十三  傷痕と初恋

「ほら、わたしのほうが高い」

 こすずが得意そうに笑う。少し近づいただけで、それは明らかだった。いちたかが悔しそうに口を結び、こすずに駆け寄る。背中を合わせて、皓夜こうやに顔を向けてきた。

「どう? 皓夜兄ちゃん、どう?」

 ちょっと心が痛むが、皓夜は本当のことを伝えた。

「こすずさんのほうが高いよ」

 その場にがくりと膝をついたいちたかに、えんがあっけらかんと言う。

「だいじょうぶだよ、これから伸びるからさ」

「ほんと?」

 いちたかがぱっと顔を上げる。えんは大きくうなずいた。

「ほんとさ。あんたはきっと、皓夜ちゃんより大きくなるよ」

 なんだか無責任な気がしたが、いちたかが目を輝かせたので、なんだか何も言えなくなってしまう。

「えっ、なれるかな? 皓夜兄ちゃんみたいにかっこよくなれるかな!」

 どういうつもりでそんなことを言っているのか、大変な謎だ。皓夜はいよいよ何も言えなくなった。

「ああなれるとも。あんたはいい男になる。わたしはわかるんだ」

 えんの力強いこたえに、いちたかは俄然元気が出たようだ。一方のこすずは、眉を寄せて首を傾げている。なぜか納得いかない様子のこすずを、いちたかがきっと見上げた。

「おれすぐに、きみより大きくなってやるから。びっくりするぐらいかっこよくなってやる!」

 こすずがむっとした顔をする。そして口をひらいた。

「わかった。楽しみにしてる。そしたらそのころにはわたし、あんたよりずっともっとかっこいいひとになってるから」

「いいだろう、勝負だ」

「上等だよ」

 睨み合うふたり。相性悪そうに見えるが、なんだか波長が合っているのかもしれない。

「ところでこすず」

 見守っていたえんが急に言った。

「夕餉の支度しようか」

 こすずが我に返ったような顔をする。

「あっ、うん。むかごもとれたよ」

「ありがとう」

 えんは、ふたりの子供たちの勝負を煽っておきながらけろりと話を変えたようだ。

「たいしたものはできないけど味はいいと思うよ」

 えんが立ち上がる。皓夜は慌てた。

「あ、おかまいなく。人数も多いですから、あのひとの寝るところだけいただけたら」

 するとえんは、おおげさに目をむいた。

「おかまいしないのは無理だよ。せっかく仲良くなったんだし。なあこすず?」

 こすずが口をとがらせながらもうなずく。

「おちびさんとは仲良くはなってないけど。ゆっくりしたらいいんじゃないかな」

 いちたかはおちびさんと言われても何も言わなかった。目をみひらいて、こすずを見つめている。

「じゃあ決まり。あんたたちそこに座ってな。由良ちゃんの様子も見てあげて」

 えんはさっぱりと決めてしまった。

「でも」

 皓夜が言いかけると、えんがきゅっと目を細める。皓夜は続きを言えなくなった。えんの表情は遠慮を飲み込ませてしまう、威圧ではないふしぎな力があった。

「でも、はなしだよ。わたしたちがそうしたいんだからね」

 皓夜は黙って頭を下げた。ありがたいことだ。いちたかも、ぺこりとお辞儀をしていた。

「あっ、お兄ちゃんとおちびさん、温泉に行ってきたら?」

 ふいにこすずが言った。

「ご飯できるまでちょっと時間かかるから、ちょうどいいよ」

「いいこと言うね、こすず」

 皓夜は思わずいちたかと顔を見合わせた。急いで立ち上がる。

「いいえ、何かお手伝いさせてください」

「いらないよ」

 えんがひらひらと手を動かした。

「三人も四人もで同じ鍋の世話をすることないよ。あんたたちも疲れてるだろ、温泉行っておいで。この家の裏山入ったらすぐだよ。暗くなる前にさっさと行きな」

「いってらっしゃぁい」

 こすずも言う。皓夜はまた、いちたかと顔を見合わせた。

「由良ちゃんのことは任せな。だいじょうぶだから」

 えんは力強く言ってくれた。そして少しいたずらっぽく付け加えた。

「大事なものは持って行きなよ。盗まないけどさ」




***




 重なる枝と、けぶる白い湯気の向こうに、温泉はあった。えんとこすずの家の裏から、少し山の中に入ったところだ。角のとれた丸い岩に囲まれた円の中に、卯の花のようなやわらかい白の湯がたっぷりと湧いている。温泉の、独特でふうとひと息つきたくなるような匂いが、濃く漂っていた。

