第十九章 ②レンジの陰鬱(グルーミー)

 所沢市・緑町中央公園。

 木曜日の夕方。セットアップのランニングウエア姿のレンジが公営住宅周辺をうろついていた。顔バレしないようフェイスカバーで鼻と口元をおおう。最近は一層警戒して偏光へんこうサングラスで目元まで隠している。

 

 寒さに乾いたレンジの目線は公営住宅の駐車スペースの隅っこに立っている『ナナ』に向けられていた。せて着古きふるしたファストファッションにベージュのカーディガンを羽織っている。

 ナナの吐く息が白い。寒そうに両手をこすっている。父親の通所デイ介護サービ施設の送迎車が来るのを待っているようだ。

 程なくして。デイサービスの車が敷地内に滑り込むように入って来た。

 ナナは運転手に会釈えしゃくする。スライドドアが開いて車椅子の父親が降車する。ナナは慣れた様子で父親を押して自宅に向かって歩き出した。

 

 甲高かんだかい声が響いた。

 「あらあ、ナナちゃん! 偶然ねえ?」

 「ナナちゃん、こんにちは。寒いわねえ?」

 まるでタイミングを見計みはからっていたかのように。中年女性二人組が声をかけて呼び止めた。

 「あ、向井さん、戸端さん、こんにちは!」

 ナナがほがらかに挨拶を返した。

 ……このふたりはナナの知り合いだろうか? それとも親しい友人だろうか? もしかすると同じ公営住宅の住人かも知れない。もっと声が聴きたい。あわよくば近況が知りたい。

 レンジは距離をそうっと縮めた。そうして会話に耳をそばだてた。

 

 中年女性は親し気に話し出す。

 「ナナちゃんはいつもえらいわねえ!」

 「私たちいつも感心しているのよ? お父さんの介護は大変でしょう?」

 「いいえ、全然大変じゃないですよ!」

 ナナは笑って首を横に振る。

 なぜか女ふたりは顔をしかめた。気に喰わないとばかりに語気を強めてまくし立てる。

 「嫌ね、無理しちゃって! もう二十年以上も介護生活でしょう? 大変に決まっているじゃない!」

 「父親オジサンは障害者で働けないわけだし?」

 「母親オバサンは朝から晩まで働きどおしだし?」

 「挙げ句に母子家庭でしょう?」

 「そうよ! ナナちゃんのお宅はみんな生活に追われてやつれているじゃない」

 「いつも似たような服を着て……。洒落しゃれっ気ないの? それとも買えないの?」

 「あらやだ、何だか可哀想ねえ!」

 炸裂さくれつする嫌味にナナは苦笑する。

 何も言い返さなかった。

 

 「あっ、もしかして! 今は『アイドル羽衣ういちゃん』がガッポリ稼いでくれているから全然大丈夫、ってことなのかしら?」

 「あらあ、それはうらやましいわあ」

 「『アイドル業』は良いわよねえ! 親の学歴が無くたって。羽衣ちゃんが勉強できなくたって。関係ないから」

 「そういえば! 羽衣ちゃん、何かとバッシングされているみたいね? 心配してるのよ?」

 「私たち、羽衣ちゃんのことを応援してあげているのよ?」

 ナナは頭を下げて礼を伝えた。

 「あ……、あの、えっと……。いつも応援ありがとうございます」

 

