十 一と鷹
櫛笥と
袖振の町に着くころには、日が沈んで薄暗くなり、星が見え始めていた。
店の軒につるされた提灯に夕日の色の明かりがともり、町をあたたかく照らしている。
「ここが袖振かあ」
新しい草鞋を履いたいちたかが興味津々で辺りを見回している。
「前見て歩けよ」
いちたかは一瞬びっくりしたように皓夜を見たが、すぐにきゅっと手を握り返してきた。
「袖振は初めてなのか?」
「うん。ずっと櫛笥にいたから。あんまり櫛笥と変わらないけど、初めてだからうれしい」
いちたかは顔いっぱいで笑った。
「うれしいですね」
由良が慈しむような表情を浮かべていた。
「お宿、どこかなあ」
いちたかが上下左右に視線を動かしながら言う。たぶん上とか下とかには見つからないと思うけれど。
「そろそろだと思うよ。
宿の名前は七宝というらしい。縁起がいい名前だ。
いちたかが首をかしげて、あっさりとした口調で言った。
「おれ、字読めないんだよね」
「そうか」
今まで行った国では、自分の家に近所の子供たちを集め、無償で読み書きや計算を教えている人もいた。寺の住職がその役割を果たしているところもあった。でもいちたかの周りには、そんな環境がなかったのかもしれない。そんな場所もある。裕福な家の子供は家庭教師をつけられているのが当たり前だが、お金がなければ何も習えずに、読み書きができない人も多いのだ。
「すぐに読めるようになりますよ」
由良が言った。
「教えます。おもしろいですよ」
「そうなの? おれもできるかな」
「できます。あの看板を見てください」
由良がすっとひとつの看板をゆびさす。切り株を薄く切ってそのまま使っている、味のある看板だった。
「あれ、いちたかと読むのですよ」
柔らかい光に照らされた看板には、一鷹、と書いてあった。
昔は文字のなかった
「えっ? いちたか?」
いちたかが大きな目を零れそうに見開いている。その驚きようがかわいらしくて、我知らず口元が緩んだ。
「ほんとに? おれのこと? やっぱりおれ売られるの?」
いちたかは混乱しているようだ。何度も由良と看板と皓夜を見比べている。
店に近づいて、揃って足を止めた。いちたかはぽかんと口を開けて看板に見入っている。
由良が楽しそうに解説し始める。
「ふたつ文字があるでしょう。ひとつめの文字をいち、と読むのです。いちばんのいちです」
「はへえ」
「ふたつめの文字は少し難しいけれど、たか、です。強い鳥の鷹ですよ」
「あああ! 鷹か!」
「そう。一鷹。いちばんの鷹ですね。あなたの名前もそうやって付けられたのかもしれませんよ」
いちたかはじっと看板を見つめている。
皓夜はそんないちたかの頭にぽんと手を置いた。
「じゃあおれ」
しばらくして、いちたかが言った。
「じゃあおれ、これからいちばんの鷹になる」
その表情は、幼いながらきりりと引き締まっていた。
「おれの字はこれにする」
由良がぱっと目を輝かせた。
「すごくいいと思うぞ」
皓夜が言うと、一鷹はこくりとうなずいた。
「かっこいいよね。かっこいい」
決意を確かめるように繰り返している。
見守っていると、急に声をかけられた。
「かっこいいでしょ、一鷹」
店の中から、若い男の人が顔をのぞかせていた。
「かっこいい! おれ今日から一鷹になるんです!」
一鷹が両手を握りしめて叫んだ。
「おお、そんなに気に入った?」
「気に入りました! おれはもともといちたかだけど、絶対このいちたかだと思うから、このいちたかにします!」
「おう、よくわからんけどそうしろ!」
「うん!」
「いい返事だ!」
軽快にのっかってくれる青年だ。
「じゃあ一鷹記念に、うちに寄っていかないか? もう今日は閉めたんだけど、特別に開けるからさ」
爽快にのせようとしてくる青年だ。
「なんのお店ですか?」
皓夜はたずねた。店の名前と外観だけでは、よくわからない。
青年は軽やかにこたえた。
「豆菓子だよ」
思わずふたりのほうを見る。三人でお互いを見合ってしまった。
「豆……?」
「鷹……?」
「鳩……?」
豆と鷹に特につながりは感じなかった。
「いいだろ。だってかっこいいじゃん」
青年は開き直った様子で言った。
「自由だね」
一鷹がこぼす。青年はにかりと笑った。
「なんでもいいんだよ、気に入ってれば」
***
それぞれ気に入った豆菓子を選んで買った。演奏での収穫が相当のものだったので、お祝いだ。豆菓子の店一鷹には、たくさんの種類の豆菓子が並んでいて、店を出るころにはもう真っ暗だった。
「お宿で食べようね」
