第二十五章 ②それから(ナナ)

 所沢市・公営住宅。

 羽衣ういの実家。物が雑多に置かれた狭い居間には、神妙な面持ちで正座をするレンジがいた。

 向かい合うのは『ジイジ』と『バアバ』と『ナナ』だった。

 今日の羽衣はアービトレーター(仲裁ちゅうさい役)だ。張り切って場を仕切ろうとしている。レンジの助太刀フォローをするつもりなのだ。

 「ほらっ! ママ、ジイジ、バアバ! レンジさんが来てくれたよ! 大切なお話があるんだって」

 レンジは頭を下げる。

 「本日は貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございます」

 シン……、気まずい。あまりにたまれない空気だ。

 

 ナナは顔をそむけて黙り込んでいた。バアバは落ち着かずにきょろきょろしている。

 沈黙を破ったのは車椅子くるまいすのジイジだった。しゃがれ声で問いかける。

 「……ご用件は?」

 「あっ、はいッ! ……二十三年前、当時中学生だった『ナナさん』を妊娠させた『犯人』は自分です。どうしても謝罪をさせていただきたくて厚かましく参上いたしました」

 バアバは思わず口をはさむ。

 「犯人って……。そんなごく悪人あくにんみたいに」

 「いや……。俺は極悪非道な鬼畜きちくです。理性の欠落した破廉恥男はれんちです。謝って済む問題でないことは重々じゅうじゅう、承知しております。ですが、どうか謝罪をさせてください!」 

 ジイジがぼそり、つぶやいた。

 「俳優レンジは、『鬼畜』か……。そうかも、なあ……」

 「……今さらどのつらげて来たのかと、煮えくり返るほどおいかりのことでしょう。それに、有名人が大衆をあざむいて、ましてやレイプ犯だったなんて、さぞや驚いたことでしょう……。はなはだ今さらではありますが、誠にっ、誠に申し訳ありませんでしたっ! 大切なお嬢様を傷つけてしまい、本当に本当にっ! 申し訳ございませんでしたっ」

 レンジは悔恨かいこんの涙を落とす。ひたいを床にこすりつけて何度も何度もびた。

 

 バアバはため息をもらす。

 「あのね? ナナを妊娠させたのが俳優のレンジさんだってこと……。そんなの最初はじめっから知っていましたよ?」

 「……え?」 

 「養育を認める条件として、ナナから聞き出していたからね……」

 「そう、だったのですか?」

 「そう……。すべてを知っていた。そして、すべてを承知の上で黙っていた。……これが家族の意志なのよ。だから今さらし返して責め立てるつもりはありませんよ?」

 「いやっ、しかし! 俺のせいで人生が狂わされて、とんでもないことにっ……」

 「そんな、大げさな……」

 「そして何より! 今日こんにちまで『羽衣うい』を大切に育ててくださっていた……! この空白期間の賠償ばいしょう謝意しゃいを込めて、本日は『慰謝料』を持参いたしましたっ」

 

 「いしゃ、りょう……?」

 ナナはおもむろに顔を上げた。レンジをキッ、にらみつけて言い放つ。

 「すべては過ぎ去って終わったことです。だから今さら、罪悪感を持たなくて大丈夫です。謝罪の気持ちは受け取ります。だけど慰謝料はりません。……娘は、羽衣のことは……、絶対にゆずりませんっ」

 思いがけない言葉にレンジは動揺する。

 「え? い、いや? 羽衣はすでに成人しているから『親権しんけん』は関係ない。それに父親だと主張してうばうつもりなど…………」

 「河川敷かせんじきでの出来事は記憶から消してください。だから土下座されても、大金を積まれても、羽衣は絶対に絶対に渡しませんっ」

 「いっ、いや、待ってくれ! この金は取引きのつもりではないんだ! せめてものおびに……、そう思って……」

 「だったら尚更なおさらです。苦労していないのでお詫びのお金はいりません。うらんでいないし、怒ってもいません。だから今すぐ、帰ってくださいっ」

 

