六   喜びと恐れ

 立ち止まる。腰にさげた袋から、笛を取り出す。

 足元に漆塗りの黒い椀を置いた。

 そばに立つ由良ゆらが小さく手を叩いてくれる。

 

 日が高く昇るころ、古扇ふるおうぎの町、櫛笥くしげに着いた。

 道の両側に色とりどりの暖簾や提灯をさげた建物が並び、たくさんの人が行き交う櫛笥の町。

 町の中を流れる川には、美しい曲線を描く木の橋が架かっていた。その橋の前で、皓夜こうやは演奏を始めようとしている。

 古扇の決まりをよく知らなかったので、どこぞで勝手に笛を吹いて商売してもいいのかと関所で聞いてみた。許可が必要な国もあるのだ。でも古扇は旅芸人に寛容なようだった。関所にいた役人はどこでも好きなようにするがいいと言ってくれた。

 笛を構えて、そっと、吹き始める。

 低い音が柔らかく空気を震わせると、人々がはっとしたように振り返る。足を止める人もいる。

 皓夜は静かにまぶたを下ろした。

 とこしえという曲だ。

 臥竜列島がりょうれっとうがひとつの王朝によって治められていた大昔から伝わる曲で、とにかく何かしらおめでたいときに演奏される。明るい曲だから、とくにおめでたいことがなくても聞いて嫌な気分になる人はあまりいないと思う。たいてい皓夜は、演奏をとこしえから始めることにしていた。

 周りに人が集まってくる気配がする。吸い寄せられる、と言ってもらったことのある音色だ。でも、今日はこれだけじゃない。

 皓夜は目を開けて、横でにこにこしていた由良を見た。

 我に返ったように目を見張る由良に、ぱちぱちとまばたきをして見せる。

 由良ができ始めたばかりの人だかりに目を移し、小さく首を振る。

 頬がこわばって、少し怯えているように見えた。

 だいじょうぶ、櫛笥に着くまでずっと練習していたから。

 由良の歌は皓夜が思った通りというか、それよりもずっと、よかった。

 皓夜はもちろん喜んだが、由良も皓夜の笛を褒めちぎってくれた。

 それでやたらと盛り上がり、町に着いたらさっそく披露しようと話し合ってきたのだ。

 今は人が集まって見ているから、直前になって尻込みしてしまう気持ちはわかる。

 でも怖気づく必要なんてない。

 だって、すごくすてきな歌だ。

 歌って。

 皓夜は片目を閉じて誘った。そういうきざな真似はしたことがなかったのだけれど、緊張がほぐれてくれればいいと思って。

 由良の唇が笑いをこらえるように震える。

 皓夜の作戦はうまくいったようだ。

 由良がふわりと笑みを浮かべる。

 その微笑みにざわりと少し揺れた空気を、静かに吸い込んだ。

 

 歌いだす。

 清流のような、磨きこまれた水晶が放つ光のような。

 澄み切って、でも話すときよりも少し低い、力強さも感じる歌声だ。

 初めて会った川の、その水みたいな、目の覚めるさわやかさとかすかな甘さ。

 それは、どこかもの寂しい笛の音色を支えて、その芯のある音の伸びに支えられて。

 笛と歌は風にとけ込んで町じゅうに広がっていく。

 人々がため息のような、声にならない声を漏らすのがわかった。

 皓夜は笛を吹きながら、じわじわと喜びを感じていた。

 笑ってしまいそうになる。

 ちゃんと結び合っていた。とけ合って、美しさを引き出しあって、ちゃんとひとつになっていた。初めてじゃないみたいだ。練習はしたけれど。でもそのときにはなかった高揚感があった。

 

