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 平滑な墓石の表面を柄杓で掬った、冷たい真水が撫でるように伝っていく。佐柳は濡れて、艶を放つ鼠色の墓石の肌を純白のタオルで懸命に拭い続けた。


 秒数が過ぎていく痛みを忘れ、無我夢中で掃除をしていた事に気が付く頃には空が紅く焼け、溢れんばかりの朝の前兆をその場から遠望することが出来た。


 掃除を終えた佐柳は椹の桶を片手にるりに話しかける。


 「──俺は怖がっているわけでも、考えることを放棄したわけでもないから。だからこれからも安らかに俺のことを見守っていてほしい。そして俺の行く先を信じてほしい」


 普通の事を話しているつもりだった。


 後ろ髪を引かれる思いだったが佐柳は石畳の道を辿る。


 果たさなければならない責務が安息の地へ着こうとする佐柳の心身を強引に動かすのだった。


 柄杓と桶を元の場所へ返却し、佐柳は車に立ち戻る。ハンドルの前に着席して、右ポケットに押し込んだ端末を取り出し、起動した。


 そこには名前、住所、活動的な時間帯などの基本的な情報から家族構成、友人関係、恋人などのコアな情報まで記載されていた。


 名前 翅田蜂生 (はねだ ほうせい)

 性別 男性 年齢 32歳


 翅田は三年前までモデル、歌手として活動していた。だが、事務所との契約の不履行により、半ば放り出される形で芸能界を去っている。


 恋人ともその頃に破局しており、現在は異母兄妹である、13歳の翅田せりが翅田蜂生と共に生活している。


 翅田蜂生を尋問や拷問をした後、殺害せよ。


 佐柳は最後の一文を確認し、ターゲットについての情報を整理した。


 そして一度、自宅へ向かうべく車を走らせようとする。


 黒革のギアに手を掛け、アクセルに足を乗せる。低く重厚感のあるエンジン音が響いた直後、砂利をパラパラと巻き上げ、微量の排気ガスを残し、その場から走り去った。


 流れる景色を尻目に今後の行動計画を立てながら、ハンドルを握り続けていると、青空を遮る高層ビルの群れが目についた。


 天に向かって屹立しているそれらは街を覆う様にして取り囲んでいた。


 その内部を光を失くした眼球たちが足音を響かせながら往来している。


 佐柳はそんな光景を前に命の価値という手垢のつきまくった哲学を脳内に浮かべ、辟易とした。


 信号の色が赤から青に変わった瞬間、車を前進させようとアクセルを踏み込んだ時だった。


 頭の内側から連続で殴打されているかの様な痛みが佐柳を襲った。


 さっきまで、頭痛の予兆すら無かったのに。

 

 佐柳は突然の激痛に倒れ込みそうになる。


 後方から聞こえるクラクションの音が頭痛の波長と同調する。


 うるさい。痛い。まるで子供の文句の様な感想しか出てこなかった。


 佐柳は右手で右側頭部を抑え、何とか最寄りのコンビニエンスストアまで運転する。


 駐車をした佐柳はペットボトルに入った水を口の端から零しながら飲み干した。


 そしてリクライニングを倒し、グレーの低い天井と顔を突き合わせる。


 そのまま佐柳は振り払えない苦痛の中、意識を失った。

 


 

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