七 罪ととろろ飯
「よく返してくれましたね」
皓夜は小さく息をついた。おそらく盗まれかけた。笛も、売れば財になるだろう。でも袋の外からは笛だとわからないので、何か珍しいものを持っていると思ったのかもしれない。笛が盗まれては困る。でも、泣かせるつもりはなかった。顔が怖かったのだろうか。どうしようと考えていると、しゃくり上げていた少年が、苦しそうに言葉を発した。
「お、おれのこと、お役人のところに、連れて行ってください」
皓夜は眉を寄せた。
「……どうしてだ?」
疑問をぶつけた途端、少年はがばりと顔を上げた。脳天に雷を食らったような表情を浮かべている。
「役所に家のひとがいるのか? 家のひとが役人なのか?」
問いを重ねるたびに、少年の目が大きくなっていく。まずい、目の玉こぼれそうだ。皓夜はとりあえず黙った。
「え、え、だ、だって、おれ、それを、盗もうと、して」
少年はひどく混乱した様子で言っている。少年の言いたいことはわかった。皓夜の笛を盗もうとしたから、己を役人に突き出してほしいということだろう。それなのに皓夜がどうしてだなんて聞いたから、ものすごく戸惑っているのだ。そんな正直な子がいるなんて、世の中捨てたものではないのかもなあとぼんやり思う。
「でも、返してくれただろ」
皓夜は少年に笑いかけた。少年はもう目を白黒させている。
「で、でもおれ、つかまらなかったらそのまま逃げようとしてて、返そうなんて、思ってなかったし」
「そりゃそうだろ。あたりまえだよ」
返すつもりで盗むひとはいないだろう。由良がくすりと笑うのが聞こえた。
「……だめですよ」
少年は何かかたく決心したような顔で断じた。
「だめです。おれはひとのもの盗もうとしたし、いままでも盗んだから、罰を受けないと。お役所に一緒に来てください」
少年は敢然と袖で涙を拭い、皓夜の手を掴んだ。
「おいおい」
「おいおいじゃないです。なんか変ですよ。そんなに簡単に許しちゃいけないんだ」
「いやいや」
「いやいやじゃないです。ほら、早く」
頑固そうに目をつり上げた少年はぐいぐいと皓夜を引っ張る。もちろん皓夜はびくともしなかった。由良が困ったように笑っている。
「なあ、きみ、名前は?」
皓夜は必死に押したり引いたりする少年に聞いた。
「おれは皓夜だ。このひとは由良さん」
由良が少年に会釈をするが、少年は見ていない。思わず由良と顔を見合わせて、しかたがないなと笑ってしまった。
裾の短い色褪せた小袖と痩せた身体から見て、この少年が裕福な家の子でないことはすぐにわかる。このあたりは商家ばかりだから、少し離れた村から来ているのだろう。暮らしに困っているのかもしれない。盗んだものを返すなどせず、もっとしたたかに生きていてもよいと思うくらいだ。
でもこの少年は、泣いていて震えていて、ちゃんと皓夜に笛を返してきた。笛をとられては困るので、返却されないならばどこまででも追いかけていただろうが。
「変な兄ちゃん動け……!」
少年はいつまでも、名をたずねた皓夜にこたえない。岩のように動かない変な兄ちゃんを連行しようと、躍起になっている。そんな少年に、由良が声をかけた。
「少し、落ち着いてみますか? このかた、動く気配がないですし」
それが聞こえないかのように、少年はしばらくがんばっていた。けれどやがて口をとがらせて、引っ張るのをやめた。
「少し休憩しましょう」
由良が少年に微笑みかけた。少年はうつむいてしまった。解放された皓夜は、少年をのぞき込んだ。
「きみ、ひとりか?」
少年が顔を上げる。
「……えっと、ひとりです」
少年は戸惑い気味にこたえたて、足元に目を落とした。
「早く牢屋に入ったほうがよかったのかも。誰もいないし」
ぽつりとそうつぶやく。いま、ひとりでいるというのではなく、本当に、ひとりなのだ。それに気づいた皓夜はもう一度少年の頭を撫でて、言った。
「じゃあきみ、おれたちと一緒に来ないか」
少年がびくりと顔を上げる。意味が不明、と顔に書いてある。
「それは、いいかもしれませんね!」
由良がのんきな調子で賛同してくれた。少年は、雲の上か地面の下の国へでも、いきなり吹っ飛ばされたような顔をしている。
そのとき、上から元気な声が降ってきた。
「いらっしゃい!」
しゃがんだままの皓夜が見上げると、そばの建物から桃色の小袖を着て前掛けをした少女が出てきたところだった。通行人の邪魔にならないように道の端によけたが、そこは店の前だったようだ。店のひとらしい少女は、涙の跡が残る少年の顔と皓夜の顔を見比べた。
「うちのとろろ飯食べて、元気出しませんか?」
愛嬌たっぷりの明るい笑顔で、少女は言った。とろろ飯、素晴らしい。ちょうど腹ごしらえをしたいと思っていたところだし。元気を出してほしいし。皓夜はすぐにこたえた。
