二 せせらぎと少女
戦場となったのは、
荷物を入れた行李を背負い、筒袖に袴の裾を括って手甲と脚絆をした旅の装いで、皓夜はどんどん歩いていく。
この二日は近くの村の人に泊めてもらって過ごした。お礼を渡して、笛も吹いたら喜ばれた。笛は暮らしていくための道具ではあるけれど、吹いたら金をとるという決まりがあるわけでもないので、そのあたりはゆるくやっている。生きていければそれでよろしいのである。
腰からさげた笛の袋を軽くたたく。
きっと今日のうちには、宿があって人が集まる町にたどり着くだろう。
念のため、戦火に焼かれた都のほうには行かずに、周辺の町でいようと思っている。
落ち着いた深緑の、木の葉の間から漏れてくる日差しが心地よい。
追いかけてくる風も涼やかで、よい季節だ。そのうち肌寒くなって、冬が来るのだけれど。
ふとどこからか、何か音が聞こえる気がして、皓夜は立ち止まった。耳を澄ませる。それは水音だった。さらさらと水が流れる、清らかな音だ。ささやくような川の音。少し道を外れたところにあるのかもしれない。急に喉が渇いてくる。皓夜は道を外れて茂みの中に入った。少し湿った黒い土が、足を柔らかく受け止める。
どこか香ばしいような、深い香りがした。木々の間を歩いていく。水音はだんだん近づいてきて、川が見えた。
透明な水が苔むした岩のあいだを通り、撫でて落ちてしぶきを上げている。
滞ることなく流れていく様子は流麗だ。ひやりとした空気を放つその川はどこか神々しくも感じられた。
足元が岩になってくる。皓夜は滑って転んで頭を打たないように、ゆっくり歩いて川に近づいていった。
ふと足を止める。
水音のあいだに、別の音が聞こえた。
皓夜はつむじ風にまかれたような気がした。
それは女の人の歌声だった。
小さく口ずさんでいる。
美しい、声だった。
この川のような、清水が流れるような声だった。
町で歌えばきっと、たくさんの人が足を止めて聞き入るだろうと、思う。
向こう岸を見ると、そこに声の主がいた。
皓夜と同じくらいの年頃の少女だ。少女は岸に座り込み、川の水に両手をさらしていた。常盤色の小袖を着ているので、景色の中に溶け込んでいる。長い髪はひとつにきりりと束ねられ、足には草鞋を履いていた。でもよく見ると、草鞋も足も、小袖も黒く汚れている。軽装で、旅人には見えない。近所の人だろうか。
少女は歌うのをやめると、川につけていた手で水をすくい、口元に持っていく。
指の間から、澄み切った光が零れていく。川の流れの中に降り注いで少女の前を通り過ぎてしまう。
水の一滴も、彼女を潤していないのではないかというふうに、見えた。
実際はきっと、そんなことはないのだろうけれど。
少女が静かに顔をあげる。
目が合う。
そこで初めて、皓夜は自分が少女をずっと眺めていたことに気づいた。
少女は驚きも恐れも見せず、皓夜をまっすぐに見た。
川をはさんで、お互いを見つめる。
それは一瞬のようにも、長い長い時間のようにも感じられた。
やがて、少女が頭を下げる。
皓夜は我に返った。
同じように軽くお辞儀をする。
少女は再び目を伏せると、手にすくった水を飲む。
皓夜も、腰にさげていた瓢箪の水を新しくすることにした。瓢箪ごと手を水につけると、きりっと冷たかった。身体の中に清涼な風が吹き込んで、目が覚めるみたいな気がする。
飲んでみる。
水は少し甘くて、さらりと喉を通った。身体のすみずみまで、迷いなく染みとおっていくようだった。
「うまい」
思わずつぶやくと、少女が皓夜を見る。
皓夜は口を押さえた。少女が微笑んで言った。
「本当に、おいしいですね」
歌声よりも少し高くて、柔らかな声だった。いい声ですねと言いそうになり、すんでのところで飲み込む。いきなりそれは気持ちが悪いだろう。
「……おいしいですね」
皓夜は笑い返して、もうひとくち飲んだ。
瓢箪に栓をして、少女に声をかける。
「おれは旅をしてるんですけど、あなたはこのあたりの人ですか?」
別に聞かなくたってよかったけれど、なんとなく気になってしまった。正直なところ、また声が聞きたいという気持ちも少し、あった。
すると少女は息を詰めたように動かなくなった。目が皓夜を見ているようで見ていないような、不安定な色になる。少しの間のあと、少女はこたえた。
「……いいえ、わたしも旅をしているのです」
皓夜は意外に思って目を見張った。それにしては何も荷物を持っていないし、周りに人の気配はない。皓夜も人のことを言えないかもしれないが、ひとり旅は危ないんじゃないだろうか。
少女は皓夜の驚きに気づいたようで、恥ずかしそうに肩をすくめる。
「えっと、いろいろありまして……」
「荷物、盗まれたんですか?」
皓夜はたずねた。何も持っていないということは、そうかもしれないと思ったのだ。
盗人に襲われでもしたのだろうか。少女は黙っている。皓夜はそれを肯定ととった。小さく顔をしかめる。
そういう者は、ときどきいるのだ。
「何か困っているもの、ありますか? 分けられますよ」
皓夜は背中から行李をおろして岩の上に置いた。
荷物は重いと大変だからあまりたくさんは持たないけれど、手ぶらはさすがに不便だろう。ましてここはすぐにものが買える町ではなく、山の中だ。
皓夜は行李の中を探った。
「瓢箪、いりそうですね。あとろうそくと燭台? 財布は持ってますか?」
少女を見ると、目を丸く見開いて皓夜の顔を眺めていた。
