第十九章 ⑤レンジとナナ
所沢市・宮本町。
平日の早朝六時半。レンジは『
撮影スケジュールが立て込んでいる。都内と所沢市を往復するだけの時間を当分は取れそうもない。
だがせめて参拝だけでも……。不意に思い立って神社を訪れたのだ。
『
北の参道には『鳥船神社』のお
レンジは度々参拝するうちに所澤神明社が『特別な場所』になっていた。
ナナと羽衣、ご両親の幸せを願い祈る『聖地』になっていた。
今日のレンジは私服姿に
こじんまりした
本殿の前に着くと、実は『
顔を隠すようにレンジはわずかに
……今の俺は以前とは明らかに違う。抽象的存在である『神仏』に祈りを捧げる
大切な人のために祈りたくなる。おのずと幸せを願ってしまう。
己の犯した罪悪への
だから真剣に『何か』を願い祈っている目の前の女性と共鳴したような感覚を抱いていた。
祈りを終えた女性がくるり、振り返る。
「あ…………」
同時に小さく声を発した。
……目の前にいた女性は『ナナ』だったのだ!
ナナは明らかに動揺していた。
「待ってくれっ! ……ナナさんっ!」
俺は大声を出して引き止めた。
名前を呼ばれて驚いたのか。ピタリ、足を止めた。ナナがゆっくり振り返る。ふたりの視線が合わさった。
レンジはすぐさま伊達メガネを
「ナナさん!
ナナがおもむろに頭を下げた。
「……。レンジさん、娘の
「あ、いや、ああ。こちらこそ……」
「撮影後に自宅まで送ってくれたり、洋服をプレゼントしてもらったり。とても親切にしていただいていると聞いています。ありがとうございます」
声は震えて
「い、いや。あ、あの……。それより羽衣はあの時の? もしかして、俺の…………?」
ナナは即座に首を横に振る。
「レンジさん、過去のことはもう忘れてください。私は何も覚えていません」
「そっ、そんなわけには!
レンジは困惑して
ナナは深呼吸する。
「レンジさんは何か誤解をされているようですが。羽衣はあなたの子供ではありません」
言い放った。
「え?」
「安心してください。羽衣はあなたの子供ではありません」
「うっ、嘘だ!
「いいえ」
「嘘だっ! 殺したいほど憎んで、
「苦労なんかしていません。レンジさんのことを
「俺があの日、
「やめてください! もう忘れました」
ナナは即座に
「ナナさん!
「じゃあ、ひとつ。お願いがあります」
ナナはレンジの瞳をジッと見つめていた。
「ああ、何でも! 何でも言ってくれ!」
「奥様のサユミさんと仲良くしてください。ご自分の家庭を大切にしてください」
「…………え?」
「映画、楽しみにしています。家族みんなで必ず見ます。お仕事、頑張って……!」
言い終わらぬうちにナナは全速力で走り出した。神社の階段を猛スピードで駆け下りた。
「ナッ! ナナ……ッ!」
追いかけようとした。だがハッとして、すぐさま思い
今日は変装をしていない。それに俺と羽衣は愛人関係にあると噂されている。挙げ句にナナとの写真を撮られでもしたら
……もう、ナナに嫌な思いをさせたくない。迷惑を掛けたくない。
世間からの容赦ない非難や
時計を見る。急がないと撮影に間に合わない。
レンジは大きく息を吐き出して本殿の前に立つ。願い、祈る。
……どうか、ナナが幸せになれますように。羽衣が幸せになれますように。ナナのご両親が、幸せ、に…………
「ゔ、ゔうううっ……」
人の痛みを感じるとは、こんなにも切ないものなのか。こんなにも苦しいものなのか。レンジは唇を
ナナが映画を楽しみにしてくれているのだ。だから今は仕事を頑張るしかない。
レンジは車に乗り込んで、撮影現場に急いで向かった。
ナナは溢れ出る涙をぬぐいながら裏路地を歩いていた。
「ケセラセラ……、ケ、セラ、セ、ラ……、ケ、セ、ラ……セ、ラ……」
バアバが大好きな米国人女性歌手『ドリス・デイ』のケセラセラを歌いながら歩く。元気が出る『おまじない』を何度も口ずさむ。だけどどうにも今日は涙が止まらない。
不意に立ち止まって空を見上げる。
……ああ、神様。ありがとうございます。もう一度だけでいいからレンジさんに会いたい! ……私の願い、さっき叶いました。ありがとう。
神様、図々しいけれど。次のお願いをしてもいいですか?
……どうかどうかどうか! 大好きなレンジさんが幸せになれますように! レンジさんとサユミさんが幸せになれますように…………
白金の自宅マンション。
「ゔああああっ……!」
いつもの悪夢を見たレンジは飛び起きた。汗だくだ。思わず両手で頭を
十五年前。仕事で訪れた宇和島の『みかん畑』で仕出かした
……あまりにも
愛嬌が良くて可愛らしくて。まるで天使のような子供だった。
その天使を欲望のままに俺は
今さらながら
幼い
己の罪過を思い起こすと余りのおぞましさに身の毛がよだつ。どれほど
か弱い幼女と少女を
胸が苦しい、吐き気がする。首筋に負った
レンジは醜悪極まる過去の自分を呪い
今になれば痛いほど分かる。あの真っ黒い九頭龍の言うとおりだ。
……
九頭龍よ、どうか頼む。
俺を、殺してくれ…………!
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