七   罪ととろろ飯

 ごめんなさい、と少年は消え入りそうな声で言った。

 皓夜こうやのほうを見る。大きな目には涙がいっぱいにたまっていて、色がなくなるほど唇をかみしめていた。

 皓夜は少年から重たい手拭いを受け取ると、頭を撫でた。

 少年の目から涙がぽろぽろ零れる。

 「よく返してくれましたね」

 由良ゆらもかがみこんで少年に言った。柔らかな声音に、少年は耐えきれないように顔を覆った。

 「お、おれのこと、お役人に」

 少年がしゃくりあげながら言う。

 「お役人のところに、連れて行って、ください」

 皓夜は眉を寄せた。

 「どうしてだ?」

 疑問をぶつけた途端、少年はがばりと顔をあげた。涙に濡れたその顔は、雷を脳天に落とされたような表情を浮かべている。

 「役所に家の人がいるのか? 家の人が役人なのか?」

 問いを重ねるたびに、少年の目が大きくなっていく。

 あ、まずい目の玉零れそうだ。

 皓夜はとりあえず黙った。

 「え、え、だ、だって、おれ、お兄さんの財布を、財布を」

 少年はひどく混乱した様子で言っている。

 少年の言いたいことはわかった。皓夜の財布を盗もうとしたから、自分を役人に突き出してほしいということだろう。それなのに皓夜がどうしてだなんて聞いたから、ものすごく戸惑っているのだ。そんな正直な子がいるなんて、世の中捨てたものではないのかもなあとぼんやり思う。

 「でも、返してくれただろ」

 皓夜は少年に笑いかけた。少年はもう目を白黒させている。

 「で、でもおれ、つかまらなかったらそのまま逃げようとしてて、返そうなんて思ってなくて」

 「そりゃそうだろ。当たり前だよ」

 返すつもりで盗む人はいないだろう。

 由良がくすりと笑うのが聞こえた。

 「……だめですよ」

 少年は何かかたく決心したような顔で断じた。

 「だめです。おれは人のもの盗もうとしたし、今までも盗んだから、罰を受けないと。お役所に一緒に来てください」

 少年は敢然と袖で涙を拭い、皓夜の手を掴んだ。

 「おいおい」

 「おいおいじゃないです。お兄さん変ですよ。そんなに簡単に許しちゃいけないんだ」

 「いやいや」

 「いやいやじゃないです。ほら、早く」

 頑固そうに目をつりあげた少年はぐいぐいと皓夜を引っ張る。

 もちろん皓夜はびくともしなかった。

 由良が困ったように笑っている。

 「なあ、きみ、名前は? おれは皓夜」

 皓夜は必死に押したり引いたりする少年に聞いた。

 たぶんこの子は、好きで盗みなんてやらないだろう。震えていたし泣いていたし、ちゃんと返してくれた。きっと何かの事情があるのだ。

 そんな子を責める気にはなれなかったし、役所に突き出そうとも思えなかった。

 古扇ふるおうぎがどうかはわからないが、臥竜列島がりょうれっとうの多くの国では罪に大人も子供も関係ない。役所に行けばこの子は何かしらの罰を受けなければならないだろう。閉じ込められてしまうかもしれない。盗みを働かなければならない暮らしと獄中での暮らし、どちらがましなのかはわからないけれど。

 少年は皓夜の問いにはこたえず、岩のように動かない変な兄ちゃんを連行しようと躍起になっている。

 「少し、落ち着いてみますか? この方動く気配がないですし」

 由良が少年に言う。それでもしばらくがんばっていた少年は、やがて口をとがらせて引っ張るのをやめた。

 「ちょっと休憩しましょう」

 由良が少年に微笑みかけた。少年はうつむいてしまった。

 解放された皓夜は、いいことを思いついた。

 少年にとって今の暮らしと牢屋の中のどちらが悪いかはわからないが、どちらよりも少しましな気がする提案はできる。

 皓夜は少年を覗き込んだ。

 「きみ、ひとりか?」

 少年が顔をあげる。

 丈の短い、色あせた着物と痩せた身体から見て、裕福な家の子でないことはすぐにわかる。このあたりは商家ばかりだから、少し離れた村から来ているのだろう。そこに家族がいるのか、それともひとりきりなのか。少し前の皓夜みたいに。

 「えっと、おれは、ひとり暮らしです」

 少年は戸惑い気味にこたえた。幼い見た目には似合わない言葉だった。

 「だから早く牢屋に入った方がよかったのかも」

 皓夜はまた少年の頭を撫でて、言った。

 「きみ、おれたちと一緒に来ないか?」

 少年が絶句する。衝撃、と顔に書いてあった。

 「それはいいですね!」

 由良がのんきな調子で賛同してくれた。

 少年はまたひどく衝撃を受けている。

 そのとき、上から元気な声が降ってきた。

 「いらっしゃい!」

 しゃがんだままの皓夜が見上げると、そばの建物から桃色の小袖を着て前掛けをした少女が出てきたところだった。通行人の邪魔にならないように道の端によけたけれど、そこは店の前だったのだ。店の人らしい少女は涙の跡が残る少年の顔と皓夜の顔を見比べる。

 「うちのとろろ飯食べて、元気出しませんか?」

 愛嬌たっぷりの明るい笑顔で、少女は言った。

 とろろ飯、素晴らしい。ちょうど腹ごしらえをしたいと思っていたところだし。元気出してほしいし。

 皓夜はすぐにこたえた。

 「そうします」

 「ちょっとお兄さん」

 少年が抗議しようとするので、皓夜は軽くにらんだ。

 「皓夜だよ」

 「知らないもん」

 「さっき言ったのに」

 「知らないもん!」

 由良が少年の背中を押して促す。

 「おなかがすいているのではないですか? 何か一緒にいただきましょう」

 「ありがとうございます!」

 店の少女がその辺に響き渡る挨拶をくれる。

 少年は頭の働きが止まってしまったような顔で、店に押し込まれていった。

 皓夜もあとに続いて、店の桃色の暖簾をくぐる。

 中にはたくさんのお客がいて、繁盛しているようだ。席に案内してもらって、腰を下ろす。由良が皓夜の向かいに少年を座らせて、その隣に落ち着いた。少女が冷えたお茶を持ってきてくれる。

 「ご来店ありがとうございます! とろろ飯、三人前でよろしいですか? 大盛りも承りますが!」

 「大盛り三人前で」

 皓夜は同意も得ずに注文した。

 「ありがとうございます! 少々お待ちくださいね!」

 少女が奥の厨房に引っ込みながら大盛り三丁お願いします、と歌うように言う。すると奥からは、なんと言っているのかはよくわからない野太い返事が返ってきていた。

 思わず笑ってしまう。由良も笑っていたが、少年は深刻そうな顔でうつむいていた。

 「だいじょうぶか? 腹痛いのか?」

 聞くと、少年は首を振って言った。

 「おれ、お金持ってないです」

 「うん、そうだろうな」

 皓夜は簡単にこたえた。

 「お兄さんたちのお金、盗もうとしました」

 「知ってるよ」

 少年は口を曲げて、しばらく考え込んでいた。

 「……おれのこと売るつもりですか?」

 皓夜は、飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。

 でも少年は、いたってまじめな顔をしている。

 皓夜は感心した。

 「きみ、しっかりしてるんだな」

 親切にしてくる人がいいやつとは限らないというわけか。

 しかもそれを面と向かって聞けるというわけか。

 「売るなんて、そんなことをするわけがありません」

 由良が力強く言った。

 「どうしてそんなふうに思うのですか?」

 「だって」

 少年は木の机に目を落とす。机は年季が入っていて、いくつもの傷がついていた。

 「おれはふたりに悪いことしたのに、なんか、優しくしてくれるのがなんでかわからないから。信用させようとしてるのかなって、おれのこと。それでそのあと」

 不安げに零れた言葉を聞いて、由良が苦しそうに眉を寄せる。

 皓夜は少年の顔を覗き込んだ。

 「悪いけど、おれは人を売る趣味はないよ」

 わざとにやりと笑って見せる。

 「だますのも下手だと思うし。困ったときはお互いさまだろ」

 由良が少し表情を和らげた。

 「あと……、なんていうか、きみは誰かに頼ってもいいんだって思うよ」

 少年の手首を掴んだとき、怯えたような大きな目を見たとき、息が止まるような気がした。もういいんだって、言ってやりたくなった。それは皓夜の、勝手すぎる思いだったけれど。

 「それで、名前は?」

 たずねると、少年はしばらく沈黙したあと、ぽつりとこたえた。

 「いちたか」

 「すてきな名前ですね」

 由良が包み込むように言う。

 いちたかは小さくうなずいた。

 「お待たせしました!」

 はつらつとした声が割り込んできて、机の上に注文の品が置かれた。

 「とろろ飯大盛り三人前です! ごゆっくりどうぞ!」

 「ありがとうございます」

 「おいしそうですね、いただきます」

 皓夜と由良が言うと、いちたかも少女にお辞儀をしていた。

 少女はうれしそうににっこりしていた。

 目の前に置かれた丸い盆には、どんぶりに盛られた麦飯と、どんぶりにたっぷりのとろろ汁と、漬物の小皿がのっていた。

 「うまそう……」

 いちたかが、このいっときだけは全部忘れたように、目を輝かせてつぶやく。

 「そうだな」

 皓夜はいちたかが年相応の反応をしてくれたことがうれしかった。

 「でもこんなに食べられるかな」

 いちたかは照れくさそうに笑っている。

 「だいじょうぶ、食べられなかったらわたしが食べますから。それにとろろなんて、するする食べられてあっという間ですよ」

 由良が言った。

 いちたかはあっけにとられた様子でこくこくうなずいている。

 由良は食べることが好きなようだ。

 「じゃあいただこうか」

 皓夜が言うと、由良がはい、と笑って、いちたかは少し遅れて箸を握りしめた。







 

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