五 恥じらいと間合い
目を開けると、壁にあいた穴から朝日が、のぞき込むように差していた。よく寝たようだ。
起き上がって囲炉裏の向こうを見ると、
由良が身じろぎして、起き上がろうとするのがわかる。皓夜は顔を背けて立ち上がった。ひとが目覚める様子を観察するのは悪趣味である。そのまま外に出ようとすると、うしろから声をかけられた。
「おはようございます」
やはりひきつけられるような、心地よい声をしている。朝なのに寝ぼけてぼんやりした感じはなく、ずいぶんくっきりとしていた。皓夜が挨拶を返すと、由良は立ち上がり、窓に手をかけた。開けると、はっとするほどすずやかな風が吹き込んでくる。緑の香りが家の中に広がった。
「今日は
首を傾げている由良に、皓夜はうなずいた。
「もうすぐですからね。昼ごろにはたぶん町に着けますよ」
由良がぱっと目を輝かせる。
「そこで、いろいろ揃えましょうか」
皓夜が言うと、由良はきょとりと目を丸めた。
「着るものとか、いろいろ必要ですよね」
由良が、はっとしたように己の着ている常盤の小袖を見る。まだ汚れているし、着替えも持っておくのがいいだろう。由良は顔を上げて、弾んだ声で言った。
「ほかの国の町は、はじめてです!」
「そうなんですか?」
「……はい、
「そうですか」
皓夜はうなずいた。昨晩の、痛みに耐えるように丸まっていた背中を、なぜかちらりと思い出す。
「楽しみだなあ。あなたも古扇ははじめてなのでしょう?」
「そうですね、はじめてです」
ですよね、と微笑んだ由良が、突然言い出した。
「皓夜さん、何か切れるもの、お持ちですか」
「ああ、はい……」
皓夜は土間から板の間に上がって、行李の中から小刀を取り出した。
「少し貸していただけますか」
「いいですよ。何を切るんですか」
「ちょっと、髪を」
あっさりとした返事に、皓夜は静止した。べつに髪を切るのは勝手だ。己のものなので、随意にすればよい。でもいま、いきなり切ることはなかろうと思う。
由良の髪は腰まであって、でもたいていの女性がそうだ。それに
「やっぱり、売れないでしょうか? もっと手入れしておけばよかったです」
己の髪の束をつまんで眺めている。皓夜は上目遣いでしばらく宙を見つめた結果、ようやく理解した。由良は髪を売るつもりらしい。たぶん、何も持っていないからだ。着るものなどを揃えるときに、皓夜に買わせるのは悪いと思っているというか、はじめからそういう考えがないのかもしれない。
「髪とか売らなくていいですよ」
皓夜は言った。
「立て替えられますから」
由良が目をぱちくりさせる。
「え? いいえ、そんなのはいけません」
「あとで返してくれればそれでいいですよ」
「あとで……」
由良はつぶやき、目を伏せてしばらく何か考えているようだった。
「でも、本当に何もないのです。あなたにはいくらお礼をしても足りないくらいなのに、このたいしたことのない髪の毛しか持っていないので」
なめらかな黒髪の束が、由良の手から滑り落ちていった。
「とりあえず、小刀を貸していただけませんか」
そう言って近寄ってくる。皓夜は小刀を行李の中にしまい込んで言った。
「あなたは髪だけじゃなくて、すごくいいものを持っています」
それを見過ごしてほしくはない。はじめて会ったときからこちらはずっと思っていたから。皓夜は行李の蓋をしっかり閉めてから、由良を見た。由良が少し眉を寄せる。いい機会かもしれない。川岸で由良の歌を聞いたときから目の前にちらついていたことを、持ちかけてみることにする。
「お礼をしてくれると言うんなら、お願いしたいことがあるんですが」
「なんでしょうか」
由良は流れるような動作で皓夜の前に座った。
「わたしにできることでしたら、やらせていただきたいです」
凛と空気を震わす、楽器の調べのような声。とてもきれいなのだ。だから皓夜は言った。
「歌ってくれませんか」
