第十九章 ⑤レンジとナナ

 所沢市・宮本町。

 平日の早朝六時半。レンジは『ところさわ神明社しんめいしゃ』の駐車場に愛車を停めた。

 撮影スケジュールが立て込んでいる。都内と所沢市を往復するだけの時間を当分は取れそうもない。

 だがせめて参拝だけでも……。不意に思い立って神社を訪れたのだ。

 

 『ところさわ神明社しんめいしゃ』は大御神テラスを祭る由緒ある古社である。

 北の参道には『鳥船神社』のおやしろがある。日本でも珍しい空の旅行や渡航の交通安全の守り神がまつられている。人形供養も有名らしい。

 レンジは度々参拝するうちに所澤神明社が『特別な場所』になっていた。

 ナナと羽衣、ご両親の幸せを願い祈る『聖地』になっていた。


 今日のレンジは私服姿に伊達だてメガネ。早朝だったため特段『変装』をしていなかった。

 こじんまりした境内けいだいをぶらり、歩く。冷たい朝の空気は清々すがすがしい。人の気配がなく、森閑しんかんとしている。

 本殿の前に着くと、実は『先客せんきゃく』がいたようだ。若い女性は真剣に『何か』を祈っていた。

 顔を隠すようにレンジはわずかにうつむく。距離を保って参拝の順番ときを待つ。しば感慨かんがいふける。

 ……今の俺は以前とは明らかに違う。抽象的存在である『神仏』に祈りを捧げる人間ヒトを理解できる気がする。

 大切な人のために祈りたくなる。おのずと幸せを願ってしまう。

 己の犯した罪悪へのゆるしをいながら、見知らぬ神や仏にすがりたくなる。ひたすら救いを求めようとしてしまう。

 だから真剣に『何か』を願い祈っている目の前の女性と共鳴したような感覚を抱いていた。

 

 祈りを終えた女性がくるり、振り返る。

 「あ…………」

 同時に小さく声を発した。

 ……目の前にいた女性は『ナナ』だったのだ!

