四 茶碗と蓋の裏
薄暗い菫色の空に、茜の雲がたなびいている。もうすぐ日が暮れるという時分だ。茅葺屋根の家がぽつぽつと並んでいる中を歩き、そのうちひとつの前に立ち止まった。木戸は開け放されており、暖簾のように蜘蛛の巣が張っている。壁はところどころはがれたり穴があいたりしていた。中は暗く、外からではよく見えない。
「ここですね?」
「そうですね」
「そうですよね、お邪魔します!」
由良はそのあたりの枝を拾い、大きな蜘蛛の巣を絡め取りながら中へ踏み込んでいった。皓夜はなんだか意外に思いながら、あとに続いた。空き巣ではない。空き家だ。
入ってすぐはかまどのある土間、一段上がって囲炉裏を備え付けた板の間がある。暮らしに必要なものは残っていないようだが、だいたい持っているので問題ない。
村のひとに泊めてもらえないかと頼むと、近くに空き家があるからそこで勝手にするようにとの返事があった。井戸があるので水を汲めと言って、釣瓶を貸してくれている。
「このあたりは、古扇の近くですよね」
静かな家の中に、由良のうつくしい声がやけに響いた。皓夜は黙ってうなずいた。
「ここに住んでいたひと、古扇か、飛迎のもう少し町のほうに引っ越したのだと思います」
家の中をぐるりと見回しながら由良は言った。
「そうなんですか」
「はい」
由良は振り返って皓夜を見る。暗い中で、その目がきらりと光る。
「古扇との境は、争いが多かったので。お互いにちょっかいを出し合って、よく戦が起こっていたのです。近頃は、落ち着いていましたけれど。でも、ほかのところへ行ってしまったひとも多いのです」
宝玉が触れ合って鳴るような声で、由良は淡々と話した。国同士の境でいさかいが起こることは、珍しくはない。田畑が刈られることもある。ここでも、あったのかもしれない。村のひとは、どこかよそよそしかった。
「よく知っているんですね」
皓夜が言うと、由良はころりと、屈託なく笑った。
「道は知らないのですけれど」
皓夜は思わずふきだしてしまい、由良に軽く睨まれる。
「水、汲んできますね」
皓夜はそう言ってごまかした。行李を板の間に置き、釣瓶を抱えて家を出た。
***
皓夜が水を汲んで戻ると、由良は空き家の中を整えてくれていた。寝食に支障がありそうな蜘蛛の巣が取り除かれており、窓が開いてすずしい空気が通り抜けている。
互いにお礼を言い、囲炉裏をはさんで向かい合って座った。囲炉裏の灰の中を探ると、古い炭が残っていた。
皓夜は、行李から火をつける道具一式を取り出した。火打ち石と火打ち金をぶつけると、高い音と一緒に火花が散った。小さな火花を火口で包んで息を吹きかける。由良が向かい側からじっと見ていた。火花が小さな火に育つ。生まれた炎を付け木に移すと、囲炉裏の中に置いた。
「何かふしぎな力のようですね」
由良がこぼれ落ちるようにつぶやく。火をつけるのを見てその感想が出るほうが、よっぽどふしぎだった。でも言い方があんまり素直だったので、皓夜は微笑んだ。自然と頬がゆるんでしまった。付け木がちらちらと燃えて黒く炭になっていく。皓夜はその上に古い炭を置いた。
「時間はかかるかもしれないけど、これで火がつくと思います」
皓夜が言うと、由良は小さな子供のように大きくうなずいた。なんだかあどけない様子だったので、皓夜はついたずねた。
「腹減りましたか?」
炭を見つめていた由良が顔を上げ、首を横に振る。恥ずかしそうに笑った。
「だいじょうぶです。すみません、何かもの欲しそうに見えましたか?」
「あ、すみません。そういうわけじゃないですよ」
「よかった」
「飯、粥でいいですか?」
皓夜は行李の中に手を突っ込んだ。目をしばたいている由良の前で、引っ張り出したものを並べていく。鉄製の黒い鍋と、五徳と、米の入った袋と、竹の皮に包んだ味噌。鍋の蓋を開けると、木の椀と杓子と、匙と箸が入っている。
「本当に、何かふしぎな力のようですね……」
由良が感心したようにつぶやいた。
「すごいでしょう」
皓夜は由良の言葉をありがたく受け止めることにした。由良は灯がともるような笑みを浮かべる。
「お粥、食べたいです」
「火が大きくなったら作りますね」
由良はやわらかい表情で囲炉裏をのぞき込んでいる。外から、ふくろうの声が聞こえてきた。内側に閉じ込めようとしているように、こもらせるように、鳴いている。
***
しばらく経つ頃には、外はすっかり暗くなっていた。けれど家の中は、囲炉裏の赤い光がささやかに照らしてくれている。少し冷えてきた空気も、さりげなくあたためられていた。
皓夜は火にかけていた黒い鍋の蓋を開けた。ふわりと、湯気が立ちのぼる。同時に、ほんのりとあまくて、やさしい香りが広がる。
鍋の中では、少し黄みを帯びてとろりとした粥が煮えていた。米と水しか入れていないが、なんだかうまそうだった。杓子を手に取り中身を混ぜる。やわらかな手ごたえが心地よかった。味噌を包んだ竹皮をはがして、かたまりからてきとうな量をすくい取り、粥の中にとかし込む。鍋の中が狐色になって、香ばしい匂いが漂ってきた。
「いい匂い」
向かい側から見つめていた由良が言う。皓夜は粥を椀によそって、匙と一緒に由良に渡した。由良が両手と首を細かく振る。
「作ってくれたのだから、あなたから召し上がってください」
由良は言った。神妙な表情がおかしかった。
「いや、おれも食べるので」
「でも、お椀がひとつしかないでしょう」
皓夜は椀を差し出したまま、無言で鍋の蓋を裏返す。器にするには浅いので、よそうというよりのせるという感じになる。でもこれでじゅうぶんだ。
「なんですかそれ、赤子のお椀ですか」
由良が慌てたように言うので、また笑えた。
「何度もおかわりするからいいんです」
「では、わたしが蓋のほうで」
「早く受け取って、腕が疲れる」
「えっ、すみません」
由良がやっと手を伸ばして、両手で椀を包み込んだ。受け取ってくれた。皓夜はなんとなく満足した。作ったものをひとに食べさせるなら、ちゃんとした道具を使ってもらいたい。由良は少しためらう様子を見せたが、ぺこりと頭を下げた。
「では、ありがたくいただきます」
「どうぞ」
皓夜は裏返した蓋に粥をのせて、箸を手に取った。由良は匙で椀の中をそっとかき混ぜてから、すくって口に運んだ。
「ああ、おいしい」
由良が笑みをこぼしながら言う。心の内をそのまま見せるような言い方だ。
「それはよかったです」
皓夜がこたえると、由良はこくりとうなずいた。
「おいしい」
粥を口に運ぶ合間に、由良は何度もそう言う。囲炉裏の中で揺らめく火が、その姿を夕焼けの色に染めている。なんだか心がなごんで、皓夜は声をかけた。
「おかわりしてくださいね」
「はい、あなたも」
由良は楽しそうに言った。そしていたずらを思いついた小さな子みたいに、唇の端をつり上げる。皓夜に向かって手を伸ばしてきた。
「貸してください、おかわりをよそいます」
皓夜は首を振った。
「いや、童ではないので」
「知っています。貸してください」
「だいじょうぶですよ」
「早く渡してください、手が疲れます」
「えっ、すみません」
皓夜が蓋を渡すと、由良はそこに粥をのせてくれた。
「ありがとうございます」
恭しく受け取ると、由良は、ふわりと笑った。
夜半、囲炉裏をはさみ、皓夜に背中を向けて寝ている由良が、己の身体を抱きかかえているのを見た。かげろうのような熱い揺らぎの向こうで、由良の背中は小さく丸められていた。内に閉じ込めるように、こもらせるように。何かを。癖なのかな、と思うことにして皓夜は寝返りを打ち、もう一度目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます