第五幕 正体(その五)

 白い胸元の開いたスリーピースに白い編み上げブーツを履き、静かに微笑んでいる。確かに彼女も小さいが、それでもニュートさんより頭一つ分は大きいだろうか。

「出来るお願いと出来ないお願いがあるわ。わきまえて諭すのも私たちの役割でしょう。職務怠慢だわ」

 威嚇するかのようにニュートさんも姿を現すとキツイ眼差しで見返し、言葉を重ねるのだ。

「あなたのその大雑把さが、あなたのご主人様にも伝播しているのではなくて?」

「酷い物言い。言いたいことは色々と在るのだけれど次にします。マスター、田口さまにおっしゃりたいことが在るのですよね」

「あ、うん。アンタ、じゃないお前、でもない田口さん。この前は迷惑掛けちまって悪かった。あんときゃ完全にテンパっちまってて、何言えば良かったのか判んなかったんだ。

 でも蹴りはねえよな、反省している。しかもアタシの盾になってヤツの直撃食らって、そんで酷ぇ怪我したって聞いたから居ても立って居られなくなって。迷惑かも、とは思ったけれどどうしても直にお詫びとお礼言いたかったんだ。スイマセンでした。そして、ありがとうございます」

 そう言って彼女は深々と腰を折って頭を下げた。

「木島さん、だったっけ。怪我の具合はいいの?」

 そう声を掛けると彼女は随分と慌てていた。

「そりゃアタシの台詞だよ。こう見えても身体は頑丈なんだ、アンタはもういいのかい。

 そ、そうか、なら良かった。心配したんだ。後それからコレ、食い物なら邪魔にならないかなと思って。

 あとコッチも、柄じゃないと判っちゃいるけどヴィアンが気持ちは伝わるだろうって言うから。あ、ヴィアンっていうのはこのアタシの相棒の呼び名さ。それで、良ければ受け取って欲しい」

 そう言って手渡されたのはケーキの入った箱と小さな花束だった。

「わざわざありがとう。ありがたくいただくよ」

 そう言うと木島さんはあからさまにほっとした顔をした。そして「朝から邪魔をした」と言って再び一礼をすると去って行ったのである。思わぬ朝の一幕だった。

「でも病み上がりの人間に仏花ってどうでしょう」

 彼女の手渡した花束をジト目で眺めてニュートさんは渋い顔をする。恐らく花の名前も意味も判らず購入したものに違いない。それに仏花って確か高かったような気がする。かなり奮発したんじゃなかろうか。

「まぁ彼女の気持ちはキチンと伝わったし、いいんじゃないのかな。気は心だよ」

 踵を返して部屋に戻ると花束はコタツの上に置き、ケーキは「この箱を開ける者に呪いあれ」と書いて冷蔵庫に入れた。折角の彼女の心尽くし、留守中に食われたらたまったもんじゃない。

「単純に部屋に鍵を掛けておけばよろしいのでは?」

「ニュートさん。これはね、そういう問題じゃないんだよ」

 芽キャベツ亭に住む者には芽キャベツ亭の掟というものが在るのである。

「いえ、でも・・・・」

「ん、何か不都合があるの?」

「いえ、別に。そうですね、帰って来てからでも問題はありませんね」

「?」

 ニュートさんの反応が妙な気がしたが、彼女が問題無いというのなら問題無いんだろう。

 そしてオレは再び部屋を出て学校を目指し下宿を後にした。


 本物の高校生だった頃は徒歩通学だったので電車での通学は初めてのことだったが、今やもうすっかり馴れてしまい、コレが以前から繰り返していた朝の風景だったような気もしていた。

 満員の時間帯は出来るだけ避けているつもりなのだが、通勤通学の時間はどうしてもダブってしまうから混雑から逃れることは出来ない。誰だって好き好んで狭い箱の中にすし詰めになど為りたくはないのだ。しかし世の中にはそれを利用して良からぬ事を企てる者も居る。

 またか。

 オレの尻の辺りに人の手の感触があった。掌ではなくて手の甲なのだから問題無いだとかフザケた屁理屈抜かすカスも居る。だが、故意と不如意とでは雲泥の差があるのだ。

 勿論、偶然たまたまという事は充分にあるからその辺りは弁えて居るのだが、接触したまま上下左右にすり動くのはどう考えても意図的なものだろう。

 微妙に立ち位置をずらして犯人と思しき男の爪先に微かに踵を乗せる。圧が掛かるか掛からないか程度だ。触れているのは分かっているだろう。しかし相手は微動だにしない。普通の人間ならまず避ける筈だ。

 成る程、確信犯か。

 電車の揺れに合わせて全体重を乗せた。ごり、とか、めき、とかいった微妙な踏み心地が伝わってきた。だが避けない。

 なかなか図太いな、コイツ。

 結構な痛みのハズである。これで逃げるのなら許してやるつもりだったのだが仕方が無い。

 一瞬だけ力を抜き、踵の下にシューズ一個分の空間を空けた後、力任せに踏み抜いた。下に空き缶があったら縦につぶれていただろう。少なくともそれくらいの手応え、いや足応えはあった。男の身体が一瞬だけ硬直し、肩越しに小さく震えているのが判った。