由良のまわりだけ、時が止まる。皓夜は重ねて頼んだ。
「歌ってほしいんです。おれの笛と一緒に。川で歌ってたのをちょっと聞いたけど、すごくよかったから。おれもてきとうに吹いてるつもりはないので、あわせたらいい感じになるはずです」
音色を重ねればむなしさは、濃くなるだろうか。薄まるだろうか。
「歌は教えます。おれが吹いてるのはだいたい有名な曲ばかりだから、知ってるものもあると思うし」
由良は目を丸くして黙っている。皓夜はつい前のめりになっていた。
「いい音楽が聞こえたら、ひとがいっぱい集まります。そうしたら、いっぱい」
由良の口が動く。皓夜が言葉を切ると、玻璃のように澄んだ声が言った。
「いっぱい、稼げるのですか」
食いついてくれた。皓夜は低くこたえた。
「かなり稼げるかと」
由良が静かな光をたたえる瞳で皓夜を射抜くように見る。
「それなら、あなたに少しだけでもお礼ができるでしょうか」
皓夜も大まじめにうなずいた。
「はい、かなり」
「歌うことはすきです」
「やっぱり、そうですか」
「そんなことでいいのなら、やらせてください」
由良がきっぱりと言った。皓夜はこぶしを握った。
「やった」
由良が少しほっとしたように微笑んで言う。
「それで、髪も売れたら」
「いや髪は売らなくていいです」
皓夜はすかさず言った。すると由良は、怪訝そうに首を傾げて反論してくる。
「いいえ。このような髪はあってもなくても同じです。ですからたいした額にはならないでしょうけれど」
手を差し出し小刀を要求してくる。皓夜は首を振った。由良の、つやのあるぬばたまの黒は断ち切るのがもったいないと思う。それに、皓夜も由良にお願いをしているのだから、それに加えて髪まで売るほど気を遣ってもらう必要はない。
「己の一部を虫けらみたいに扱ってはだめです」
うまい言葉が見つからずにほとんど出まかせでそう言うと、由良は心外だという顔をした。
「なんですかそれは。虫だって生きているのですよ」
予想外の返事についふきだしてしまう。由良が眉をつり上げた。
「すみません」
皓夜は急いで謝った。由良は不服そうにしている。皓夜は少し考えた。由良の手助けをする代わりにお礼をしてもらう。きっとそれは言い訳みたいな、隠れ蓑みたいなものだ。きっと、うつくしいと思った音と、己の音を重ねてみたいのだ。それは、ちゃんと伝えなければならないことかもしれない。皓夜は由良をまっすぐ見た。
「あなたの声に惚れたので、一緒に歌ってくれたらそれだけでうれしいんです」
由良がぽかんと口を開ける。皓夜はかまわず続けた。
「気を遣わないでください、持ちつ持たれつです。おれはあなたと
髪の毛にこだわっているやつみたいだが、べつにそうではないということは伝わっただろうか。少し心配になって由良の顔をうかがう。由良はしばらくじっと黙っていた。けれどやがて、その表情がゆるんだ。にっこりと笑う。
「あなたに、そう言っていただけるのでしたら、おっしゃるとおりにします」
「……あ、えっと、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ」
微笑む由良を見ていると、急に顔が熱くなってきた。さっきの己の言葉を思い出したのだ。あなたの声に惚れたので。とか言った。
惚れた?
ちょっと思い切りすぎたかもしれない。照れとか相手との距離とか全部ほっぽりだすことがあるんだねきみはと、言われたことがある。そのとおりかもしれない。でも、いまさら我に返ってももう遅い。由良の声がきれいだから、歌ってくれたらうれしいのは本当だし。それに由良は、皓夜の言い方を気にしている様子はとくにないし。
「じゃあそういうことでよろしくお願いします」
皓夜は早口で言って、ぺこりとお辞儀をした。
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