三   獣と腹の虫

 逸れていた道に戻って、ふたりで歩き始めた。よく晴れて、空はぬけるような青だ。薄衣のような雲が、その色をやわらかく透かしていた。

 できるだけ早く連波つらなみに着きたいのだと由良ゆらが言うので、まず古扇ふるおうぎへ向かうことにした。古扇は、飛迎ひむかえ明砂あけすなのどちらとも境を接している国だ。いまはちょうど三つの国の境目あたりにいるから、古扇も近い。

「古扇の上に美萩野みはぎのがありますよね、そしてその上が連波」

 山道を並んで歩く由良が、宙を指差しながら考え込んでいる。

「上というか、北ですね」

 皓夜こうやはさりげない口調で訂正した。上というのは、北を上にした地図で見たときの話だろう。このぶんだと、本当に連波までの行き方がわかっていないようだ。

「そうか。いまからとにかく北に行けばいいのですね」

 由良が力強く言うので、皓夜はうなずいた。

「そういうことになりますね」

 桜雲おううんも飛迎の北にあるので、連波に行くには桜雲を通ってもいい。でも、わざわざ戦が起こった国境のあたりに突っ込むことはないだろう。だから古扇を通ることにした。

「今日じゅうに古扇に入れますか? 歩くとどれくらいかかるのか、わからなくて」

 由良が自信なさそうな声を出した。

「そうですね……それは無理かもしれない」

 古扇までは、まだ少し距離がある。今日は飛迎のどこかで夜を過ごすことになりそうだ。

「そうですか、では今日は、どこか、野ざらし?」

 由良がなんだか楽しそうな声を出す。皓夜は笑ってしまった。野ざらしとは、野宿よりも豪快だ。けれど古扇と飛迎の境は農村で、宿場町は少し遠い。野ざらしにはならなくても、それに近い状態にはなるかもしれない。皓夜はこたえた。

「野ざらしでもいいですけど、何かしらの建物はあると思います。泊めてもらえるかもしれませんし」

 由良は、そうですねと言って微笑んだ。そのまま足元に目をやる。由良の草鞋は泥を落としたが、まだ薄汚れていた。でも擦り切れてはおらず、新しいもののように見える。小袖の泥は、乾いているところは払うととれたが、まだ少し残っていた。

 皓夜は口をひらきかけて、やめた。どうして由良が行き方もわからない連波に行きたいのか、聞こうとしたのだ。一緒に旅をするなら聞いておくべきではないかと思う。でも、皓夜が由良の立場ならきっと、最初にその場所を目指すわけを話す。そうしないということは、理由には触れられたくないのかもしれない。それともただ、話すのを忘れているだけなのだろうか。会って少ししか経っていないが、由良はなんだかすっとぼけている感じがするので。

 でもやはり、いま聞くのはよしておく。もう少し経ってからがいいかもしれないし、いずれわかってくるかもしれない。

 ぼんやりと、そんなことを考えていたときだった。何かが、低く唸った。皓夜は身体をかたくした。何か、いる。獣か。すぐに力を抜いて、あたりを見回す。由良をかばおうと手を伸ばしたとき、その様子がおかしいことに気づく。由良は深く頭を垂れ、腹を押さえていた。

「すみません……」

 由良は消え入りそうな声で言う。

「ごめんなさい……」

「喋らないで」

 皓夜は由良に命じた。正体の不明な何かしらを、刺激してはまずい。しかし由良は、首を横に振って顔を上げた。皓夜は言葉を失った。由良は、顔を真っ赤にしていたのだ。いったいどうしたというのか。

「すみません」

 由良はとても小さな声で言った。

「おなかが、鳴ったのです……」

 その言葉を飲み込むのに、ひどく長い時間がかかった。




***




「おいしい……」

 感嘆の声を漏らした由良は大きく口を開けて、手の中の握り飯にもう一度かぶりつく。目が輝いている。握り飯は、昨夜泊まった家のひとに持たせてもらったものだった。由良が獣の唸り声のように腹の虫を鳴かせたので、いまは木の下で休憩をしていた。皓夜も握り飯をひとくち食べた。ふっくら握られていて、塩気がちょうどいい。

「あなたは、笛の旅を始めて長いのですか?」

 夢中になって握り飯をほおばっていると思ったら、由良は急に澄んだ声で問うてきた。つやを帯びて光る目が皓夜を見ている。

「ああ、そうですね……、三年になります」

 皓夜が何気なくこたえると、由良が目を見張った。

「いままではどちらへいらしたのですか?」

 聞かれて、皓夜は少し上を見た。指を折って数える。

出穂いずほから、美萩野みはぎのに行って、桜雲おううんに行って、船に乗って明砂に行って、それで飛迎に来ました」

 振り返ると、いろいろなところに行った。たずねる先々で笛を吹いた。たくさんのひとと会って、別れてを繰り返した。そしていまから、古扇を目指す。

「そうなのですね。それではあなたは……」

 質問が続くのかと思って顔を向けると、由良は口ごもり、にこりと笑った。

「……旅の達人ですね。あなたについていけば安心です」

 疑いのひとかけらもなさそうな素直な言い方だった。皓夜は、なんと言えばよいかと迷った。こんな感じだから、荷物を盗まれるのではないだろうか。

「もう少しひとを警戒したほうがいいんじゃないですか」

 結局思ったことをはっきり言うと、由良は目を丸めた。

「警戒ならしていますよ。ついていってもだいじょうぶなかたと、そうでないかたの区別くらいはつきます」

 なんだか誇らしげに由良は言った。はなはだ疑わしいことである。

「はあ、そうですか」

 返事が気のないものになる。信じていないなこいつは、というふうに目を細めて、由良は言った。

「あなたこそ、わたしのような者を簡単に信用してよいのですか。本当は、ひとではないとかかもしれませんよ?」

 由良はなんだかいたずらっぽい笑みを浮かべている。皓夜は急に恥ずかしくなった。

「すみません」

「はい?」

 由良の声が軽く裏返る。覚えもなく見下していた気がした。

「おれももう少し、ひとを警戒したほうがいいかもしれませんね」

「あ、はい……? そうかもしれませんね……?」

 由良は戸惑ったように、あちこちに視線を向けながら言った。でもすぐに、ふたたび元気よく握り飯を食べ始める。

「これは本当においしいですね!」

雲を吹き飛ばすような明るい声で言う。皓夜はつられて頬をゆるむのを感じながら、そうですねとこたえた。

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