 ナナは明らかに動揺していた。咄嗟とっさに視線をらして顔をそむけた。そうして俺の横を足早に通りすぎる。

 「待ってくれっ! ……ナナさんっ!」

 俺は大声を出して引き止めた。

 名前を呼ばれて驚いたのか。ピタリ、足を止めた。ナナがゆっくり振り返る。ふたりの視線が合わさった。

 レンジはすぐさま伊達メガネをはずす。

 「ナナさん! 羽衣ういからあなたの名前を聞きました。今更いまさらあなたにどうびたらいいのか分からない! だけどとにかく、謝りたかった……」

 ナナがおもむろに頭を下げた。

 「……。レンジさん、娘の羽衣ういがお仕事でお世話になっています」

 「あ、いや、ああ。こちらこそ……」

 「撮影後に自宅まで送ってくれたり、洋服をプレゼントしてもらったり。とても親切にしていただいていると聞いています。ありがとうございます」

 声は震えてうわずっていた。

 「い、いや。あ、あの……。それより羽衣はあの時の? もしかして、俺の…………?」

 ナナは即座に首を横に振る。

 「レンジさん、過去のことはもう忘れてください。私は何も覚えていません」

 「そっ、そんなわけには! きみや、君の家族のために俺ができることはないか? なんだってする!」

 レンジは困惑して狼狽うろたえていた。

 ナナは深呼吸する。

 「レンジさんは何か誤解をされているようですが。羽衣はあなたの子供ではありません」

 言い放った。

 「え?」

 「安心してください。羽衣はあなたの子供ではありません」

 「うっ、嘘だ! 誤魔化ごまかさないでくれ! 俺のせいでずっと苦労してきたんだろう?」

 「いいえ」

 「嘘だっ! 殺したいほど憎んで、うらんだはずだ!」

 「苦労なんかしていません。レンジさんのことをうらんですらいません」

 「俺があの日、河川敷かせんじきで…………」

 「やめてください! もう忘れました」

 ナナは即座にさえぎった。

 「ナナさん! きみのためなら何だってする! 君のためならすべてを失ってもかまわない! だから……っ」

 「じゃあ、ひとつ。お願いがあります」

 ナナはレンジの瞳をジッと見つめていた。

 「ああ、何でも! 何でも言ってくれ!」

 「奥様のサユミさんと仲良くしてください。ご自分の家庭を大切にしてください」

 「…………え?」

 「映画、楽しみにしています。家族みんなで必ず見ます。お仕事、頑張って……!」

 言い終わらぬうちにナナは全速力で走り出した。神社の階段を猛スピードで駆け下りた。

 「ナッ! ナナ……ッ!」

 追いかけようとした。だがハッとして、すぐさま思いとどまった。

 今日は変装をしていない。それに俺と羽衣は愛人関係にあると噂されている。挙げ句にナナとの写真を撮られでもしたら厄介やっかいだ。SNSで拡散されて攻撃されてしまう。

 ……もう、ナナに嫌な思いをさせたくない。迷惑を掛けたくない。

 世間からの容赦ない非難や罵倒ばとうのすべては俺に向けられるべきだ。

 

 時計を見る。急がないと撮影に間に合わない。

 レンジは大きく息を吐き出して本殿の前に立つ。願い、祈る。

 ……どうか、ナナが幸せになれますように。羽衣が幸せになれますように。ナナのご両親が、幸せ、に…………

 「ゔ、ゔうううっ……」

 人の痛みを感じるとは、こんなにも切ないものなのか。こんなにも苦しいものなのか。レンジは唇をみ締める。自責の念が渦巻く。

 ナナが映画を楽しみにしてくれているのだ。だから今は仕事を頑張るしかない。

 レンジは車に乗り込んで、撮影現場に急いで向かった。

 

 ナナは溢れ出る涙をぬぐいながら裏路地を歩いていた。

 「ケセラセラ……、ケ、セラ、セ、ラ……、ケ、セ、ラ……セ、ラ……」

 バアバが大好きな米国人女性歌手『ドリス・デイ』のケセラセラを歌いながら歩く。元気が出る『おまじない』を何度も口ずさむ。だけどどうにも今日は涙が止まらない。

 不意に立ち止まって空を見上げる。

 ……ああ、神様。ありがとうございます。もう一度だけでいいからレンジさんに会いたい! ……私の願い、さっき叶いました。ありがとう。

 神様、図々しいけれど。次のお願いをしてもいいですか?

 ……どうかどうかどうか! 大好きなレンジさんが幸せになれますように! レンジさんとサユミさんが幸せになれますように…………

 

 白金の自宅マンション。

 「ゔああああっ……!」

 いつもの悪夢を見たレンジは飛び起きた。汗だくだ。思わず両手で頭をきむしる。

 十五年前。仕事で訪れた宇和島の『みかん畑』で仕出かした蛮行ばんこう影像えいぞうが夢に映し出された。

 ……あまりにも生々なまなましかった。

 愛嬌が良くて可愛らしくて。まるで天使のような子供だった。

 その天使を欲望のままに俺はけがした。

 もてあそばれて。雨に濡れて。どろと血液にまみれて……。まるでゴミ置き場に捨て置かれたボロ人形のように変わり果てた姿になっていた。

 今さらながら慚愧ざんきする。あの『幼女』は息災だろうか。今は二十歳はたちくらいだろうか。

 えるはずのない惨痛さんつう暗澹あんたんたる日々を過ごしているかもしれない。もしかすると精神が崩壊してしまったかも知れない。

 幼い愛娘まなむすめけがされたご家族の嘆きや憂いはいかばかりだったのだろうか……!

   

 己の罪過を思い起こすと余りのおぞましさに身の毛がよだつ。どれほど贖罪しょくざいしても許されないだろう。

 か弱い幼女と少女をおのれの欲望のままにけがした過ちは隠ぺいはできても罪過は消えない。どれほど後悔しても時は戻らない。己の醜悪しゅうあくさに腹が立つ。

 胸が苦しい、吐き気がする。首筋に負った火傷やけどの古傷がズクズクして痛む。

 レンジは醜悪極まる過去の自分を呪いうらんでいた。


 今になれば痛いほど分かる。あの真っ黒い九頭龍の言うとおりだ。

 ……嗚呼ああ! そうだ、俺は『鬼畜』だ。神仏にゆるしをうてはならない最低最悪の男だ。

 九頭龍よ、どうか頼む。

 俺を、殺してくれ…………!

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