三 獣と腹の虫
できるだけ早く
「古扇の上には
山道を並んで歩く由良が、宙をゆびさしながら考え込んでいる。
その手には、皓夜が渡した水でいっぱいの瓢箪がある。
「上というか、北ですね」
皓夜はさりげない口調で訂正した。上というのは北を上にした地図で見たときの話だろう。このぶんだと、確かに連波までの行き方が本当にわかっていないようだ。
「そうか。今からとにかく北に行けばいいのですね」
由良が力強く言うので、皓夜はうなずいた。
「そういうことになりますね」
「今日じゅうに古扇に入れますか? 歩くとどれくらいかかるのか、わからなくて」
由良が自信なさそうな声を出した。
「そうですね……それは無理かもしれない」
皓夜ひとりでさっさと歩けば日が暮れる前に古扇に着けるはずだ。でも、由良と一緒に歩いていると難しいかもしれない。由良は、決して歩くのが遅くはなかった。軽やかな早足のほうだと思う。ただ、皓夜はいつもすごい勢いで歩いているので、それよりはゆっくりになる。今日は飛迎のどこかで夜を過ごすことになりそうだ。
「野宿、したことありますか?」
皓夜は聞いた。由良がびくりと肩を揺らす。
反応が面白くて覗き込むと、由良はふいと顔をそらしてしまった。
「……あ、えっと、あります!」
由良がさえずるようにこたえた。
「あるんですか」
「はい」
由良は笑みを浮かべたまま目を伏せる。由良の草鞋は泥を落としたけれど、まだ薄汚れていた。でも擦り切れてはいなくて、新しいもののように見えた。
「あなたは?」
眩しそうな顔で見上げてくる。皓夜は肩をすくめた。
「あります。でもひさしぶりです」
旅を始めて長いけれど、ずっと久喜の町にいて宿の部屋を借りていたからだ。
由良が察したようににやりと笑う。
「ひさしぶりということは、今日は外で寝るのですね」
「正解です」
皓夜もにっと笑って見せた。
飛迎と古扇の国境近くは田舎で、宿などはないだろう。野宿である。泊めてもらえる民家があればいいが、あまり期待しないほうがいい。
「そうですね。集落があるとも限りませんし」
由良がこともなげに言った。
道はわからないけれど、ずいぶんたくましい人らしい。
皓夜は口を開きかけて、やめた。
どうして由良が行き方もわからない連波に行きたいのか、聞こうとしたのだ。一緒に旅をするなら聞いておくべきではないかと思う。でも、皓夜が由良の立場ならきっと、最初にその場所を目指すわけを話すと思う。そうしないということは、理由には触れられたくないのかもしれない。それともただ、話すのを忘れているだけなのだろうか。会って少ししか経っていないけれど、由良はなんだかすっとぼけている感じがするので。
でもやはり、今聞くのはやめた。もう少し経ってからがいいかもしれないし、いずれわかってくるかもしれない。
「何か、空き家とかがあればいいですね」
代わりに、皓夜はそう言った。由良がこくりとうなずく。
そのときだ。
低くうなるような、音がした。
皓夜は身体をかたくした。何かいる。獣か。
すぐに力を抜いて、あたりを見回す。
由良をかばおうと手を伸ばしたとき、その様子がおかしいことに気づく。
由良は深く頭を垂れ、腹を押さえていた。
「すみません……」
由良は消え入りそうな声で言う。
「ごめんなさい」
「喋らないで」
人差し指を立てる。
由良が顔をあげる。
皓夜は言葉を失った。由良は顔を真っ赤にしていた。
いったいどうしたというのか。
「すみません」
由良はとても小さな声で言った。
「おなかが、鳴ったのです……」
その言葉の意味を飲み込むのに、ひどく長い時間がかかった。
***
「おいしい……」
由良の目が虹色に輝く。
感嘆の声を漏らした由良は大きく口を開けて、手の中の握り飯にもう一度かぶりつく。
今朝、泊まった家で持たせてもらったものだ。
由良が獣のうなり声のように腹の虫を鳴かせるので、今は木の下で休憩をしている。
皓夜も握り飯をひとくち食べた。
ふっくら握られていて、塩気がちょうどいい。
「あなたは、旅をして長いのですか?」
夢中になって握り飯をほおばっていると思ったら、由良の澄んだ声に突然問われた。
「ああ、そうですね……三年になります」
皓夜が何気なくこたえると、由良が目を見張る。
「今まではどこへ行ったのですか?」
聞かれて、皓夜は少し上を見上げた。指を折って数える。
「
振り返ると、いろいろなところに行った。たずねる先々で笛を吹いた。たくさんの 人と会って、別れてを繰り返した。そして今から、古扇を目指す。
「そうなのですね。それではあなたは……」
質問が続くのかと思って顔を向けると、由良は口ごもり、にこりと笑った。
「……旅の達人ですね。あなたについていけば安心です」
疑いのひとかけらもなさそうな素直な言い方に、皓夜はなんと言ってやればいいかと迷った。こんな感じだから、荷物を盗まれるのではないだろうか。
「もう少し人を警戒したほうがいいんじゃないですか」
結局思ったことをはっきり言うと、由良は目を丸めた。
「警戒ならしていますよ。ついていってもだいじょうぶな方とそうでない方の区別くらいはつきます」
なんだか誇らしげに由良は言った。
はなはだ疑わしいことである。
「はあ、そうですか」
返事が気のないものになる。信じていないなこいつは、というふうに目を細めた由良が、前に向き直った。
食べかけた握り飯に目を落として、ふっと笑みを浮かべる。
かと思えば由良は再び、元気よく握り飯を食べ始めた。
「本当においしいですね!」
由良が雲を吹き飛ばすような明るい声で言った。皓夜はそうですねとこたえた。
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