十 稲穂と雪
「いちたかさん、わたしが持ちます。あなたはまだ」
「またおれのことちびって言うの? ひどいでしょ、そんなの」
「わたしはそんなこと、言っていないではありませんか。言ったのは
「でもいま絶対言おうとした」
「いいえ、まだ幼いからと言おうとしただけです」
「それ意味一緒だからね!」
このように、ふたりはさっきから荷物の取り合いをしている。
「そんなに重くないし、女人は男に持たせておけばいいんだよ」
「男とか女とかまったく関係ありません。わたしが持ちたいのです」
「いやだもん。おれも持ちたいもん」
皓夜は黙って見守っていた。なんだかほのぼのする。平和な争いだ。でもいちたかは、これくらいしないといけないと気を遣ってはいないのだろうか。己は何も役に立たないと言っていたから。でもそれを聞くのも、なんだかおかしい気がする。
視線を遠くへ投げる。向こうのほうに見える山の端が、緋色に染まっていた。その色は上へ行くにつれて、淡くなっている。羽衣を広げたような、透けた紅になっている。いつの間にか、夕暮れどきだった。夕方の光は、過ぎた一日のできごとをいろいろと混ぜ込むのかもしれない。少し濁ってぬるく、ほの暗い。そんな光を受けたひとや建物は、道に長く、薄い影を落としていた。
今日は、もう少し進んで隣町の
「皓夜さん、なんとか言ってください」
「ねえっ、またちびって言われた!」
ふたりに同時に訴えられたが、皓夜はのほほんとこたえた。
「きょうだいみたいだな」
ふたりに揃って、頼りにならないなこいつは、という顔をされた。
宿に着いたら、どうしようか。由良のことも、いちたかの事情も、まだ何も知らない。古着屋でお代を払うとき、由良といちたかが長持をのぞき込んでいるあいだに店主に言われたことを思い出す。
あの妙に危なっかしいお嬢のこと、おまえさんがちゃんとつかまえとかなきゃいけないよ。
聞き返したが、はぐらかされてしまった。
***
その中で宿を見つけて、三人で部屋に落ち着いている。雑魚寝の宿も多いが、ここは部屋が分かれているところだった。由良の部屋はべつに用意しようと思ったが、由良がもったいないと言い張るので三人一緒にした。いちたかと皓夜が、それでいいんですかと気にしていたら、宿の主人がついたてを持って行こうと言ってくれた。
運び込まれたのは、
いちたかと由良は、遠慮しているのか、盆の上のものに触ろうとしない。養われている気にでもなっているのだろうか。不本意だが、己がいちばんに手を付けなければならない空気だと悟らざるを得なかった。皓夜は丸く握られた雑穀の握り飯を手に取って、いただきますと言ってから大口を開けて食った。
「うまい」
皓夜が言うと、いちたかが目を輝かせ、両手で握り飯を取ってかぶりついた。
「ほんとだあ、うまい! 中になんか入ってるよ!」
「山菜の佃煮だな」
「そうなんだ?」
由良もやっと食べ始めた。あたたかいものを飲んで、ほっとしたように目元をゆるめている。
「ねえ、明日からはどうするの?」
いちたかが握り飯を大事そうに食べながら聞いた。
「うん」
皓夜は手拭いで手を拭いてから、行李の中にある紙と矢立てを取り出した。簡単に
「いまはこのあたりにいる」
皓夜は
「で、どこに行くんだっけ」
「ここだ。連波っていう国」
皓夜は同じ島の、北のほうに描いた国を示した。古扇のすぐ北の国、
「遠いねえ?」
「そこそこな。明日からは、古扇をひたすら北に行く。いちたか、歩けるか?」
「だいじょうぶだよ! 身体は丈夫なんだ」
いちたかの頼もしい返事を聞いて、皓夜は由良を見た。
「由良さんは? 疲れていませんか」
由良はにこりと笑ってうなずく。
「だいじょうぶです。わたしも身体は丈夫なので」
皓夜は小さく笑い返した。由良は早く連波にたどり着きたいと言っていた。だから毎日進むが、あまり無理をしないつもりだ。今日になってから少し気になっていたのだが、由良の顔には、ときどきひっそりと影が落ちていた。だいじょうぶとは言っているが、疲れているのかもしれない。
だから今夜も、ひとりでゆっくりしたほうがいいのではないかと思ったのだが。まあついたてを持ってきてくれたので、少しはましかもしれない。
「北に行きながら、歌って踊って、するんでしょ」
いちたかが言った。皓夜は思わずふきだした。
「うん。踊りはしないけど。いちたかが踊りたかったら、踊ってくれてもいいけどな」
「いいですね、それ!」
「待っておれ踊らないよ?」
いちたかがあわてるので、また笑えてしまった。由良もくすりと笑い声を漏らす。口をとがらせたいちたかが、地図をつついた。関係ない話を始めようとする。
「ここは? これは何?」
いちたかが示したのは、二の島の北のほうにある、大きな国だった。
「……
「うん、でかいね! いずほね。じゃあここは?」
いちたかは、二の島から海峡を隔てた、一の島のうちの一国をゆびさしていた。それもずいぶん大国なので、目に留まったのだろう。由良がこたえた。
「
「ゆき?」
いちたかがふしぎそうに繰り返す。
「そう。雪です。寒いところでは白い羽みたいな、綿みたいなものが空から降るのです。わたしも見たことがないのですが、冷たいけれど真っ白で、とてもきれいだそうですよ」
「へえ……!」
「ゆきは、こう書くのです」
由良が筆を手に取って、紙にさらさらと字を書く。由良が書いたゆきという字は、しなやかな線でかたち作られていた。いちたかが、文字の読み書きができないができるようになりたいと言うので、教えることになっている。由良はさっそく始めたようだ。
「ゆき」
いちたかが由良の字をなぞる。
「そう、いちたかはこう」
「じゃあ、ゆら、は?」
「こうですね」
「わあすごい! じゃあ、こうやは?」
由良が微笑んで、筆を渡してくる。
「教えてください皓夜さん」
皓夜は筆を受け取り、二種類の文字で己の名前を書いた。
「由良さんが書いたのは、臥竜のひとが作った字だ。このちょっと難しいやつは、異国の字。臥竜でもずっと使ってる。いまの臥竜には、文字がふたつあるんだ。混ぜて使う」
「へえ、そうなのか……。大変だね……」
いちたかは紙を手に取って、じっと見つめている。
「臥竜の文字を全部書いてみましょうか?」
由良が言うと、いちたかが目をまんまるにみひらいた。
「えっ全部? 全部知ってるの? 見たい!」
「臥竜の文字は少ないのですよ。書いてみますね」
皓夜は新しい紙を由良に渡した。由良は皓夜の目を見て礼を言ってくれた。紙を出しただけなのに。由良が字を書き始める。いちたかがそれを真剣に見ている。皓夜はその様子を見守りながら、熱い茶を飲んでいた。
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