは知っていたけれども。それにそんなことの話を、飯と並べられる笙もすごい。

「でもいちたか、また旅に出るんでしょ? どうするの?」

 笙が急に言い出した。

「もう会えないかもしれないじゃん」

 いちたかが口ごもる。

「どうすんの?」

 笙の言い方はかろやかだったが、どこかさっきまでとは違う、暗いものが混じっている気がした。淡い初恋をしたばかりの、八歳の少年に向ける質問ではない気もした。

「時間がいるからさ」

 いちたかがきっぱりとこたえた。

「あの子よりかっこいいひとになるって決めたから。なったときに、また会いに来るんだ」

 笙が不意を突かれたように黙る。そして、ふっと笑った。

「そっか。なるべく早く来ないと、兄貴分にとられるかもよ」

「そうはさせないよ!」

「ふっ、せいぜいがんばりたまえ」

 余裕たっぷりに言った笙が、皓夜こうやを見た。

「きみは?」

「あ、皓夜です」

「違うよ皓夜くん」

 笙はにっと口の端を左右に引く。

「きみは、いちたかよりも長く生きてるわけじゃん。年頃なわけじゃん。あるだろうよさまざまに」

「さまざまに」

 繰り返してみる。皓夜は首を傾げた。恋、に関する話だということはさすがにわかる。でもそれがどんなものかは、わからない。恋をしていた、というか、誰かを己よりも思っていたひとなら、そばにいたのだが。

「さまざま、ないですね。まったく、ないです」

 皓夜は言った。笙が疑わしげに目を細める。

「ほんとに? まったくなしって、いままで何して生きてきたの?」

 思わず笑ってしまった。

「それは……ちょっとよくわからないです」

「なっさけない子だなあ!」

 笙が悲鳴のような声で叫ぶ。かと思えば急激に気を取り直してにやりと笑った。

「あっ、弟の前だと、恥ずかしくて言えないか」

「そうですね、この子は弟ではないんですけど、弟です」

「……なんかふしぎだな皓夜は。調子狂うぜ。調子狂うし……、すいたひとのひとりやふたり、普通いるだろ」

 笙は半ばあきれたように言う。このひとは、すいたひとがふたり以上いるのだろうか。皓夜が的外れなことを考えていると、いちたかが急に、思いついたように声を上げた。

由良ゆら姉ちゃんは?」

 突然出てきた名前に驚いて、皓夜はつい聞き返した。

「えっ? なんだ?」

 いちたかはまっさらな目で見つめてくる。

「由良姉ちゃんのことは、すき?」

 ぼんやりとあたりをかすませる、湯けむりの中で。由良の、水晶のように清流のように透明な声と、まっすぐな日差しのような笑顔と、さっき見たばかりの蒼白な顔が順番によみがえる。囲炉裏の炎の向こうで丸まった背中も、目の前で揺れていた黒髪も、黒い真珠のような瞳も。

 あのひとは。あのひとのことは。

「すきだ」

 皓夜は言った。笙といちたかが顔を見合わせる。

「いいひとだと思う」

 朗らかで、よく笑って、よく食べて。でもどこか抜けていて、危なっかしくて。きっと身体が本調子ではなかったのに、倒れるまで、何も言ってくれなかった。

「ゆらねえちゃんって誰? きみたちふたりじゃないの?」

 笙が興味津々という様子で聞いてくる。いちたかが元気よくこたえた。

「うん。ふたりだけじゃないよ。皓夜兄ちゃんと由良姉ちゃんと、おれの三人で旅してるの」

「ははあ、わけありね」

「んん、そうかもね」

「それで? 皓夜兄ちゃんは由良姉ちゃんのことがすきだと」

 笙が事実確認をし、そしてなぜか押し黙った。

「……でもなんか、色気ないね」

 笙がぽつりとつぶやく。ちょっと何を言っているのかわからなかった。

「だよね。なんかちょっと違うよね」

 いちたかがやけに大人びた顔で同意していた。




***




 笙は、えんとこすずの家まで送ってくれた。いちたかの痣は見ただろうが、何も言わなかった。

 温泉に浸かったおかげで身体はすっかりあたたまっていた。家の中では、囲炉裏の上につるされた鍋がおいしそうな匂いと湯気を立てているところだった。

「こすず、またね」

「あっ笙兄ちゃん! またね!」

 こすずにかわいらしい返事をもらった笙は、にやっとしていちたかを見やってから、帰っていった。いちたかは口を引き結んで、遠ざかっていく笙をじっと見ていた。

「あんたたち笙に会ったんだね」

 えんがなぜか苦笑いしていた。

「はい、いろいろお話ししました。温泉も、よかったです。ありがとうございます」

「皓夜ちゃんは礼儀正しいんだね」

「いえ」

 皓夜は隣の部屋をちらりと見た。まだ由良は目が覚めていないのだろうか。

「お姉ちゃんはまだ寝てるよ」

 こすずが椀を用意しながら教えてくれた。

「明日の朝は、温泉行けたらいいのにね」

 こすずの気遣いが心にしみた。

「ありがとう」

 皓夜が言うと、こすずは照れくさそうに笑っていた。皓夜の隣のいちたかに椀を押し付ける。

「はいおちびさん。あんたのお椀」

 一瞬眉をひそめたいちたかだが、すぐにさわやかにお礼を言って微笑んだ。こすずは面食らっていた。笙に、余裕を見せるべきだと言われたのだ。

 こすずはなくなった父さんみたいな、やさしくひとを包み込める、強いひとがすきだからと。いちたかの父親も、強くてやさしいひとだったといちたかは言っていた。そんなひとになりたいと、夢の中へいざなわれる直前に。

「少し様子を見てきます」

 皓夜は隣の部屋を指差した。えんがうなずいてくれた。大きな音を立てないように、そっと戸を開ける。ほの暗い部屋に敷かれたむしろの上に、由良は横たわっていた。薄く目が開いている。はっとして、声が出た。

「由良さん」

 由良が視線をさまよわせて、やっと皓夜のほうを見る。

「皓夜さん……?」

 かすれた小さな声が、確かめるように皓夜を呼んだ。安堵と一緒に、もどかしいような苦しいような、何かが喉に込み上げてくる。それを飲み込んで、たずねた。

「気分はどうですか。だいじょうぶですか」

「え……と」

 由良は戸惑ったようにあたりを見回している。

「目が覚めたかい、由良ちゃん」

 うしろからえんが、部屋をのぞき込んできた。

「びっくりしただろ。でもだいじょうぶだよ」

 頼りがいのあるその声に、由良はこくりとうなずいていた。




***




 野菜がたっぷりの鍋をいただいて、いちたかはすぐに寝てしまった。いちたかも疲れていたのだろう。それを見て、やっぱりおちびさんだと言っていたこすずも、しばらくすると眠ってしまった。

「皓夜ちゃんも寝なさいよ。狭いけどね」

 えんが言ってくれた。

「はい、ありがとうございます」

 皓夜は頭を下げた。えんとこすずにはとてもお世話になっている。お礼も渡したいし、由良が元気になったら演奏も聞いてもらいたい。

「いいんだよ。わたしたち、ふたり暮らしはちょっと寂しいしね」

 こすずの父はなくなったのだと、笙が言っていた。

「あんたたち、由良ちゃんが元気になるまでいるといいよ。あれだとまだ本調子じゃないだろ」

 由良はもうだいじょうぶだと繰り返していたが、夕餉もろくに食べないままにまた寝てしまった。

「そうかもしれません」

 皓夜は囲炉裏の火に目を落とした。身をよじって燃えているようで、少しかなしく見えた。

「あんたたちの事情はわからないけどさ」

 えんも炎を見ていた。

「そんなに急ぐことはないだろ」

 由良は、できるだけ早く連波つらなみにたどり着きたいと言っていた。でも皓夜はうなずいた。

「はい」

「まあ、笙とこすずの相手でもしてやってよ」

 えんはいたずらっぽく笑って言った。

「こすずもいちたかちゃんの世話焼くの楽しそうだし、皓夜ちゃんともっと話したいって言ってたし。それに笙ね。あの子、変だけど悪いやつじゃないからさ」

「いいかただと思います」

 笙のひとなつっこい笑顔は、心をほぐしてくれた。

「そうかい、ありがとう」

 えんはそばに寝ているこすずを撫でながら言う。

「あの子ああ見えて、村長の息子なんだよ」

「そうなんですね」

 臥竜列島がりょうれっとうのそれぞれの国を治める領主は、王と呼ばれている。そして、国の中でも主要な都市はさとと呼ばれ、それを任されるのは郷司さとのつかさだ。国の中央から派遣される。櫛笥くしげ袖振そでふりは郷だった。その中のさらに小さな区画や、郷には入らない土地は村と呼ばれる。そういう、村を束ねるのが村長むらおさだ。こちらはその地の実力者が務めることになっていて、多くは世襲になっていた。

「じゃあ笙さんは、つぎの村長ですか」

「そうだね。いい村長になると思うよ」

「はい」

「あの子はひとのしあわせを願える子だからね」

 えんはどこか困ったような顔で言った。いちたかに布をかけてくれる。その手はやさしくて、慈しむようで、胸がきゅっと締め付けられた。

「えんさん」

 そんなつもりはなかったのに、呼んでしまった。えんが顔を上げる。何も気負った様子のない表情に誘われて、言ってしまう。

「いちたかは、おれの弟とかじゃなくて。櫛笥で、ひとりで暮らしてたから、連れてきたんです」

「うん」

「これまで、苦労してきたみたいなんです。だから誰か、いちたかを引き取ってくれるひとが」

 そこまで言って、皓夜は口をつぐんだ。えんなら、いちたかを受け入れて、大事にしてくれるかもしれないと思ってしまったのだ。

「うん」

 えんがうなずいた。炎がぱちぱちと音を立てる。火箸で黒くなった薪を転がしながら、えんは言った。

「いちたかちゃんには、話してるのかい?」

 皓夜は首を振った。いちたかを、いずれどこかに預けたほうがいいと思っていることも、本人に言っていなかった。

「いちたかちゃんは、あんたについてきたんじゃないの?」

 えんはやさしい笑みを浮かべていた。

「皓夜ちゃんと由良ちゃんについていきたいんじゃないの?」

 どうもそう見えるけどね、とえんは言った。すやすや眠っている様子のいちたかを見る。はじめて会った日に、置いてかないでと、いちたかは言った。わけもなく髪をかき上げてやると、急に手を取られた。

「おいてかないで」

 いちたかは目を開けていた。いつから起きていたのだろうか。素直でかわいらしい子だが、なんだか掴みどころがなくて、心配になってしまうのだ。だから、早くどこかに落ち着いたほうがいいのではないかと思った。

「えんさんはだいすきだけど、おれかっこよくならないといけないし」

いちたかは少し照れくさそうに笑う。

「つれてってよ、皓夜兄ちゃん」

 皓夜はいちたかの手を握った。小さくてあたたかな手を、己にできる限りそっと、包み込んだ。

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