第一幕 契約(その一)

 チキ、チキ、チキと規則正しく刻む秒針の音がする。

 やがて長針が所定の位置にはまり込み、かちりと小さな音をたてた。

 刹那、毛布の中から即座に繰り出された掌は、全世界かるた取り選手権の優勝者もかくやという驚天動地のスピードで、乾坤一擲、見敵必殺、一撃必中の精妙さで目覚まし頭頂部の停止ボタンを叩き、家庭電化製品の分際で善良な一学生の安眠を妨げようとする、その尊大な野望を阻止することに成功したのである。

 一瞬の攻防。

 正に世紀の対決。

 勝った、と思った。

 この尊く広大な世界に住まう人々にとって、取るに足らぬ些事やも知れぬが、小さくとも安息の白布を拡げる彼の地おいては偉大な勝利であった。

 これからオレに勝とうと思うのならば足でも生やし、この神速の早業を躱す術でも身に着けることだな目覚ましクン。

 しかしここで諸君は何故に今どき目覚まし時計、スマホのアラームで済ませばいいじゃないかと疑念をお持ちかも知れない。しかし何を云う。朝の目覚めにスマホなどと脆弱なモノを持ち込んだら叩き割ってしまうではあ~りませんか。男と男の真剣勝負にフィジカルな頑健さは必須条件なのである。

 コイツは頑丈だぞ。掴んで壁に叩き付けても意に介せず鳴り続けるからな。まさに宿敵と呼ぶに相応しい。

 そんな訳で今朝もこうして勝利した。実に晴れやかな気分である。

 オレは満足すると再び静謐なる一時を貪るべく毛布の奥底へと潜り込んだ。この馥郁たる毛布の心地よさよ。正に二度寝は至福、天元の真理だ。

 だが甘美なそれは、つかの間の平穏だったのである。

「章介何時まで寝てるんだ。講義に遅れちまうぞ」

 ドアが無遠慮にがんがんと叩かれて嫌が応にでも起こされた。

 むう、塚原か。そういや本日の一限目はヤツと同じ講義を取っていた。

 しかしここはオレが借りている下宿部屋の二階だというのに、何故わざわざ階下の友人に叩き起こされねばならないのか。

「休講だ休講、本日の営業は終了いたしました。オレは現在具合がよろしくない。お前一人で行ってこい」

 起き出すのも億劫で、寝床の上からドア越しに返事をする。

「そう言えば声がおかしいな、大丈夫か」

 安否を気遣ってくれるのは有り難いが、その声のデカさは何とか為らんものなのか。向こう三軒両隣のご臨終あそばされた老人すらハネ起きるぞ。

「少し寝りゃあ問題無いだろ。お前は気にせず学校に行け」

「そうか。今日は一日講義で学校に詰めているが夕刻には下宿に戻る。困った事があったら何でも言え、気兼ねは無用だぞ。じゃあな」

 そう言うとどかどかと通路を踏みしめる足音は遠ざかっていった。やれやれ。ヤツは悪い奴では無いのだが、こういう体調の思わしくないときには余り相手をしたくはない。

 しかし正確に言うのなら、身体の具合が悪いと言うよりもただの睡眠不足だ。

 昨晩はまるで眠ることが出来なかった。熱っぽくてかったるい。煮えたぎった鉛が頭の中や全身をぐるぐる巡っている感じがあって、身を起こすだけでも辛かった。だというのに寝転がっても眠る事が出来ず、何度も寝返りをうっては身悶えを繰り返した。

 それでもうつらうつらとはしていたかもしれない。現実とも夢ともつかぬ微睡みの合間に幾度も目を覚ました。喉がヤケに渇いた。汗の量も尋常じゃ無かった。下着がわりのTシャツも何度か着替えた。起き出して水を飲み汗をかいてはまた水を飲みを繰り返し、熟睡できぬまま気が付けば夜が明けていた。

「うう、身体の節々が痛え」

 頭の奥がボンヤリとしてすっきりしなかった。キチンと眠っていないせいだろうか。ぐったりと疲れていたし顔が火照って汗ばんでいる。ホントに熱があるのかもしれなかった。春先だがまだ朝夕は冷え込んでいて肌寒い。だというのに寝汗で肌着はべっとりと濡れて身体中に貼り付いて、じつに気持ちが悪かった。

 着替えようと思って、今一度寝間着代わりのTシャツの裾に手を掛けようとするのだが、髪が邪魔をして悪苦しい。掻き上げて、そこで初めていつの間にこんなに髪が伸びたのだろうと思った。そしてシャツを脱ごうとするのだが今度は胸が引っ掛かって上手くいかなかった。

 あれ?