 木に囲まれていてこぢんまりとして、なんだか落ち着くところだ。身体を洗ってから湯に入ると、熱かったがすぐに慣れた。少しとろみのある湯が身体じゅうを包み込んで、染み込んでくるみたいだ。身体があたたかくほぐされて、癒されていく気がする。白くて熱い泉を微妙に恐れていたいちたかも、しあわせそうな顔をして肩までつかっていた。

「おれ、温泉ってはじめて」

 いちたかが声を弾ませた。

「そうか。気持ちいいだろ」

「うん!」

 いちたかは大きくうなずく。皓夜は笑い返して、さりげなくその背中に目をやる。小袖を脱いで、身体を洗っていたときに気づいた。いちたかには痣があった。背中だけではなく、身体じゅうに。いままで、気づいていなかった。できてしばらく経っているのか、緑色を帯びて痛々しい。

 見つけてすぐは、何も言葉が出なかった。皓夜はうつむいて、白濁した湯を見つめながら呼んだ。

「なあいちたか?」

「んん? なあに?」

 いちたかが、まったりした返事をする。皓夜は顔を上げてたずねた。

「痣、どうしたんだ」

 するといちたかは、きょとんと目を丸くした。しばらくして、やっと思い至ったような顔をする。

「ああ、痣?」

 いちたかは湯の中から両腕を出した。大きな痕が広がっている。それを眺めながら、いちたかはなんでもなさそうに言った。

「これね。ぶたれたからね」

 息が詰まった。

「なんか、父ちゃんが死んじゃったって、言ったでしょ。そのあとにね、伯父さんのところに引き取ってもらったんだけど。でも、あんまり親切じゃなかったの、いないほうがいいって言ってたし」

 いちたかは腕を白い湯の中にしまって、おどけたように続けた。

「で、いないってことになったの」

 皓夜は奥歯を噛みしめた。いちたかは父親をなくして、ひとりになっただけでは、なかったのだ。

「でもだいじょうぶ! いまは皓夜兄ちゃんと、由良ゆら姉ちゃんといるからね」

 いちたかの声は朗らかだった。

「ね、これももう治ってるでしょ?」

 本当に、治ってくれるだろうか。いちたかは、こんなに明るく話している。それは、治っているからなのだろうか。

「皓夜兄ちゃん? なんでそんな顔してるの?」

 いちたかがのぞき込んでくる。何も言えなくて、ひどく情けない。間抜けな己を殴り飛ばしたくなる。そんな状態の皓夜を見て、いちたかは、ふっと目元をゆるめた。

「やさしいね、皓夜兄ちゃん」

「いちたか」

「ねえ、こんなに気持ちいいんだったら、由良姉ちゃんも早く入れたらいいね?」

 いちたかはにこにこしながら言った。

 えんとこすずの厚意にあまえてここへ来る前、由良の様子を見てきた。顔色はずいぶん戻っていて、静かに眠っているようだった。皓夜はその枕元に螺鈿の櫛を置こうと思ったが、やめて持ってきた。直接渡そうと思って。

 盗まれると思ったわけではない。でも由良の櫛はなんとなく、あまりひとめに触れさせないほうがいい気がしたのだ。枕元に置いておいたら、えんとこすずが見つけてしまうかもしれない。

「由良姉ちゃん、だいじょうぶかなあ」

 いちたかがつぶやく。己の話は、もう切り上げてしまおうとしている。皓夜は唇を噛んだ。つらかったのに、言えなかったのかもしれない。言う必要もないと思っていたのかもしれない。ふたりとも。気づいていたのに、気づけなかった。