そして、にこりと笑う。
「ありがとうございます。とても優しい方ですね」
あんまりまっすぐな言い方をされて、言葉が出なくなってしまう。皓夜は軽く頭を下げた。
少女は、しあわせそうにも見える様子で微笑んでいる。でも、欲しいものも、財布についても何も言わなかった。
たぶんこの人、かなりまずい状況だ。川岸で歌でも歌って、にこにこしていないとやってられないくらいには。そんな予感がした。でも、遠慮しているようだ。こちらから踏み込む必要があるかもしれない。
「……お互いさまですよ、たぶんこういうときは」
皓夜は言った。
旅をしていたら、いろいろと問題が起きるものだ。皓夜も今までたくさんの人に助けられてきた。
「お互いさまなので、はっきり言いましょう」
少女がかすかに眉を寄せる。
「財布も、盗られましたね」
皓夜は少女を見据えて決めつけた。
少女はぽかんとした様子で見つめ返してくる。
「あなた、ひとりで金もないんですね」
皓夜がさらに言うと、少女は一瞬目を泳がせたあと、からりと笑った。
「はい、そうなのです」
***
皓夜は岩の上を歩いて少女のいるほうの岸にわたり、事情を聞くことにした。倒れた木の幹に並んで座ると、少女は開き直ったのかためらうのをやめて話してくれた。彼女が紡ぐ音は美しくて、歌みたいに聞き惚れた。聞き惚れるような内容ではなかったから、ちょっと申し訳なかったけれど。
彼女は皓夜が二日前に出てきた久喜の出身で、旅をしていたが途中で荷物を盗まれ、挙句道に迷ったらしい。今は喉が渇いたので、せせらぎを頼りに歩いて、川にたどり着いたのだと言った。皓夜はひとり旅の仲間として、その境遇に深く同情した。
自分に目的地はないのだと少女に話してから、もし財布まで盗られて道に迷ったらどうしようと考えていた。
わりとまじめに恐れていると、いきなり少女があの、と大声を出した。
慌てて少女のほうを見る。少女は何やら緊張した面持ちで皓夜をじっと見ていた。
「あの、図々しいとはわかっているのですが、お願いがございます」
やけに丁寧に少女は言う。
「はい、なんでしょうか」
皓夜はつられて重々しい返事をした。少女は皓夜の顔が痛くなるほどの真剣なまなざしを向けてくる。
「わたしは、どうしても、
「んん?」
皓夜はついおかしな声を上げた。連波は
でもなんだろう。そこにどうしても行かなければならなくて旅に出たのに、行き方がわからないと言ったのかこの人。
少女は地獄の沙汰でも待っているような顔で続ける。
「どちらに行けばいいかもわからないし、旅というものは初めてなのです。だからあなたが、行くべき場所がないとおっしゃるなら、わたしと」
言葉を切り、この世の終わりのような様子の少女がなんだか気の毒になる。全部盗まれて道に迷ったという状況ではなく、皓夜に頼みごとをしていることのほうが心苦しそうなので、なんだか申し訳ない気もする。
旅が初めてで、文字通り右も左もわからなさそうな様子なのにどうしてひとりなのかとか、通りすがりの旅人を信頼しすぎではないかとかいろいろと気になることはあるが、少女の言いたいことはわかった。
皓夜の旅は、もともと目的地のないものだ。どこに行ったとしても、先に進むことにもあと戻りすることにもならない。
「……わたしと連波まで来ていただけませんか……」
やっと続きを口にした少女は、もう涙目だった。
皓夜は言わせてしまって悪かったと思いながら、うなずいた。
「いいですよ」
少女がこの世ならざるものを見たようにぎょっと目を見開いた。
ついふきだしてしまう。
「え……いいのですか?」
少女がおっかなびっくりという様子で聞いてくる。
皓夜は笑って繰り返した。
「いいですよ」
少女の身体から力が抜けていくのが見ていてよくわかった。
「いいのですか……」
「いいですよ」
「本当にいいのですか……」
「いいですよ」
「本当に……?」
「はい」
何度か同じ問答を繰り返し、少女はようやく皓夜の返事を飲み込んだようだった。
「ありがとうございます……」
深く頭を下げられて、居心地が悪くなる。特に何かしてあげるという意識はない。本当についでのようなものだ。
頭のうしろをいじっていて、ふと気づいた。お礼を繰り返している少女に大声で言う。
「そういえば、まだ名前を聞いていませんでした」
少女がはっとしたように顔をあげる。
皓夜は少女のほうに身体ごと向けて、目を見る。
まともに近くで自分から見つめると、よくわかった。
少女の瞳は黒蝶真珠のようだった。
つやを帯びてきらめく、少し緑がかった黒色。
素直な、まっすぐな人の目だなと思った。
「おれは皓夜です。笛を吹いて旅をしてます」
名乗ると、少女は目を輝かせた。
「笛を吹いていらっしゃるのですね。いろいろなところでたくさんの人に聞かせているのでしょう、今まではどんなところに」
話が飛びそうだったので、皓夜は少女の前に手を突き出して制した。
「おれのことはあとで話すので、まずはあなたの名前を知りたいです」
少女は神妙な顔で口を閉ざすと、黒蝶真珠をひたりと皓夜の目に向けた。
「すみません。わたしは、
よろしくお願いします、と由良は頭を下げた。
こちらこそ、と皓夜も礼をした。
「本当に、助かります」
由良はかみしめるように微笑んだ。
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