二曲目 湯けむりと雨宿り
十二 蛇と螺鈿
収穫のときが近い、黄金色の田が広がっている。吹き抜ける風に稲がこたえ、わさわさと揺れる様子は、実った穂の重みを誇っているようだった。そんな稲たちと、水がちょろちょろと流れる用水路に挟まれた道を、一列になって歩いていく。道の先には、茅葺屋根の家々が見えていた。
「いい風だねえ」
先頭のいちたかが風車を振り回しながら言う。
「そうですねえ」
いちたかのうしろで
この村は、入ったときから独特のにおいがした。前に嗅いだことがなくもない、というくらいだったが、硫黄のにおいだとわかった。温泉があるのかもしれない。今日は、この村を抜けたところにある町を目指していた。
「あっ、見て!」
ふいにいちたかが声を上げて、道の端にしゃがみ込んだ。
「どうしたのですか?」
由良がのぞき込む。
「蛇が泳いでるよ!」
いちたかは用水路の中をゆびさしていた。
「本当ですね」
由良が驚いたように言った。水路の中を見てみると、長い、まだら模様の蛇が体をうねうねとさせながら泳いでいた。あんまりきれいに体が波打っているので、感心してしまう。
「蛇というのは、泳ぐのですね!」
由良は蛇の巧みな泳ぎに見入っている。
「泳ぎますよ。水の中で、蛙とかを食べるらしいです」
「あぁぁ」
皓夜が何気なく教えると、由良は低い悲鳴を上げていた。
「蛙もいるのかな?」
いちたかが好奇心いっぱいの様子で身を乗り出す。
「落ちるぞ」
皓夜はいちたかの腕を軽く掴んだ。水もあまり流れていない浅い水路だが、落ちないに越したことはないだろう。
「はあい」
いちたかは素直に返事をして立ち上がった。
「なんかお腹すいた。行こう」
そう言うので、皓夜は笑ってしまった。
「蛇見て腹が減るのか?」
「うん、だって食べるでしょ、蛇」
あたりまえのようにいちたかは言った。皓夜も蛇は食べたことがない。
「あぁぁ」
由良がまた、うなり声を上げていた。
「ちょっと食べてみるか」
皓夜が言うと、いちたかが喜々とした様子でこたえた。
「ほんとっ? ちょっと待っててね! つかまえてくる!」
「待ってっ! 待ってくださ」
叫んで立ち上がろうとした由良が、ぺたりと地面に座り込む。
「由良姉ちゃん?」
いちたかが駆け寄る。由良はすぐに顔を上げた。
「あ、すみません、だいじょうぶです。でも蛇は」
声が弱い。いちたかがはっと口を覆う。
「ごめんね、由良姉ちゃん蛇嫌いだったんだね?」
蛇の好き嫌いはともかくとして、様子が少しおかしい。皓夜はかがんで由良の顔をのぞき込んだ。よく見えなくて顔を近づけると、由良は深くうつむく。皓夜は由良の顎に触れて顔を上げさせた。由良は、青白い顔をしていた。無理をさせないように気をつけてきたつもりだったが、気遣いが足りなかったのかもしれない。皓夜は黙って、背負っていた行李を腹側に抱えなおした。
「あれ、由良姉ちゃんだいじょうぶ?」
いちたかが心配そうに由良にたずねる。由良はうなずきながら、小袖の胸元を握りしめていた。皓夜は座り込んでいる由良に背中を向けた。
「負ぶいます」
意味が通じていないのか、由良は黙っている。
「……あっ、こうだよ、由良姉ちゃん」
いちたかが言って、由良の手を取ったようだ。皓夜の肩に、由良の手が置かれる。
「あっ、違いますだいじょうぶです!」
由良が慌てたように言った。肩から手が離れる。
「少し立ちくらみがしただけです、おおげさです歩けます!」
ほら、と由良が立ち上がる気配がする。
「わっ、由良姉ちゃんっ」
いちたかの声に振り返り、皓夜はぎょっとした。いちたかが腰から半分に折れていて、その上に由良の身体が、力なく垂れ下がっていた。いちたかがひしゃげたような声を上げる。
「お、重……」
皓夜は抱えていた行李を放り出し、由良を抱き起こした。すっかり力が抜けている。横抱きにしてから、いったん地面に座らせるかっこうにする。
「由良姉ちゃん? どうしたのだいじょうぶ? 由良姉ちゃん?」
いちたかが由良を揺する。まぶたが閉じられた由良の顔は、唇まで白くなっていた。額に汗が浮かんでいる。それを目にしたいちたかは、ひどく混乱していた。それが、顔を見なくても伝わってくる。
「いちたか」
皓夜が呼ぶと、いちたかは皓夜の腕にすがりついてきた。泣きそうな顔をして、目をみひらいている。ひどくおびえていた。
「皓夜兄ちゃんっ、由良姉ちゃん死んじゃうの? 死んじゃわないよね?」
「死なないよ」
皓夜はいちたかの肩に手を置いた。
「ちょっと疲れてるみたいだ。ゆっくり寝ればだいじょうぶ」
「ほんとに……?」
「本当だ」
いちたかは口を引き結び、こくりとうなずいた。
「じゃあ、おれ、先に行って頼んでくる。姉ちゃんに寝床くださいって」
言うなりいちたかは駆けだした。帯に差し込んだ風車が、からからと騒いでいた。賢い子だと思いながら、皓夜は手甲で由良の額を拭った。行李を背負い由良を抱えて、いちたかの背中を追おうとする。
