四   茶碗と蓋の裏

 薄暗く色が抜けた空に、茜の雲がたなびいている。木々の葉も、日の光を透かしていた昼間よりも濃い色に見え、道を外れた茂みの奥は、暗くてよく見えなくなってきた。

 もうすぐ日が暮れる。

 こつこつ歩いてきたが、まだ古扇ふるおうぎには入っていない。

 そろそろ今夜寝るところを見つけたかった。集落はなさそうだが、空き家や何かの社や、洞穴くらいはあるはずだ。自分ひとりなら適当にそのあたりで転がるが、由良ゆらがいるのでそういうわけにもいかない。外で寝ることに抵抗はなさそうだったが、やっぱり簡単にでも、壁とか屋根があるところのほうがいいだろう。

 「あ、皓夜こうやさん」

 由良が突然声をあげた。

 「はい?」

 由良は道の先をゆびさしていた。

 「家がありますよ!」

 見ると、確かに建物があった。茅葺の屋根の小さな建物だ。いくつか並んでいる。

 「村でしょうか?」

 由良がうれしそうに言う。

 皓夜は黙って目を凝らした。村にしてはなんだか空気が寂しいし、ひとけがない。

 近づいていくにつれて、壁に絡みついた蔦や、家の周りの高い草が見えてくる。

 「村ではなさそうですね」

 由良があっさりと認めた。

 ふたりで、一軒の家の前に立つ。

 木戸は開け放されており、暖簾のように蜘蛛の巣が張っている。壁はところどころはがれたり穴があいたりしていた。中は薄暗い。

 「今日はここに泊まりますか?」

 由良が朗らかに言った。

 「お邪魔します!」

 皓夜の返事を待たずにそう言って、迷わず中に踏み込んでいく。

 皓夜はあとに続いた。

 空気が、ひっそりとしている。一歩家に入っただけなのに、周りから切り離されたような気がした。入ってすぐはかまどのある土間、一段上がって囲炉裏を備え付けた板の間がある。生活に必要なものは、何も残っていないようだった。

 「このあたりは、古扇の近くですよね」

 静かな家の中に、由良の美しい声がやけに響いた。

 皓夜は黙ってうなずいた。

 「ここに住んでいた人たち、古扇か、飛迎ひむかえのもう少し町のほうに引っ越したのだと思います」

 家の中をぐるりと見まわしながら由良は言った。

 「そうなんですか」

 「はい」

 由良は振り返って皓夜を見る。

 暗い中で、目がきらりと光る。

 「古扇との境界は、争いが多いので。お互いにちょっかいを出し合って、よく戦が起こっていたのです。だからみんな逃げ出してしまって。それでもまだ、ときどき戦場になる」

 宝玉が触れ合って鳴るような声で、由良は淡々と話した。

 古扇と飛迎が争っていたことを皓夜は知らなかったが、国同士の境でいさかいが起こることは珍しいことではない。

 「よく知っているんですね」

 皓夜が言うと、由良はころりと、屈託なく笑った。

 「道は知らないのですけれど」

 皓夜は思わずふきだしてしまい、由良ににらまれた。

 「今日はここに泊まりましょう」

 慌ててそう言ってごまかす。

 由良は笑顔になって、うなずいた。




***




 窓を開けて空気を入れ替えて、床を軽く拭いてから、囲炉裏をはさんで向かい合って座った。囲炉裏の灰の中を探ると、古い炭が残っていた。

 皓夜は、行李から火をつける道具一式を取り出した。火打ち石と火打ち金をぶつけると、高い音と一緒に火花が散った。小さな火花を火口で包んで息を吹きかける。由良が向かい側からじっと見ていた。火花が小さな火に育つ。生まれた炎を付け木に移すと、囲炉裏の中に置いた。

 「何か不思議な力のようですね」

 由良が零れ落ちるようにつぶやく。

 火をつけるのを見てその感想が出るほうがよっぽど不思議だった。でも言い方があんまり素直だったので、皓夜は微笑んだ。自然と頬が緩んでしまった。

 付け木がちらちらと燃えて黒く炭になっていく。皓夜はその上に古い炭を置いた。

 「時間はかかるかもしれないけど、これで火がつくと思います」

 皓夜が言うと、由良は小さな子供のように大きくうなずいた。なんだかあどけない様子だったので、皓夜はついたずねた。

 「腹減りましたか?」

 炭を見つめていた由良が顔をあげ、首を横に振る。恥ずかしそうに笑った。

 「だいじょうぶです。すみません、何かもの欲しそうに見えましたか?」

 「あ、すみません。そういうわけじゃないですよ」

 「よかった」

 「飯、粥でいいですか?」

 皓夜は行李の中に手を突っ込む。

 目をしばたいている由良の前で、引っ張り出したものを並べていく。

 鉄製の黒い鍋と、五徳と、米の入った袋と、竹の皮に包んだ味噌。

 鍋の蓋を開けると、木の椀と杓子と、匙と箸が入っている。

 「本当に何か不思議な力のようですね……」

 由良が感心したようにつぶやいた。

 「すごいでしょう」

 皓夜は由良の言葉をありがたく受け止めることにした。

 由良は灯がともるような笑みを浮かべる。

 「お粥、食べたいです」

 「火が大きくなったら作りますね」

 由良は柔らかい表情で囲炉裏を覗き込んでいる。

 外から、ふくろうの声が聞こえてきた。内側に閉じ込めようとしているように、こもらせるように、鳴いている。




***




 しばらく経つ頃には、すっかり暗くなった家の中を、囲炉裏の赤い光がささやかに照らしてくれていた。少し冷えてきた空気も、さりげなくあたためてくれる。

 皓夜は火にかけていた黒い鍋の蓋を開けた。ふわりと、湯気が立ち上る。同時に、どこか甘いような、優しい香りがただよう。

 鍋の中では、少し黄みを帯びてとろりとした粥が煮えている。米と水しか入れていないけれど、なんだかうまそうだった。杓子を手に取り中身を混ぜる。柔らかい手ごたえが心地よかった。いい感じだ。

 味噌を包んでいた竹皮をはがして、味噌のかたまりから適当な量をすくい取り、粥の中にとかし込む。鍋の中がきつね色になって、柔らかく香ばしい匂いがした。

 「いい匂い」

 向かい側から見つめていた由良が言う。

 皓夜は粥を椀によそって、匙と一緒に由良に渡した。

 由良が両手と首を細かく振る。

 「作ってくれたのだから、あなたから食べてください」

 神妙な表情がおかしかった。

 「いや、おれも食べるので」

 「でも、お椀がひとつしかないでしょう」

 皓夜は椀を差し出したまま、無言で鍋の蓋を裏返す。器にするには浅いので、よそうというよりのせるという感じになる。でもこれでじゅうぶんだ。

 「なんですかそれ、赤子のお椀ですか」

 由良が慌てたように言うので、また笑えた。

 「何度もおかわりするからいいんです」

 「では、わたしが蓋のほうで」

 「早く受け取って、腕が疲れる」

 「あっすみません」

 由良がやっと手を伸ばしてくれる。

 両手で椀を包み込む。

 受け取ってくれた。皓夜はなんとなく満足した。作ったものを人に食べさせるなら、ちゃんとした道具を使って食べてもらいたい。

 由良は少しためらってから、ぺこりと頭を下げた。

 「では、ありがたくいただきます」

 「どうぞ」

 皓夜は裏返した蓋に粥をのせて、箸を手に取った。

 「ああ、おいしい」

 由良が言った。心の内をそのまま見せるような言い方だ。

 「それはよかったです」

 皓夜はこたえた。

 「おいしい」

 由良は何度もそう言いながらいい食べっぷりを見せた。

 囲炉裏の中で揺らめく火が、勢いよく食べる姿を夕日の色に染めている。なんだかしあわせそうな光景で、心が和んだ。

 「おかわりしてくださいね」

 「はい、あなたも」

 由良は楽しそうに言った。そしていたずらを思いついた小さな子みたいに唇の端をつりあげる。皓夜に向かって手を伸ばしてきた。

 「かしてください、おかわりをよそいます」

 皓夜は首を振った。

 「いや、自分でやりますから」

 「かしてください」

 「だいじょうぶですよ」

 「早く渡してください、手が疲れます」

 「あっすみません」

 皓夜が蓋を渡すと、由良はそこに粥をのせてくれた。

 「ありがとうございます」

 恭しく受け取る。由良は、ふわりと笑った。



 夜半、囲炉裏をはさみ、皓夜に背中を向けて寝ている由良が自分の身体を抱きかかえているのを見た。かげろうのような熱い揺らぎの向こうで、由良の背中は小さく小さく丸められていた。

 内に閉じ込めるように、こもらせるように。何かを。

 癖なのかな、と思うことにして皓夜は寝返りを打ち、もう一度目を閉じた。


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