一鷹が豆菓子の袋を持った由良を見上げてうれしそうに言った。
好きなのを選べと言ったら一鷹は遠慮していた。それを見た青年がおまけしてくれたのだ。
「どれもおいしそうですね。楽しみです」
由良も、荷物ができたこともあり喜んでいるようだ。
「分け合いっこしようね」
「もちろんです」
微笑ましいやり取りを聞いていると、少し先に七宝と書かれた提灯を見つけた。
「あった」
皓夜がつぶやくと、一鷹がわあっと声をあげた。
走り出す。
「気を付けろよ」
言ったけれど、聞こえているのかどうか怪しい。
小さく笑って、一鷹を追いかける。由良も小走りでついてきた。
「こんばんは! 今日泊まりたいんです! えっと、三人!」
一鷹はもう番頭と話しているようだ。
「こんばんは」
皓夜は山吹色の暖簾をくぐった。入るとすぐにたたきと上り框があり、番頭らしい男の人が座って一鷹の相手をしてくれていた。土間には塵ひとつなく、板の間もつややかに磨かれている。
なんだか優しい、森の中のような香りがした。香を焚いているのかもしれない。
「いらっしゃいませ。お三方ですね」
番頭は穏やかな目をした五十代くらいに見える人だった。丁寧な口調で聞いてくれる。
「ただいま空いている部屋がおひとつなのですが、よろしいでしょうか」
皓夜は口ごもった。昨晩は仕方がないので同じ部屋で寝たけれど、由良は、会ったばかりのやつらとは別のほうがいいだろう。
「かまいません」
皓夜が考えていると、由良がにこにこしながらこたえた。
「いいの?」
一鷹が目を丸くしている。
「女人はひとりでゆっくりしたほうがいいんじゃないの?」
由良がふきだした。
「一鷹さんはそんなことどこで聞いたのですか? ひとりもいいですけれど、みんなでお話したいのです」
「うん、おれもお話はしたいけど」
すると、番頭が口を開いた。
「ついたてをご用意いたしましょうか」
そっと添えるように提案してくれる。
「あ、では、お願いします」
由良が返事をしてしまった。番頭が頭を下げる。
「かしこまりました。ではご案内いたします」
一鷹と由良が顔を見合わせて笑っている。
楽しそうだから、まあいいか。
皓夜は番頭に、お願いしますとうなずいた。
すると奥から、女の人が三人現れた。みんなたらいを持っている。
「いらっしゃいませ。どうぞそちらにお座りに」
ひとりに言われ、式台に腰かける。
すると女の人たちは優雅な様子でたたきにおりて、一鷹と由良と皓夜の足元にたらいを置いてくれた。
一鷹が目に見えてぎょっとしている。
皓夜は三人にお礼を言ってから、一鷹に教えた。
「ここで草鞋を脱いで、足を洗うんだよ」
「ああ、へえ、そうなんだ」
一鷹は宿が初めてのようだ。たらいに張られているのはほんわかと湯気の立つ湯だった。真っ白い手拭いがふちにかけられている。
手間取りながら足袋と草鞋を脱いだ一鷹は、たらいに足をつけてあったかいと感激していた。
「どちらからおいでに?」
番頭に聞かれて、皓夜は
「櫛笥の人に、ここが評判の宿だと聞いて」
そう言うと番頭は少しだけ、誇らしげに眉を動かした。なんだか微笑ましかった。
「気になって、ここを目指してきたんです」
「それはありがたいことです。特別なことは何もありませんが、細かいところにこだわっております」
言ってから、番頭は喋りすぎたと恥じるように頭を下げた。
何も恥じ入ることはないと思う。きれいに掃除は行き届いているし、いい香りがするし、湯もちょうどいいあたたかさだし、人も雰囲気が柔らかい。
あの古着屋の店主が教えてくれたから、何か奇抜な宿かと勝手に思っていたが、そうではないらしい。おもてなしの心が詰まった、ところだ。
そう思っていると、由良が言った。
「とてもきれいですし、いい香りがして、お湯もちょうどよくてみなさんも優しくて、評判になるはずのお宿です」
由良の玻璃を鳴らす声に褒めちぎられ、宿の人たちは謙遜もできずもじもじしていた。少し同情する。
足を洗い終わると新しい足袋を渡され、部屋に案内された。
畳の上に落ち着き、お茶とついたてをお持ちしますと係の人が出て行った瞬間、一鷹が声もなく暴れ出した。
「おいどうした」
座ったまま身体をくねらせている一鷹に半分笑いながら聞く。
「だって楽しい」
一鷹はくねくねしながらこたえた。
由良がふきだして、くすくす笑い出した。
皓夜は肩をすくめて、ほかの人もいるからなと、一応注意した。
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