第六幕 宇宙からの侵略者(その七)
行き先は何時も通っていた行きつけの居酒屋だ。
そう言えば女性に変わってから初めてのれんを潜るような気がする。
蒸し暑い外の空気に揉まれた身体がクーラーの冷気で冷やされて思わず肩の力が抜けた。そしてこの雑多な客の雰囲気に呑み込まれると何故だかほっとする。無駄に構われず、かといってのけ者にもされないこの微妙な距離感が好きだった。
勝手知ったる店の中、カウンターの一番端が空いていたので其処に座った。
お通しの土手煮に生ビールを頼み、一息で三分の一を干した。この頃は少しずつ気温が上がってきているから喉を潤す冷たさが有り難かった。胃の腑にまで冷えたモノが落ちると少しだけ落ち着いた。
枝豆と手羽先を頼んだ辺りから店内が混んできて、空いていた隣の席にも客がやって来る。「隣、宜しいですか」と聞かれたので振り返って「どうぞ」、と言おうとしたのだが顔が引きつった。見知った相手だったからだ。
「おや、これは珍しい所でお会いしました」
男がニヤっと笑うと口元には銀歯の犬歯がキラリと光っていた。
「警戒しなくとも何もしません。今は時間外ですからね」
彼はナマと串物を何本か頼むと、お通しをパクつきながらそんなことを言った。
どうやらバレているようで、「弁えていらっしゃる」と素っ気なさを気取ってみた。
だがしかし、本音は違う。内心とっても入り乱れていたし、落ち着かないなんてもんじゃない。あなたは何故そんな平気で居られるんですかと、そう尋ねてみたくて仕方が無かった。
だがぐっと堪えた。ジョッキが直ぐに空になってお代わりを頼んだ。喉がやたら渇く。
「此処には良く来るのですか」
彼の元にナマが来て、口を付けながら話し掛けてきた。まるで会社の同僚か友人のような気安さだ。何なのだろう、この状況は。
「行きつけの店です」
「そうでしたか」
「この前も気付いていたのでしょう?」
「骨格と筋肉の付き方から直ぐに分かりました。それにあの時のわたしは居酒屋の店員、おのれの本分を全うするのみです。お客様は皆平等ですから」
あのスーツは身体のラインが剥き出しだからな。しかしそれでも断定出来るのは凄いと思った。
「割り切っているのですね」
「先日のあなたも見事でしたよ。自ら負けを認めるというのは勇気が要ります。見境の無い連中ならあの時点で手が出ていました」
「見ていたのですか」
「録画で拝見しただけです。彼女が果たし合いを挑んだというのも事後に知りました。無茶なことをと思いましたよ。
わたしよりも腕は立ちますが、向こう見ずなところがあって危うい存在ですからね。未熟なせいか視野が狭い。しかし僥倖とも言うべき結果となりました。あなた方にとっては不本意な顛末でしょうが」
「彼女は強かったですよ。オ・・・・わたしだったらまるで歯が立たなかったでしょう」
「今はそう見えるのかもしれません。しかしこれから先はどうでしょうね。対決した相手があなたでなくて良かったと、わたしは胸をなで下ろしましたよ」
「買いかぶりです。わたしにそんなに強くないです」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
「まぁ、そういうことにして置きましょうか」
ビールとはいえ三杯目となれば酔いも幾分回ってくる。気が付いたら「訊きたいことがあります」などとオレは口走っていた。
「何でしょう。しかし答えられるのはわたし個人に関してのみですよ」
「何故今の仕事を?」
「おや、在り来たりですが随分と根本的な質問ですね。そうですね・・・・自分自身の為に、と言えば格好良いでしょうか」
「自分自身、それは信念のため?矜持のため?或いは義憤?よもやまさか食うや食わずであったから、などという訳でも無いですよね。それとも正義を行なう権利と義務に酔うことが出来るから、とか」
「自身への問いかけの為とでも言い換えましょうか。自分は何者なのか、何処から来たのか、何処へ行こうとしているのか。自問自答が終わるのはその人が永劫の眠りに着くときでしょう。自分の事なのですから自分で見つけないと。立場が違えば見方が変わりますからね」
その台詞は聞き憶えがある。成る程、この男は確かに戸隠さんの師匠なのだなと思った。
「誰しもが知っている当たり前の話です。ただ、当たり前すぎて普段は自覚していないというだけで。
いやいや、それにしても危うい。あなたと話していると口にしてはならない事まで話してしまいそうだ。この辺りでお暇させて頂きますよ」
彼はそのまま席を立つと勘定を済ませて店を出て行った。一人残ったオレはぼんやりと彼の言った言葉を反芻し、残っていたビールと干すと、げふと息を吐き出した。
自分への問いかけと言われても、それはどっちのオレなのだ?
男だった昔のオレ?
それとも女になった今のオレ?
そんなの決まっている、戻れないのなら後者でしか在り得ない。まさか自分の分身に問う訳にもいかないし。
そもそも、オレを今と昔とで分けて考える方がどうかしている。どっちもオレじゃないか。
「・・・・」
一人残ったオレはぼんやりと彼の言った言葉を反芻し、残っていたビールと干すと、げふと息を吐き出した。ゆっくりと世界と店内の風景が歪み始めていた。オレも今夜はこの辺りにしておいた方が良さそうだ。
伝票を手にすると「ご馳走様」と言い、そのままレジに向った。
下宿に戻ると分身クンは戻っていたもののニュートさんは帰って居なかった。ひょっとしてまだ上司と掛け合っているのだろうか。明日の朝にもなって戻っていなかったら会社の方に連絡を入れてみようと思い、その夜はそのまま床に着いた。
あの男の言葉が妙に耳の奥に残ったままだった。
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