第2話 彼女の幸せ 1


「その夢、貴方が望むなら、私が叶えてさしあげましょう」


耳元にそう囁やかれた。

驚いて振り向くと、見たこともない青年がそこに立っている。思わず飛び退り、青年との間を開けた。周りを見回すと、何もない空間に二人だけ取り残されている。さっきまで結婚式を執り行う教会に居たはずだ。


そうだったはずなのに、いつの間にか荒涼とした何もない白い空間にその青年と自分だけが存在している。


何が起きているのか、判らない。どうしていいのか、わからない。


見知らぬ青年は動かない。ただ立っているだけだ。それでも一歩、二歩と後退さる。見知らぬ青年と離れたくもあるが、この空間に一人になるのも恐い。


逃げたくても何もない空間で逃げようがないからなのか、動けなかっただけなのか自分でも判らない。


考えが纏まらず、叫んでここから逃げ出したいような、この場で泣き崩れたいようなどうしようもない感情が逆巻く。


「安心してくれませんか。何も今すぐ取って喰おう、っていうわけではないです。まずは、あなたとお話をしたかったのです」


青年は落ち着いた声でそう言うと、端正な顔立ちでニッコリと微笑んだ。

その声でふっと心が落ち着いてきた。その微笑みに、心が和んだ。


自分が置かれている状況、ここはどこかということよりも、青年に興味がわいてきたからだろうか。


知らない青年だ。式場でも見かけなかった姿だし、何よりその格好は結婚式に訪れるようなものではない。黒ずくめの姿ではあるが、カジュアルな白いシャツ、チノパンにロングコートを羽織っている姿は、やはり場違いではある。だが、その姿は彼に妙に彼に似合っている。


腰まである長く美しい黒髪、端正な顔立ちではあるものの、どこかで見たことがあっても、覚えていられないかもしれない。そんな印象の薄さも併せ持っていた。

「ここは……、あなたは……、」


その言葉を受けて、わかっていますと言うように青年はゆっくりと頷き、言葉を続けた。

「ここは、そうですね。あなたの心が作り出した、次元の歪みと言った方が分かり易いでしょうか。私があなたの心の中にお邪魔しているという形になります。


人は深い悲しみや憤りなどで、時としてこのような空間を心の中に作り出してしまうモノなのです」


深い悲しみと聞いて、ああそうなのかと腑に落ちる。本当はこんな結婚式に来くはなかった。だが。


今日のこの結婚式。あの人が、あの女と結婚する、そんな姿など見たくは無い。でも、あの人に会いたい。あの人を救いたい。だからこそ………。


「こんな空間を作り出してしまうなんて。貴方の心の中には、望みがあるはずです」

「……望み? 」


「その望みを叶えるための、お手伝いをさせていただければと」


「望みを、叶えてくれる…。貴方は、悪魔なの? 」

そんな存在が居るならば、悪魔ぐらいしか思い浮かばなかった。人の魂を対価として望みを叶えてくれる存在。


その青年は首を振った。

「いいえ。私は悪魔ではありません。そうですね。人の夢を叶えるモノではありますが。貴方が作り出したこの空間に、呼ばれて来たモノです」

そんな存在など聞いたことはなかった。この空間は私が作ったモノだという。そして、ここに呼ばれたのだと。

「た、対価は何? 何もないのに、望みが叶うなんて思えない」


青年は嬉しそうに笑う。

「賢明な判断です。対価なくしては、何事も得ることはできません。よく判っていらっしゃる。貴方は、聡明なお方なのですね」

そう言うと、指を一本立てた。

「私への対価は、たった一つです。貴方の望みに見合った分の、貴方の寿命です」

「寿命……」


「その障害が大きいほど、沢山の寿命が必要になります。

例えば、貴方の事をと結婚したいということであれば、十年、もしくはそれ以上の寿命が必要になるでしょう。でも、貴方の事を、色々なしがらみから貴方を諦めるしかなかった、そんな人と結婚するのならば、1年や2年の寿命で充分です。

如何ですか」


目の前に居る青年は、私の寿命と引き換えに、私の望みを叶えてくれるという。

私の望み、あの人と結婚して、幸せになること。それ以外にあるだろうか。

まだ、間に合うのだろうか。結婚式はまだ、始まっていない。

あの女ではなく、私が隣に立つことができるというのだろうか。


「まだ、間に合うというの」

青年は優しい笑顔で、頷いた。

「もし、貴方がそうであれかしと望むのであれば。願いは叶うでしょう。あなたの御心のままに、夢が見られるはずです」


この願いが、叶うならば。




 教会の扉が開き、ヴァージンロードに父親とともに花嫁が歩いていく。あの人の元へと。純白のウエディングドレスに身を包み、あの人の元に歩いて行くのは、私。

私から愛しいあの人を奪おうとしたあの女は、教会の一番後ろの席に、たった一人で座っている。恨めしげに私を見ていた姿が、一瞬だけ垣間見えた。私はちゃんと招待をしてあげた。

あの人が、私のヴェールを上げる。

「綺麗だ」

そっと、頬にキスをする時に小さな声で囁いてくれる。

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