 羽衣は怒り出す。

 「もうっ、ママったら! レンジさんのはなしを最後まで聞いてよっ! それに、サユミさんの会見を見ながら泣いていたくせにっ」

 「……泣いてないっ」

 「意地っ張り! 頑固者っ! 押入れに隠してるママの『宝物』のこと、知っているんだからっ!」

 羽衣は押入れの奥から水色の収納ケースを引っ張り出してきた。ごそごそ取り出したのは『ザ・ラッキーラビット・オズワルド』のトートバッグだった。

 「ほら、レンジさん! これを見て?」

 バッグの中には数冊の大学ノートが入っていた。渡されたノートをペラペラ、めくって見る。

 大学ノートはスクラップブックになっていた。週刊誌や新聞記事の切り抜きが丁寧に貼り付けられている。そのひとつひとつに付箋ふせんてんしてあった。

 【秋の新作ドラマ・刑事役で主演決定! 嬉しい! 楽しみ!】

 【被災者支援! レンジさん、素敵です】

 【女優サユミさんと結婚! 美男美女、お似合いだなあ……】

 【羽衣と不倫? (絶対にこれはデマ)】

 スクラップブックは『俳優レンジ』でいっぱいだった。

 

 羽衣はさらに畳みかける。

 「それからね、この封筒を開けてみて? これはママが一番大事にしている宝物なの!」

 それは無地の茶封筒だった。おそるおそる中身を確認する。そこには『一万円札(諭吉)』が二枚、入っていた。

 ぶわっ、レンジの視界は涙でかすんだ。

 「ナッ、ナナさん……! これはまさか? あのときのっ…………」

 ナナは動揺を隠せない。目を泳がせてうつむいた。そうして再び黙り込んでしまった。

 

 バアバはしみじみ語り出す。

 「あれから、二十三年もつのねえ……。羽衣のひたいの形と口元は、レンジさん(父親)によくているわよね?」

 「あ、は、はい……」

 「ナナから妊娠していることを告げられたとき、すでに『二十二週』を過ぎていて堕胎だたいすることができなかった。私はカッとして頭に血がのぼって、えらい剣幕で怒鳴どなりつけたの。……高校受験はどうするんだっ! 子供が子供を育てられるわけがないっ! 出産後に養子に出せっ! ……ってね」

 「はい……」

 「そうしたら『大好きな人との赤ちゃんなのっ! だから絶対に自分で育てるっ』って、その一点張りでね……。ナナは情が深いうえにがんとしてゆずらない性格なのよ。それに当時から『俳優レンジ』の大ファンだったから尚のことだった」

 「ナナ……さん……」

 「だけど私はどうしても納得いかなくてね……。テレビで『相手の男』を見るたびにムカムカして、憎たらしくて! それはそれはうらみましたよっ」

 「それは……、当然です」

 「だけどねっ! いざ孫(羽衣)が産まれたらっ! そりゃあもう可愛くって可愛くって! 憎しみやら口惜しさなんか、どこかに吹き飛んで消えちゃったのよ」

 「しっ、しかし! 長きに渡って大変なご苦労を……っ」

 「苦労? ……したかしらねえ? 確かに何かにつけてからんできて嫌味いやみを言う人はいたけれど……。そんなのほんの数人だったよ」

 「だいぶ、くやしい思いを……?」

 「あははっ、平気平気っ! だってね、励ましてくれる人のほうが圧倒的に多かったの! それにね、我が家には『魔法のおまじない』があるのよ。ドリス・デイの名曲をペギー葉山さんが歌っていてね! 『ケセラセラ!』って元気に歌って笑い飛ばして、そうして乗り越えちゃった。だからもう昔のことは……、忘れちゃったよ」

 バアバは陽気に笑った。

 「おかあ、さん……」

 レンジは胸がいっぱいになった。

 

 多発性硬化症(MS)をわずらうジイジが、震えながら手を伸ばす。

 「……握手を、して、くれないか?」

 「え? あっ! はいっ!」

 レンジはジイジの手をぎゅうっ、力強く握りしめた。

 「……待っていたよ。レンジさんがここにる日を……。家族はみんな、待っていた」

 「え……?」

 「……顔を隠して、ジョギング姿で、何度か自宅付近を訪れていたね? いつ寄ってくれるのかと楽しみにしていたんだがね……」

 「俺に……、気づいて、いたのですか?」

 「うん。……ナナの顔が見たくて、わざわざ来ていたんだろう? ははは……、どうやらやっと、放蕩ほうとう婿むこが帰ってきてくれたみたいだなあ……」

 ジイジは穏やかに笑った。

 「おとう、さん……っ」

  

 レンジは義父母から勇気をもらった。

 そうして強く決意する。ナナの正面でいずまいを正した。

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