 かささぎの声天高く響く朝

 五色の雲のたなびいて

 清き風吹く白砂の

 浦に寄せ来る波の綾

 歌い踊りてとこしえの

 とこしえの幸招き寄せ


 由良の歌声と、皓夜の笛の音色が町に響いている。

 何も邪魔するものはない。

 由良は歌いながら、無邪気な様子で笑っていた。笑みの形の口から発せられる声はもちろん明るくて、でもどこか厳かで、祝福の歌にぴったりだった。

 歌詞のない曲の終わりにも、由良は控えめに声を重ねてきた。

 なんだか、慣れ切ったとこしえが別の曲になった気がした。

 すごく、輝いている。

 夢を見るような心地で口元から笛を離すと、ずいぶん膨れあがった数の人々がどっと沸いた。

 由良と顔を見合わせる。

 黒蝶真珠のような瞳がきらきらして、少し潤んでいた。

 本当にうれしそうに、飾り気なく笑う。

 皓夜は咄嗟に目をそらした。

 あれ、感じが悪かったかな。

 そう気が付いてもう一度見ると、由良は気にした様子もなく周りを囲む人たちに笑顔を向けていた。

 どうして、今。

 「もう一回聞きたい!」

 「もう一回!」

 聞いていた子供たちが目を見開いて言ってくれる。

 「うれしいです」

 由良が言って、皓夜を見た。だいじょうぶ、ちゃんと目が合う。さっき目をそらしてしまったのは、たまたまなんとなくだ。

 「じゃあもう一度」

 皓夜は笛をかまえた。拍手が起こる。

 ひとりのときにもらっていたのより大きい拍手で、ちょっと面食らってしまうくらいだった。

 乞われるまま、皓夜は由良と何度もとこしえを演奏した。

 椀の中はいっぱいになったし、みんなおめでたいことでもあったような顔をしてくれた。

 皓夜はなんだかとても、満たされた。




***




 今日の収穫は、いつも小銭入れにしている袋にはおさまらなかった。入るぶんだけ入れて、残りは手拭いに包んで袖の中に入れた。

 「楽しかったですね!」

 由良がそう言ったのはもう三度目だ。

 「楽しかったです」

 皓夜は勝手に緩んでしまう頬をそのままにこたえた。この返しも三度目。

 ふたりとも頭の中が焼けたようになっているので、橋を渡ったあとはどこへともなくふらふらと歩いている。なんだかこのまま連波まで歩き続けられるのではないかとさえ思えてくる。

 よく考えると、集まった人は経験したことがないほどの数ではなかった。その二倍三倍くらいの人の前で演奏したこともあった。もっと大きな拍手をもらったこともあった。

 でも、誰かとあわせられたことがうれしかったのだ。すごくひさしぶり、二年ぶりだった。ふわふわと、雲の上を歩いているような心地がしている。

 「あなたの笛は本当にすてきですね」

 由良がしみじみと言う。それは由良の歌のおかげでもある。

 「あなたの歌は本当にすてきですね」

 やり返すと、由良は照れくさそうに口を結んだ。

 しばらく歩くと、由良が四度目をつぶやく。

 「楽しかったですね」

 「楽しかったです」

 皓夜は四度目の返事をした。

 由良が玉を転がすように笑う。あんまり満足そうだったから、つられて笑ってしまった。不意に由良が、皓夜をまっすぐ見上げて言った。

 「皓夜さんなら、羽衣座はごろもざに入れたんじゃないですか?」

 一瞬、周りの音が消える。

 皓夜は笑みを貼り付けたままうなずいた。

 「……よく言われます」

 そうでしょうと由良はなぜか誇らしそうにしていた。

 羽衣座は、臥竜列島でも有名な旅芸人の一座だった。各地を旅しながら芸を披露して、人々を魅了してきた。ひとめ見たいという人も、憧れる人も多かった。でも今は、もうない。美萩野みはぎのという国で、羽衣座の芸人たちは賊に襲われてしまったのだ。全員、無事ではいられなかった。

 羽衣座は、今はもう伝説のようになっている。

 羽衣座を名乗る一座は臥竜じゅうにいる。そのどれも、それぞれの羽衣座をまっとうしているが、「本物」ではないとすぐにわかる。誰も、あんなふうにはできない。あの四人のようには、ならない。

 そのとき、腰のあたりに何かがぶつかった。袖が引っ張られる。

 「すみません」

 咄嗟に謝る。ぶつかったのは少年だった。十歳にもなっていないくらいだろうか。よく日に焼けた肌と、見開かれた大きな目が皓夜の意識を妙にひきつけた。怖がっている、ような気がした。

 「ごめんなさい!」

 少年は甲高い声で叫ぶと、皓夜から離れてぱっと駆け出した。

 皓夜はほとんど無意識に手を伸ばし、その手首をとらえた。

 細かった。

 少年はぎょっとしたように肩を揺らし、身をよじる。

 「ごめんなさい……っ」

 喉をこするような声で言った。

 「皓夜さん?」

 由良が横から咎めるように言う。

 「だいじょうぶですか?」

 由良は皓夜が腕を掴んだままの少年に歩み寄る。少年は怯えるように顔を背けた。

 「離してください。怖がらせることはありません」

 由良が皓夜を見てきっぱりと言う。

 皓夜は首を振り、少年の手を見た。右手が懐の中にさし込まれている。

 そして、小銭を包んだ手拭いが入っていた皓夜の袖は、さっきよりずいぶん軽くなっていた。

 皓夜は少年を引っ張って道の端によけると、かがんで覗き込んだ。

 「なあ」

 少年は皓夜を見ない。

 掴んだ手首の先で、小さな手が震えている。

 「だいじょうぶか?」

 皓夜はたずねた。

 手荒に捕まえてしまったけれど、なるべくこれ以上怖がらせないようにそっと。

 由良は皓夜に何か思うところがあると察したのか、黙ってくれている。

 少年が、びくりと肩を震わせた。顔はそらしたままだけれど、苦しそうな表情が見えるようだった。紙に墨汁が一滴落ちたように、苦い気持ちがにじむ。

 「だいじょうぶじゃ、ないのか」

 皓夜は少年の手首を離して肩に手を置いた。細い肩は皓夜の手の中にすっかりおさまってしまった。

 「なん、で」

 少年がぽつりとつぶやく。泣きそうなのを必死にこらえているような声に胸が痛んだ。

 「ん?」

 両肩を包み込むと、少年はゆっくり、懐から右手を引き抜く。

 震えている手には、小銭を包んだ手拭いが握りしめられていた。

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