第十章 ⑤レンジという男(近状)

 レンジの運勢は猛烈な下り坂だ。

 天井知らずだった好感度はドカンと地に落ちた。最近は、人気アイドル羽衣ういと不倫関係だと噂され、週刊誌やワイドショー、ネットニュースを連日騒がせている。今ではすっかり非難の標的まとになっていた。

 レンジは嘆く。

 ……なぜか歯車が噛み合わない。なぜか何もかも、うまくいかない。

 

 市川市・相之川あいのかわ

 しょう南行徳みなみぎょうとく駅近くの中層マンションでひとり暮らしをしている。1SLDKの部屋はシンプルモダンの落ち着いた雰囲気だ。全体的にモノトーンでまとめられ、調度品のひとつひとつに『こだわり』がある。部屋の隅々すみずみまで掃除が行き届き、大量にある書籍や書類もキッチリ分類せい整頓とんされている。

 輝章が脚本を書くときの集中力は凄まじい。プロ意識からか、妥協できない性質が垣間かいま見える。あらゆる面にいてこだわりが強過ぎるため、許容範囲は若干じゃっかん狭い。基本的にプライベート空間には他人を寄せ付けない。個人主義の性分しょうぶんゆえに、パーソナルスペースを侵されたくないのだ。

 

 しょうは物思いにふける。

 コン太(いろ九頭くず龍神在あるろう)の指示に従って、レンジ主演映画の脚本を書き上げた。台本を制作しながら、読み返しながら、込み上げてくる怒りを押しとどめることができなかった。

 レンジは芸歴四十年の一流俳優である。以前から事務所を通して、幾度となく出演打診がきていた。新人脚本家の作品にも関わらず『是非とも出演させてくれ、端役はしやくでも構わないから……』などと言ってくる謙虚さには好印象を抱いていた。打診を断っていたのは自身の作品には新人や無名俳優を起用するという『ポリシー(方針)』によるものであり、レンジに対する不満や不信があったわけではなかった。

 しかしコン太を通して彼の本質を知ってしまった。今では、すべてを悪い方向に解釈してしまう。

 彼は自利じりのためならば手段を選ばない厚かましい男なのか? 甘い蜜を吸い取って限界まで搾取さくしゅする意地汚い男なのか? 思いやりやの心が微塵みじんもない性根しょうねの腐った卑劣な男なのか……?

 

 秋の夜半過ぎ。輝章の自宅マンションには珍しく『来客』が訪れていた。その来客の男は、きたてれたてのコーヒーを楽しんでいる。

 「うーん、良い香りだねえ! さすがインスタントとは違うねえ! おいしいねえ! デロンギのコーヒーメーカーだっけ?」

 「はい。デロンギのコーヒーマシンで豆からきました。バランスにこだわって清涼感のある後口にしました。気に入っていただけて良かったです」

 来客はコーヒーを一気に飲み干した。

 「ぷはぁっ! あっ、そういえば輝章くん! おいらの『お願い』を聞いてくれて、どーもありがとうねえ? バッチリだったよ」

 「いっ、いえっ! ……ですが『アノ話』は事実なのですか?」

 「うん、そうだよ! 残念ながら事実なんだよ。……信じられないよねえ? うそみたいだよねえ? 最低の最悪だよねえ……? だからつまりさ、これからが『本番』ってわけ! ってことで、引き続きおいらに協力してくれるよねえ?」

 輝章は浅くうなずいた。

 「実はおいらさあ、ものすごーく! 怒っているんだ。そりゃあもう、ものすごーく……! 輝章くんも、おんなじ、……だよねえ?」

 「……はい」

 輝章は深くうべなった。

 

 コン太はニヤリ、口角を上げる。

「じゃっ、そろそろボチボチ、はじめよっか!」

「はいっ…………!」

 いろ九頭くず龍神在あるろうは、輝章と握手を交わした。

 不敵な笑みを浮かべていた。

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