「そうします。三人でお願いします」
「ありがとうございます!」
「ちょっとっ、何この変なひと」
袖を引いて文句を言う少年を、皓夜は軽く睨んだ。
「皓夜だ」
「知らない!」
「さっき言ったのに」
「名前聞いてるんじゃないだもん!」
由良が笑顔で、少年の背中を押す。
「おなかがすいているのではないですか? とろろ飯、一緒にいただきましょう」
少年は抵抗むなしく、店に押し込まれていった。皓夜もあとに続いて、店の桃色の暖簾をくぐる。中にはたくさんのお客がいた。繁盛しているようだ。板の間に机がいくつも置いてある。お客はそのまわりを囲んで、とろろ飯を食べていた。
少女に案内してもらって、座布団に腰をおろす。由良が皓夜の向かいに少年を座らせて、その隣に落ち着いた。少女が冷えた水を持ってきてくれる。
「とろろ飯、三人前でよろしいですか? 大盛りも承りますが!」
「大盛り三人前で」
皓夜は同意も得ずに注文した。
「ありがとうございます! 少々お待ちくださいね!」
少女が奥の厨房に引っ込みながら、大盛り三丁お願いします、と歌うように言う。すると奥からは、なんと言っているのかはよくわからない、野太い返事が返ってきていた。
思わずふきだしてしまう。由良もくすりと笑っていたが、少年は深刻そうな顔でうつむいていた。
「だいじょうぶか? 腹でも痛いのか」
顔をのぞいて聞くと、少年は首を振ってから言った。
「おれ、手ぶらです」
「うん、そうだな」
皓夜は簡単にこたえた。
「あと、盗もうとしました、それ。紐切ったし」
机の上に置いた笛を示している。皓夜はうなずいた。
「知ってるよ」
少年は口を曲げて、何か考え込んでいた。しばらくして、目を細めながら言った。
「……おれのこと売るつもりですか?」
皓夜は、飲んでいた水を吹き出しそうになった。でも少年は、いたってまじめな顔をしている。皓夜は感心した。
「しっかりしてるんだな」
親切にしてくるひとが、いいひととは限らないというわけか。少年の横の由良は、ぎょっとしたように目をむいている。
「売るなんて、そんなことをするわけがありません」
由良は力強く言った。少年をのぞき込み、口調をやわらかくして問う。
「どうして、そんなふうに思うのですか?」
「だって」
少年は木の机に目を落とす。机は年季が入っていて、いくつもの傷がついていた。
「悪いことしたのに、なんか、やさしくしてくれるのがなんでかわからないから。信用させようとしてるのかなって、おれのこと。それでそのあと」
不安げにこぼれた言葉を聞いて、由良が苦しそうに眉を寄せる。皓夜は机に肘を付いて、少し身を乗り出した。
「悪いけど、ひとを売る趣味はないんだ」
わざとにやりと笑って見せる。
「騙すのも下手だ。あれは賢くないとできないからな」
由良は少し表情をやわらげたが、すぐに皓夜の言葉に問題に気づいたようだった。この子に何を教えているのか、と言いたげな目を向けてくる。皓夜はあざやかな知らぬふりをして、続けた。
「あと……、なんていうか、きみは誰かに頼ってもいいんだと思う」
少年の手首を掴んだとき、おびえたような大きな目を見たとき、息が止まるような気がした。もういいんだと、言ってやりたくなった。それは己の、勝手すぎる思いだとわかっていても。
「それで、名前は?」
たずねると、少年はしばらく沈黙したあと、ぽつりとこたえた。
「いちたか」
「すてきなお名前です」
由良が包み込むように言う。いちたかは小さくうなずいた。
「お待たせしました!」
いきなりはつらつとした声が割り込んできて、机の上に注文の品が並べられていった。
「とろろ飯大盛り三人前です! ごゆっくりどうぞ!」
「ありがとうございます」
「おいしそうですね、いただきます」
皓夜と由良が言うと、いちたかは上目遣いに周囲を見ながら、少女にぺこりとお辞儀をした。少女はうれしそうににっこりしていた。
目の前に置かれた丸い盆には、大盛りの麦飯とたっぷりのとろろ汁がそれぞれよそわれたふたつの器と、漬物の小皿がのっていた。
「うまそう……」
いちたかが、このいっときだけは全部忘れたように、目を輝かせてつぶやく。皓夜は、いちたかが年相応の反応をしてくれたことがうれしかった。
「でもこんなに食べられるかな」
いちたかは照れくさそうに笑っている。
「だいじょうぶ、とろろなんて、するする食べられてあっという間ですよ」
由良が言った。いちたかはあっけにとられた様子でこくこくうなずいている。由良は食べることがすきなようだ。
「じゃあいただこうか」
皓夜が言うと、由良がはい、と笑って、いちたかは少し遅れて箸を握りしめた。
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