 男は次の停車駅でフラフラと降りていったが、片足を引きずる様子が窓越しに見て取れた。

「多分、アレは折れていましたよ」

 目的の駅で降りて通学路を歩いていると、そこで初めてニュートさんが声を掛けてきた。

「まぁ自業自得なんじゃない」

「そうですね」

「しかし何なんだろうな。一ヶ月そこそこの女子高生生活で三回も痴漢に遭うっていうのは。普通の子たちもこんな頻繁に被害を受けているんだろうか」

「ソコまででは無いと思いますよ。単純にご主人様が魅力的なだけではないかと」

「蟻が砂糖に群がるが如く?止めてくれるかな。隙が多いのかな、或いは与し易しと見られているのか」

「否定は出来ませんね」

「どの辺が!」

「女性というものはもっと異性の視線や挙動に敏感なものです。

 簡単な例を挙げれば、ご主人様は階段でスカートの裾を気にしていますか?隣に立つ見知らぬ男性と、息づかいが聞き取られぬ程度の適度な距離を保っていますか。危機感が無ければそれは無防備な獲物そのものです」

「むう」

 確かに思い当たる。オレが普段町中や校内を歩いていても、気にしているのは歩幅くらいなものだ。だってスカートって滅茶苦茶頼りないし。ちょっとした風やクルマが脇を通り抜けていったくらいで簡単に捲れるし。

 もうちょっと自分の身辺、というか自分の振るまいなどを見直した方が良いのかもしれない。

 そんな事を考えていたら耳元で声を潜めて囁かれた。

「後ろから戸隠さんが歩み寄って来ています」

 ソレって誰、と訊ね返そうとして直ぐに生徒会長かと思い至った。そしてニュートさんが口を噤むと同時に「おはよう」と声を掛けられた。

「あ、お早うございます生徒会長」

「あら、まるで声を掛けられるのが前もって判っていたかのような落ち着きっぷりね。吃驚させようと思っていたのに。余程肝が座っていらっしゃるのかしら」

「いえ、充分驚きましたよ。ただ取り繕っているだけです。それで何の御用でしょうか」

「顔見知りが居たので挨拶しただけです。ああそうですね。あなたとはちょっとお話をしたいと思っていたので丁度良かった、とは云えるでしょうか」

「あ、あの、此処で屋上の件を蒸し返すのは勘弁して下さい」

「アレは生徒総会までお預けと言ったでしょう。そんな些末なことではありません。生徒会長としてではなく、わたしの個人的な興味ですよ」

 興味。芳田さんではなくて?何故オレなんだろう。オレは単に彼女の腰巾着に過ぎないというのに。

「何故芳田さんではないのか、自分は彼女の腰巾着に過ぎないというのに、とでも言いたそうな顔ね」

「生徒会長はテレパスでいらっしゃいますか」

「あら、図星だった?それに学校構内に入る前ですので名前で呼んでいただけないかしら、『桜ヶ丘桜子』さん」

 妙に含みのある物言いが気になったが、如何なご用件でと訊いてみれば、秩序というものをどう考えていらっしゃるのかしらと問われた。

「え、ええと、窮屈だけれども無いと困るモノ、かな」

「些か大らかな考え方ですが大筋では間違っていません。ですが秩序を正すには規則が伴い、規則には罰が伴います。これは分かち難い兄弟のようなもの。規則の無い罰はただの暴力で、規則の無い秩序は泡沫の夢です。規則、ルールこそが秩序を秩序たらしめ、皆を安心させる生活を作る、わたしはそう考えています。

 何を当たり前のことを、と思うかも知れませんがそれを失念している人はとても多いのですよ」

「は、はあ」

「知っているということと理解しているということは似て非なるものです。

 知るだけではそれはただの知識、理解して初めて知識は知恵となります。理解し、創造が伴わなければ意味は無い。人は知り理解せねばなりません。この世界の理を、正邪の有り様を。何が正しくて何が誤っているのかということを。

 それが判れば規則が如何に大切か、身を以て知ることが出来るのです」

「朝から随分と高尚ですね。でも何故わたしにそんな話を?」

「何となくです。あなたなら素直に聞き入れていただけるのではないかと思ったので。如何です、生徒会の役員になってみませんか。立ち位置が変わったら見る世界も変わりましてよ」

「勧誘は有り難いですが、わたしには手に余りそうです。ご辞退させて下さい戸隠さん」

「あら、残念。でも気が変わったのなら何時でも生徒会室にいらっしゃい。歓迎しますよ」

 彼女はそう言って薄く笑うと校門へ向けて足を速めていった。振り返る素振りすらなかった。

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