 冷たい北風がびゅうと吹き抜けた。

 車椅子に腰掛ける父親の顔は青白い。うつむいてうずくまって寒さをこらえている様子だ。

 お構いなしに二人組の中年女はペラペラとしゃべり続ける。

 「ねえねえ、それより! 羽衣ちゃんと『俳優レンジ』が不倫してるって本当なの? 絶対誰にも言わないから教えて? お願い!」

 「……」

 「羽衣ちゃんが芸能界で売れたのは大物相手に『そうゆう営業』をしているお陰じゃないかって! そんなウワサを聞いたけど?」

 「……」

 「まったくひどいわよね? そんな悪口を言う人が大勢おおぜいいるのよ」

 「やだっ、安心して! 私たちはそんなこと全然思っていないから!」

 「だけどほらっ! 世間とかマスコミが……、ねえ?」

 「そうそう! 私たちはいつだって羽衣ちゃんとナナちゃんの味方だからねっ!」

 「……はい」

 「だから、ね? 内緒で教えてもらえないかしら? 絶対にっ! 誰にも言わないって神様に誓うから! ねっ?」

 ナナは無理して笑う。そして頭を下げる。

 「ごめんなさい。本当に何も知らないです。……それより! 最近は朝が冷えるから風邪ひかないように気を付けてくださいね! 寝るときは毛布出して暖かくしてくださいね」

 「あ、ああ、ええ…、そうね」

 「じゃあそろそろ。冷え込んできたので帰ります。ジイジが風邪ひいちゃうといけないのですみません。ごめんなさい、すみません、失礼します……」

 ナナはふたりに笑顔を向けて頭を下げる。ぺこぺこと何度も何度も頭を下げる。車椅子を押して歩き出す。険しい遠路を辿って帰宅したかのようだった。

 

 ナナが居なくなった途端、近くに居合わせた白髪交じりの壮年女性二人組が仲間に加わった。井戸端会議は最高潮に盛り上がる。悪意に満ちた本音がれ出す。陰湿な悪口と真偽しんぎの分からぬ噂話が飛びう。

 「なにあれっ? 感じ悪いわね」

 「娘の不倫疑惑の真相を親族が知らないはずがないじゃない!」

 「まったくケチよねえ? 少しいい気になって調子に乗っているわよね」

 「そりゃそうよ! だって羽衣ちゃんがいっぱい稼いでくれて。大物俳優にみつがれているんですもの」

 「だけど、そもそも羽衣ちゃん。もうアイドルってとしでもないわよねえ?」

 「きゃはは! 頭が足りないから普通のしょくに就けないだけでしょう?」

 「嫌よねえ! アニメ声でかわいこぶっちゃって」

 「ホントよね! 何がアイドルよ。収入のほとんどは『枕営業』で稼いでいるんじゃないかしら? そこらじゅうに愛想振り撒いて取り入っているんじゃない?」

 「親も親なら子も子よね。だってナナちゃん、中学生で妊娠出産したじゃない」

 「そうそう! 売春して妊娠したって噂でもちきりだったわよね」

 「父親が病気で貧乏だったから身体を売って小遣こづかい稼ぎしてたって、……ねえ?」

 「やだあ! でもきっとそうよ。羽衣ちゃんにもパトロンが大勢おおぜいいたりして?」

 「ありる! だってナナちゃんの娘ですもの」

 「『俳優レンジ』に家でも建ててもらえるんじゃない?」

 「あらあ、良いわねえ! うらやましいわ」

 「それに、病気の父親は障害年金までもらっているんでしょう? 図々しい。いつまで家賃の安い公営住宅に居座いすわるつもりなのかしら?」

 「ほんと目障めざわりよね! とっとと出て行けばいいのにっ!」


 レンジははらわたが煮えくり返る。それと同時に罪悪感が押し寄せた。

 嗚呼ああッ! ナナはいまだにこんな苦労をしているのか。好奇の目にさらされて。馬鹿にされて。見下みくだされて。散々悪口を言われて。

 それなのに我慢して笑って。ぺこぺこ頭を下げている。

 ……ナナは中学生のときにレイプされて望まない妊娠をした。受験もままならず通信制の高校を出て。難病の父親の介護をして。母親とともにパートやアルバイトを掛け持ちして……。誰からの支援えん援護も無い中に羽衣を産み、育ててくれていた。 

 ……その諸悪の根源こそ『俺』にほかならない。なぜ俺を訴えなかった? なぜ俺に金を強請ねだらなかった……?

 

 レンジは全速力で走り出した。目からは演技ではない真正の涙があふれ出ていた。

 『ところさわ神明社しんめいしゃ』に立ち寄って参拝する。合掌する手にも力がこもって、震えていた。

 ナナの幸せを。羽衣の幸せを。ご両親の幸せを……。強く願い、ひたすらに祈った。

 忌まわしい過去の罪過ざいかに。おぞましいおのれの本性に。呆れ返って嫌気がさす。

 ……今後は生き方を改めなければならない。腹の奥底からそう思えた。

 

 ジョギングを終えて愛車に乗り込む。冬でも生暖かい車内で流れ出る汗と涙をタオルでぬぐう。

 とにかく今はしょう監督の映画作品に精一杯に向き合って頑張るしかない。娘の羽衣に恥じぬ俳優でいなければならない。

 心からナナに懺悔ざんげした。贖罪しょくざいしたい。つぐないたい。しかし俺にできることがあるのだろうか?  

 レンジの心は沈み込んで苦悶くもんした。

 

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