そのとき、由良の小袖の合わせから何かがこぼれた。ことりと、地面に落ちる。それは、櫛だった。虹色につやめく螺鈿細工が施された、半月形の櫛。かたどられているのは、羽を広げる鳥だった。
由良は櫛がないと言って途中で買っていたのだが、それはこんな手の込んだものではなかった。また新しく買ったのだろうか。でも、そんなことはあとでいい。皓夜は櫛を拾って懐に入れると、いちたかを追いかけた。
***
風がよく通って涼しい家の中、皓夜はいちたかと一緒にちんまりと座っていた。目の前では、囲炉裏の火がちらちらと燃えている。
ふいに、すらりと木戸が開く。隣の部屋から出てきたのは、三十代くらいに見える女性だ。思わず腰を浮かせたいちたかと皓夜に、そのひとは言った。
「だいじょうぶだよ、いまは寝てるね」
「よかったあ」
いちたかが座り込み、出してくれていた水を一気飲みした。皓夜もいくぶん力が抜けた。このひとが、即座に受け入れてくれたのだ。皓夜が由良を抱えてたどり着くころには、もう部屋にむしろが敷かれて準備ができていた。そのあとも、彼女は由良の世話をしてくれていた。
「いちたかちゃんたちもびっくりしたね、姉ちゃんが倒れて。わたしは、えんっていうんだ、あんたは?」
女性がまっすぐ皓夜を見る。いちたかは助けを乞うたときにもう名乗っていたようだ。
「助けていただいてありがとうございます、えんさん。おれは皓夜といいます。そこのひとは由良です」
皓夜はこたえてから、なんだか少し、違和感を覚えた。いちたかちゃんたちもびっくりしたね、姉ちゃんが倒れて。えんはそう言ったのだ。
「あの、姉ではないです……。身内ではなくて」
気がつくと、皓夜は口走っていた。どんな関係だと思われても、べつにかまわないはずなのに。するとえんは目を丸めて、それから笑った。それはどこか玄妙さを感じさせる笑みで、感情を推し量りにくい感じがした。
「そうかい、それは申し訳なかったね。いちたかちゃんが、姉ちゃんって言ってたからつい。まだ、身内じゃないってところかね」
えんの言う意味はよくわからなかったが、皓夜はとりあえずうなずいた。えんは木戸を閉めて、皓夜といちたかの向かいに座った。
「皓夜ちゃんも水飲みな。由良ちゃんはだいじょうぶだから。ちょっと疲れがたまったんだろうね。身体がかたくなってた」
「そうなのか、気づかなかった」
いちたかがうつむく。するとえんが明るく言った。
「だいじょうぶだいじょうぶ。これでもう懲りるだろ。無理したらこうなるってわかったから」
皓夜はえんに頭を下げて、湯飲みを手に取った。素朴なぽってりした形の湯飲みに、入っているのは水だ。でも、じんわりとぬくもりが伝わってくる気がした。
「母さん、ただいま!」
ふと、入り口から声がした。見ると、開け放たれた戸のそばに幼い少女が立っていた。いちたかと同じくらいの年頃に見え、山菜のようなものがのったざるを抱えている。凛とした顔立ちが、えんによく似ていた。
「あ、おかえりこすず」
えんが言った。少女はえんの娘らしい。皓夜は湯飲みを置いて、こすずと呼ばれた少女に頭を下げた。
「お邪魔してます、旅の者です。連れが具合を悪くしたので」
「ああいいんだよ!」
えんにさえぎられた。
「そんなに気を回さなくて。なあこすず」
えんがこすずを見る。こすずは、家に帰ってみれば突如降って湧いていた客にも動じる様子はなく、からりと笑った。
「うん、いいんだよ。で、そのお連れさんはだいじょうぶなの?」
心配そうに聞いてくれる。母親と同じように、鷹揚でやさしい子のようだ。皓夜はなんだかじんとした。
「ありがとう、少し疲れてるみたいで、いまは隣の部屋で休ませてもらってる」
皓夜がこたえると、こすずはほっとしたように目元をゆるめた。そしてふと、皓夜の隣のいちたかを見て、少し驚いた顔をする。
「そこの小さい子も旅をしてるの?」
こすずの言葉に、いちたかがはっと息を飲んだのが聞こえた。つぎの瞬間、いちたかは身を乗り出していた。
「おれは八つだよ。もう小さくないし。きみのほうが小さいだろ」
言い終わったとたん、いちたかは己に驚いたように大きな目を泳がせた。皓夜もびっくりしたが、なんだか気持ちがわかる気がした。こすずも同じように目を見張っていたが、草履を脱いでいちたかのほうへ歩み寄りながら切り返した。
「それならわたしのほうが大きいね。九つだから」
軽くからかうような言い方だった。いちたかがぐっと声を詰まらせて、それでもなんとか言い返す。
「変わらないよひとつくらい!」
「そうかな。背だってわたしのほうが高いみたいだよ」
「そんなことないもん!」
「じゃあ比べてみる?」
いちたかが勢いよく立ち上がる。皓夜は思わずえんのほうを見た。えんはまた、にやりともにこりともつかない笑みを浮かべていた。目が合うと、えんはひょいと肩をすくめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます