三 獣と腹の虫
逸れていた道に戻って、ふたりで歩き始めた。よく晴れて、空はぬけるような青だ。薄衣のような雲が、その色をやわらかく透かしていた。
できるだけ早く
「古扇の上に
山道を並んで歩く由良が、宙を指差しながら考え込んでいる。
「上というか、北ですね」
「そうか。いまからとにかく北に行けばいいのですね」
由良が力強く言うので、皓夜はうなずいた。
「そういうことになりますね」
「今日じゅうに古扇に入れますか? 歩くとどれくらいかかるのか、わからなくて」
由良が自信なさそうな声を出した。
「そうですね……それは無理かもしれない」
古扇までは、まだ少し距離がある。今日は飛迎のどこかで夜を過ごすことになりそうだ。
「そうですか、では今日は、どこか、野ざらし?」
由良がなんだか楽しそうな声を出す。皓夜は笑ってしまった。野ざらしとは、野宿よりも豪快だ。けれど古扇と飛迎の境は農村で、宿場町は少し遠い。野ざらしにはならなくても、それに近い状態にはなるかもしれない。皓夜はこたえた。
「野ざらしでもいいですけど、何かしらの建物はあると思います。泊めてもらえるかもしれませんし」
由良は、そうですねと言って微笑んだ。そのまま足元に目をやる。由良の草鞋は泥を落としたが、まだ薄汚れていた。でも擦り切れてはおらず、新しいもののように見える。小袖の泥は、乾いているところは払うととれたが、まだ少し残っていた。
皓夜は口をひらきかけて、やめた。どうして由良が行き方もわからない連波に行きたいのか、聞こうとしたのだ。一緒に旅をするなら聞いておくべきではないかと思う。でも、皓夜が由良の立場ならきっと、最初にその場所を目指すわけを話す。そうしないということは、理由には触れられたくないのかもしれない。それともただ、話すのを忘れているだけなのだろうか。会って少ししか経っていないが、由良はなんだかすっとぼけている感じがするので。
でもやはり、いま聞くのはよしておく。もう少し経ってからがいいかもしれないし、いずれわかってくるかもしれない。
ぼんやりと、そんなことを考えていたときだった。何かが、低く唸った。皓夜は身体をかたくした。何か、いる。獣か。すぐに力を抜いて、あたりを見回す。由良をかばおうと手を伸ばしたとき、その様子がおかしいことに気づく。由良は深く頭を垂れ、腹を押さえていた。
「すみません……」
由良は消え入りそうな声で言う。
「ごめんなさい……」
「喋らないで」
皓夜は由良に命じた。正体の不明な何かしらを、刺激してはまずい。しかし由良は、首を横に振って顔を上げた。皓夜は言葉を失った。由良は、顔を真っ赤にしていたのだ。いったいどうしたというのか。
「すみません」
由良はとても小さな声で言った。
「おなかが、鳴ったのです……」
その言葉を飲み込むのに、ひどく長い時間がかかった。
***
「おいしい……」
感嘆の声を漏らした由良は大きく口を開けて、手の中の握り飯にもう一度かぶりつく。目が輝いている。握り飯は、昨夜泊まった家のひとに持たせてもらったものだった。由良が獣の唸り声のように腹の虫を鳴かせたので、いまは木の下で休憩をしていた。皓夜も握り飯をひとくち食べた。ふっくら握られていて、塩気がちょうどいい。
「あなたは、笛の旅を始めて長いのですか?」
夢中になって握り飯をほおばっていると思ったら、由良は急に澄んだ声で問うてきた。つやを帯びて光る目が皓夜を見ている。
「ああ、そうですね……、三年になります」
皓夜が何気なくこたえると、由良が目を見張った。
「いままではどちらへいらしたのですか?」
聞かれて、皓夜は少し上を見た。指を折って数える。
「
振り返ると、いろいろなところに行った。たずねる先々で笛を吹いた。たくさんのひとと会って、別れてを繰り返した。そしていまから、古扇を目指す。
「そうなのですね。それではあなたは……」
質問が続くのかと思って顔を向けると、由良は口ごもり、にこりと笑った。
「……旅の達人ですね。あなたについていけば安心です」
疑いのひとかけらもなさそうな素直な言い方だった。皓夜は、なんと言えばよいかと迷った。こんな感じだから、荷物を盗まれるのではないだろうか。
「もう少しひとを警戒したほうがいいんじゃないですか」
結局思ったことをはっきり言うと、由良は目を丸めた。
「警戒ならしていますよ。ついていってもだいじょうぶなかたと、そうでないかたの区別くらいはつきます」
なんだか誇らしげに由良は言った。はなはだ疑わしいことである。
「はあ、そうですか」
返事が気のないものになる。信じていないなこいつは、というふうに目を細めて、由良は言った。
「あなたこそ、わたしのような者を簡単に信用してよいのですか。本当は、ひとではないとかかもしれませんよ?」
由良はなんだかいたずらっぽい笑みを浮かべている。皓夜は急に恥ずかしくなった。
「すみません」
「はい?」
由良の声が軽く裏返る。覚えもなく見下していた気がした。
「おれももう少し、ひとを警戒したほうがいいかもしれませんね」
「あ、はい……? そうかもしれませんね……?」
由良は戸惑ったように、あちこちに視線を向けながら言った。でもすぐに、ふたたび元気よく握り飯を食べ始める。
「これは本当においしいですね!」
雲を吹き飛ばすような明るい声で言う。皓夜はつられて頬をゆるむのを感じながら、そうですねとこたえた。
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