第八章 ②爺と凛花(告白)

 凛花の実家。

 爺はしばし無言のまま天井を見つめていた。そうして。意を決したように語り始めた。

 

 ……十五年前の『あの日』は月曜だった。早生わせのみかんが収穫のころ合いだった。冬の始まりの肌寒さと秋の爽やかさが混じったよく晴れた日だった。

 凛花は朝からみかん畑を駆け回って無邪気に遊んでいた。通っていた幼稚園は土曜参観のあとの振替休みだった。

 

 あの日はいつもと違った。それは民放テレビ局の撮影部隊が昼過ぎから訪れる約束になっていたことだった。

 人気俳優が宇和島の篤農家のみかん畑に立ち寄って収穫を手伝うシーンを撮影するのだという。

 心なしか空気が浮足立っていた。

 

 午前の作業に区切りをつけて昼休憩になった。雇っているアルバイトたちと一緒に昼飯を食べ始めた。

 すると凛花が母親に叱られている。どうやら朝から好物のみかんをつまみ食いして食べ過ぎてしまったらしい。お腹が一杯で昼ご飯が食べられないというのだ。

 凛花は珍しく少しへそを曲げていた。プクリと頬をふくらませた。むうっと口をとがらせて。みかん山に走って行ってしまった。

 

 程なくしてロケ車が到着した。撮影機材を載せたハイエース。スタッフが乗ったワゴン車数台が農園のわき道に停まる。

 ディレクターを名乗る男性から名刺を渡されて丁寧ていねいに挨拶をされた。

 機材を運び出し撮影準備が始まる。

 テレビ撮影の噂を聞きつけた野次馬たちがちらほらと集まってきた。近くの畑を所有する母娘は撮影に来る俳優の大ファンなのだと興奮しきりだった。

 

 天気が急変した。

 晴れていた青空に雷鳴が轟いて黒雲がわき出した。冷たい雨が降り始めるとスタッフの一人が血相を変えてディレクターに駆け寄った。何やら耳打ちをしている。

 血の気が引いた様子のディレクターが大声で叫ぶ。

 「撮影中止! 撤収てっしゅう! 撤収、撤収っ!」

 青ざめたディレクターがメガホンを使ってさらに叫ぶ。

 「早くしろ! 早く! 中止だと言っているだろう! すぐに撤収だっ!」

 ただならぬ様子だった。

 スタッフたちは慌ただしく機材を畳んでワゴン車に乱雑に押し込んだ。無言のまま車に乗り込んだ。そうしてそのまま忙しげに走り去ってしまった。

 

 ……なぜ突然に撮影が中止になったのか? 

 

 野次馬たちは急変して荒れた天気のせいなのかと勘繰り合う。人気俳優に会えなかったのが残念だと嘆く。ぶつくさ不満を口にしながら帰って行った。

 それにしても。ひと言の挨拶も無い。中止の理由の説明すらない。ディレクターやスタッフたちは脇目も振らずに逃げるように走り去った。撮影部隊の無作法な対応に呆れ返った。

 

 冷たい雨が降っている。

 凛花が風邪をひかないように早く家に連れて帰らなければ。

 「凛花、凛花や」

 みかん畑で名前を呼んだ。だが返事がない。何だか胸騒ぎがする。何度もわめき呼ぶ。

 「凛花、早く出てこい。爺が母さんに怒るなと言ってやるから。凛花!」

 いつもの遊び場のみかん畑を探すが気配がない。

 「凛花、どこだ! 風邪ひくぞ! 早く帰ろう。凛花!」

 まさか、と思いながら。傾斜が激しいから行ってはいけないと。危ないから行ってはダメだと。念を押してある頂上付近の畑まで足を延ばした。

 

 足がすくんだ。

 

 幼い子供が血塗ちまみれで地面に転がっているのだ。

 雨に濡れて。土がついて。汚れていて。

 まるでボロ人形が捨て置かれているかのようだった。

 死んでいるようかのようだった。

 

 震えながら近づく。

 下着が脱がされている。下半身から大量出血している。洋服には血が染み込んで真っ赤に染まっている。

 まぶたが揺れる。生きている。

 しかし意識が朦朧もうろうとしているのだろうか。しきりに「龍が……、龍が……」とつぶやいている。

 ……イノシシに襲われたのか? いや、違う!

 「りっ……! 凛花アアアッ!」

 

 血まみれの凛花を恐る恐る抱き上げる。呼吸が浅い。ぐったりと脱力している。

 落とさないように坂道を駆け降りる。しかしひざ諤々がくがくして力が入らない。腕の震えが止まらない。涙がにじんできて視界がかすむ。

 ようやく家の前に着く。

 両親は血に染まった我が子の姿を目にして顔面蒼白だ。

 緊急通報した。だが一刻を争うことは明らかだった。救急車の到着を待ってなどいられない。自家用車に乗せると病院に駆け込んだ。

 母親が泣き叫ぶ。

 「お願いです! 助けてください! お願い……、お願いです……! 助けてえええっ……」

 命は助かった。

 しかし小さな体の内部はだいぶ壊されてしまっていた。

 

 数日後。

 凛花を襲った男の代理人を名乗る人物が高そうなスーツをまとい訪ねてきた。札束を積み上げて高額な口止め料を支払うと言う。

 「お子さんの将来を思うのであれば示談に応じるのが得策です。騒ぎ立ててもお子さんが傷つくだけですよ。人気俳優にレイプされたとなればマスコミが騒ぎ立てるのは間違いないでしょう。そもそも御家族の監督不行き届きでもありますよねえ?」

 被害者をおもんばかる様子はない。謝罪の言葉のひとつさえもない。

 代理人の男はせせら笑う。薄笑いを浮かべたまま一方的にまくしたてる。さっさと金を受け取れと言う。成金が好みそうな金色の腕時計を巻いた腕からは札束が差し出された。

 ……この無神経な代理人に何を言っても通じない。

 示談に応じた。

 しかしきたならしい金は受け取らなかった。

 

 あの時の判断は間違っていなかったと今でも後悔はしていない。

 だが凛花をけがした男は何ひとつ失うことがなかった。失うどころか。もてはやされて華やかな人生を歩んでいた。

 神も仏もいないのか。

 男は今でもノウノウと生きている。スポットライトを浴びて。チヤホヤされて。称賛の中で生きている。

 あの男は今は四十代半ばだろう。子役から活躍しているから芸歴は長い。数々の俳優賞を受賞している実力派俳優だ。

 有名女優サユミの夫であり。世間からの好感度が高い。


 十五年前の忌まわしいあの日。

 凛花をはずかしめた男は。凛花の身体を破壊した男は。みかん畑でのレイプ犯の名は……。

 

 大物俳優『レンジ』だ。

 

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