 上半身裸になると眼下にはものの見事に大きな乳房が見える。まるで女性の胸のようだ。目の錯覚かと思った。だが両手で持ち上げてみれば確かな実感があった。ひどく柔らかくてかなり大きい。

 え、コレって、まさか・・・・

 ひょっとしてと思い短パンやトランクスも脱いだ。全身を確かめて血の気が引いた。全部変わっていたからだ。

 コレハイッタイ、ドウイウコトなのだ?

 慌てて洗面台まで駆け寄って鏡を覗き込む。

 見知らぬ美女が目を見開き、青ざめた顔でコチラを見返していた。


 一浪して入った大学は勿論目指していた志望校などではなかった。

 そもそも、最初は大学になど入るつもりはさらさら無かった。折角、高校を卒業して窮屈な学校授業から解放されるのだ。何が哀しくてまた、日がな一日机の前に縛り付けられなければならないのか。

 何処か適当な就職口はないものかと、学校にやって来る求人案内を物色していたのだが、「大学くらいは出ておけ、今時高卒ではロクな就職口など無いぞ。無職の社会人を養うつもりはサラサラ無い」などと両親に半ば脅され、渋々受験をしたのだ。

 そんなやる気の無い受験勉強で入れるほど大学も緩んじゃいない。一度滑った後これまた強制的に予備校に通わされて、擦った揉んだした挙げ句オレの頭でもどうにかこうにか滑り込める場所に入った。それが今通っている大学というわけだ。

 だから将来何に成りたいのかと言われても、オレ自身がサッパリ分からなかった。数年後には就職するのだろうが、入れるところに入れれば宜しかろうと考えているだけで、目標も無ければ展望も無かった。

 そんな当てもやる気もない大学生活だが、気が付けば早くも二年目に突入している。このまま自分の行き先すら定まらずズルズルと成り行き任せに流されて、時間だけが過ぎ去ってゆくのだろうか。

 何だかオレってつまんないな、と思った。


「そんな貴方にうってつけ。希望と歓喜に満ちた輝ける未来をお届けしましょうぉ」

 何処の怪しい宗教勧誘かと思った。それに何気に失敬な物言いである。

「そんな貴方というのはこんなオレの事なんですよね」

 ウエハースが裸足で逃げ出しそうな、軽い口調のオペレーター相手に電話を掛けているのには訳がある。目覚めてから我が身の変貌に驚き慌てふためいて頭を抱え、一連のどたばたの挙げ句ようやく落ち着いたころ、スマホに一件のメールが着信していた事に気が付いたからだ。題名は「変身完了です、お身体の調子は如何ですか」だ。

 いったいどういう事かと開いて読んでみれば、アンケートから直接の募集と契約完了のご案内などとある。そんな憶えは全くない。詐欺か、或いは何かの間違いかと悩み考えた後に、ひょっとして先日のメールの事かと思い至った。

 メールの着信履歴を確認してみればやはりそうだった。削除したと思い込んでいたメールが消されないまま其処に有る。メールの末端に契約するか否かを問うボタンがあって、しっかりと「契約する」の項が押された状態で保管されていた。オレが間違えて押してしまったのは間違いない。

 料金不要、ワン・クリックでお手軽契約。現在お使いのメールアドレスを当社が認証するだけでOK。面倒なカード等のお手続きも不要です、などとある。余計なサービスを!

 では、これが原因でオレはこんな身体に為ってしまっているのか?

 普通に考えればメール一本で美女に変身するなど在り得ない。こんな事がまかり通るなら美容整形などで病院が潤うはずもなく、世の女性は皆美人さんばかりに為ってしまうではないか。

 しかしこの現実はどう説明すれば良い。さらさらとして手触りの良い黒髪は真っ直ぐで背中にまで届き、その小ぶりな顔にオレの面影は無くて胸はやたらと大きかった。今やシャツの下から大いにその存在を自己主張している。逆にウェストは驚くほど細く、かてて加えてジーンズは尻回りが窮屈だった。自分で言うモノなんだが、モデルかと見紛わんばかりの変貌ぶりだ。

 まぁ、胸や尻がボリューミーな代わりに身長が二回りほど小さくなって、モデルにしては随分と小柄な身体になってしまっているのだが。世に云うコンパクトグラマーとかいうヤツだろうか。それともマイクロだったっけ。

 いやそんなコトはどうでもいい。美人というのは目の保養には良いが自分が成るものではない。女性なら兎も角そもそもオレは男なのである。

 返品だ返品。契約解消です。

 そんな訳でオレは慌てふためき、直ちにメールの発信元に電話を掛けたのだ。

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