第八章 ③爺と凛花(別れ)

 爺は大粒の涙を落とす。凛花の手をぎゅうっと握る。

 「凛花だけが怖い思いをして。凛花だけが痛い思いをして。辛い記憶と癒えない傷を負った。心と体に深い傷を残してしまった。

 怖かっただろう……。痛かっただろう……。助けてやれずにすまなかった。ごめんなぁ、ごめんなぁ…………」

 爺は滝のように涙を流して詫びた。

 

 凛花は痩せ細った爺のてのひらを包み込んだ。

 「爺! 私は生まれたときからずっと幸せだった。とても大切に育ててもらった。いっぱい心配かけたよね。だけど爺も。父さんも母さんも。誰も悪くない! 私はこの家族に生まれることができて良かったって。いつだって思っているの」

 「凛花……」

 「子供のころ縁側で。爺が『ゲーテ』を読み聞かせてくれたでしょう? だから優しい人になりたいって思えたんだよ!」

 「そうかあ……」爺から流れ出る涙をぬぐって凛花は続ける。

 「爺は口癖のように言っていたよね。

 宇和島城は浅瀬の海に見せかけの守りをたのんでいるだけで心許こころもとない。アーネストサトウが見出したように砲台の防御力は見せかけだ。ならば闘牛のほうがよっぽど強いって……」

 爺は頷く。

 「爺はあの日に私を守れなかったことを悔やんでいたんだよね? ずっと苦しんでいたんだよね? 心配かけてごめんね。ごめんなさい。だけど安心して。私ね、今すごく幸せなの。これからもいっぱい人に優しくするし元気に生きていく。だからお願い。もう自分を責めないで。もう悔やまなくて大丈夫だから……」

 爺は何度も頷く。

 「ずっとずっと。大切に見守ってくれて。ありがとう……」

 涙する凛花に爺もまた泣いた。


 凛花の実家の空の上。

 空上静止していた真珠ノアが飛び立った。ラストラリー(中治り)の時間が終わったのだ。

 

 引き戸の玄関が開く。往診の医師と訪問看護師が到着した。

 爺はしゃがれたかすれ声を出す。最後の力を振り絞って別れの言葉を告げる。

 「優しい心のままに育ってくれて、ありがとう……。生きていてくれて。……あり、が、とう……」

 「じいっ、じいっ……! うううっ。じいっ! じいのみかんが一番だから! ずうっと! 大好きだからあぁ……!」

 「泣くなあ。……凛花や。笑って、おくれ」

 凛花は泣きじゃくりながら笑って見せた。

 「そうだ。そうだ。それでいい。かわいいなあ……」

爺は静かに目をつむる。

 浅い呼吸が無音になって止まる。脈打っていた心臓の鼓動が止まる。

 ようやく晴れた心になったのだろう。穏やかな表情だ。まるで眠っているかのようだ。

 

 爺は若くして病に逝った最愛のばあの待つ場所へと旅立った。

 安らかな心で旅立ったのだった。

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