「だいじょうぶだよね。えんさんもだいじょうぶって言ってたし」

 いちたかが目を閉じて、のんびりした調子で言う。

「……そうだな」

 皓夜は薄く笑った。

「だいじょうぶだよ。由良姉ちゃんは強いよ。見てたらわかる」

 返事が遅れた皓夜を、いちたかが励ましてくれる。皓夜はうなずいた。しばらくふたりで、黙って湯に浸かっていた。ふいに、いちたかが身体を寄せてくる。

「ねえ、皓夜兄ちゃん?」

「なんだ?」

「あの子、こすずって子」

「うん」

「おれ絶対あの子よりかっこよくなるよ」

 皓夜はいちたかの細い肩にぽんと触れた。

「がんばれ」

 こすずも、わたしはあんたよりかっこよくなると言った。きれいになる、ではなくてそう言ったこすずは、頼もしくてかっこいい子だと思う。でもいちたかも、素直で真っ正直な心根がかわいらしいから、きっと誰からもすかれるだろう。いや、かわいいではだめなのか、いちたか本人は。

「でもさ」

 いちたかがぽつりとつぶやく。

「何をがんばったらいいと思う?」

 いちたかがちょっと途方に暮れたように言ったとき、突然べつの声が割り込んできた。

「ねえ、なんの話?」

 木の陰から誰かがぬっと姿を現し、いきなりざぶんと湯の中に入って来る。濁り酒のような湯が大きく揺れてあふれだした。

「失礼、お邪魔したよ」

 事後申告したのは、見目うるわしい青年だった。皓夜より少し年上くらいに見える。すっと通った鼻筋に切れ長の目をして、肌は小麦色に焼けている。まじめな顔をしていればとっつきにくそうだが、青年はひとなつっこそうな笑みを浮かべていた。

「いえ、こんばんは」

 皓夜は挨拶した。いちたかも、こんばんはと声を張り上げる。青年は子供のようにくしゃりと笑った。

「こんばんは。おれ、しょうっていうの。このへんに住んでるんだ。旅のひと?」

「はい。そこのえんさんにお世話になっていて。ここも教えてもらいました」

 皓夜がこたえると、笙はこくんとうなずき、首まで湯の中に沈んだ。

「そうか、えんさんね。世話ずきだからね。ところできみたち。なんか興味深い話が聞こえたんだけど?」

 なんだかいちたかみたいに目がきらきらしている。

「え?」

「え、じゃないよ。おれはそういう話が飯と同じくらいすきなんだよね。飯よりすきなものはないけど」

「同意します」

「ほんとに?」

「飯は大事です」

「あ、そっちね。いやうれしいけど。でもおれの耳に狂いはないよ。してただろそういう話」

「そういう話?」

 わけがわからないまま皓夜が相槌を打っていると、笙はもどかしそうに眉をぎゅっと寄せた。

「ああぁ、この朴念仁が。あのね、つまりきみたち、恋の話してただろってこと」

「こい?」

 それまで黙りこくっていたいちたかが、この上なくのんきな声を出した。

「池にいるよねえ」

 笙がひとさし指を振る。

「わかってるくせにとぼけるな。白々しいよ、きみ」

「いちたかだよぉ」

 いちたかがおどけている。

「ははあ、いちたかきみ、ませてるんだね。自覚ありかい」

「何がぁ?」

「かっこよくなるんでしょ、こすずより」

 笙の言葉に、いちたかの耳がみるみる赤くなる。のぼせたのかと思って、もう出ようと声をかけようとした。するといちたかが急に口元まで沈んだ。ぶくぶくと泡を出しながら言う。

「……だって守ってあげたいでしょ」

 すると笙が、勝ち誇ったようににやりと笑った。

「はいはい、おめでとう。ひとめ惚れかな? その感じだと初恋かな?」

「だってかわいいでしょ……」

「面食いか?」

「かわいいだけじゃないし!」

「おやおや、出会ってすぐにぞっこんじゃないか。いちたかちょろいの?」

「ちょろくてもいいもん!」

 年の差を完全に超えて繰り広げられる軽快なやりとりである。皓夜はまったくついていけない。ふたりに混じって、かろやかに喋ることのできる状態でもない。ぼけっとしたまま、ふたりを交互に見る。

「こすずのどこがよかったの?」

「お兄さん誰? あの子の何?」

「おやまあ心配しないで。おれは兄貴分だから。十二も下の子供は、いまのところ対象外だし。うん。でもまあ、ちょっと? 年下のほうがいいかもとかは? 思わないこともないけど?」

「何それ? 何? いまのところって何?」

「ん? おちびさんは保護の対象なんだよ」

「お兄さん何者?」

 何やら、盛り上がり始めている。

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