第三章 ③赤煉瓦ベル

 幼少期の忌まわしい出来事によって、凛花の身体は『五体満足』とはいえない。女性としての身体機能は完全に破壊されてしまっている。思春期のころの凛花は、自分のことを『産業廃棄物』のようだと卑下ひげした。けがれた身体を心底嫌悪した。

 ……役立たずの身体への嫌忌けんきは心をすさませた。すべての男性がけがらわしく見えた。不浄な怪物に見えた。もてあそばれて、喰われて、心までむしばまれる……、そんな感覚にさいなまれた。

 一見、穏やかな日常でも、不意に不快感と恐怖心が襲ってくる。それと同時に非難と怒りの感情に支配される。

 もうこの世から消えてしまいたい。自分が存在していた痕跡すべてが灰になればいい……、そう思っていた。


 だけど今、凛花は幸せだった。ノアとの暮らしはなごやかだ。

 ……今住んでいるような煉瓦造りの建物にはシンパシーを感じてしまう。土からできた煉瓦は耐久性や耐火性に優れている。塗装せずとも上質な外観を具える。住んでいて快適だ。古くなるほどに味わいを増す。砕けば土に還るというサスティナブルな性質だ。

 だけどむなしいことに、解体されれば産業廃棄物として処分される。『無害』であるのに『有害物』として扱われる。それこそが、自分の境涯とどこか重なって類似しているように感じられるのだ。


 大学ではコンピュータサイエンスを学んでいる。サークル活動はしていない。

 アルバイトは在宅でのプログラミング作業だ。Unityを使ったARアプリケーション開発業務は面白い。さらにはなかなかの高時給だ。だから最近は仕送りなしで生活できるようになった。

 龍使いは人間と深い関わりを持つことが許されない。だから在宅ワークは有難い。


 本来、凛花は人懐こい性格である。しかし親しい友人はいない。宇和島の家族のほかに心を許せる人間はひとりもいない。

 しかしそれは『龍使い』にとって当然の日常であるともいえる。もしかすると、龍使いの使命をまっとうすることは『孤独』を感じるものなのかも知れない。

 だけど凛花は、少しも寂しいと感じることがなかった。

 ……ノアがいる。大好きなノアがいる! 心に念じれば親友のノアがすぐに飛んで来てくれる。スーパーの特売品を買い過ぎてしまったときも、男性に後をつけられて戸惑っているときも、突然の通り雨に困った時も……。ふとすると、隣にノアが現れる。そっと寄り添って、さり気なくかたわらにいてくれる……。

 凛花にとって真珠色龍神ノアとの生活は無二むになる宝だ。赤煉瓦ベルでは、ふたりの穏やかな『暮らし』が重ねられている。

 そしてかなり頻繁ひんぱんに、ノアの恋人『コン太』が遊びに来る。そして三人で食事を楽しむ。お喋りコン太の独演会は小気味良いアクセントになっている。にぎやかで楽しい時間だ。

 宇和島の家族との『深い絆』と同様に、龍神との間にも『特別な絆』が芽生えていた。もうひとつ大切な家族が増えた! 凛花はそんな幸せな心地だった。


 ノアは憂慮ゆうりょする。

 凛花の日常は清貧せいひんだ。他を優先して自己を主張しない。見返りを求めない。

 そもそも龍使いとは対価を得られない。契約者から報酬を得ることもなければ、契約者との再会すら許されない。当然ながら、ひと言の礼すら述べられることがない。究極なの『不採算任務』といえるのだ。

 それでも凛花は『是契約者』が現れると喜ぶ。才能ある人間が『ほまれ』を手にすることをたっとぶ。

 是契約者が起点となって、多くの人々に恵みを分け与え恩沢を供することができる、そのことわりを知っているからだ。

 これほどまでにさとくて優れた人間性の持ち主は滅多にいない。恐らく龍使いのパワーなど行使しなくとも、おのれの実力のみで大成できたのではないだろうか。しかし凛花は自利を求めない。凄まじく優れた人間性を包み隠している。

 それにしてもあまりに欲が無さすぎる。だからこそうれえてしまう。幼き日の忌まわしい出来事を機に、誰もがほっする小さな楽しみや喜びさえもあきらめてしまっているのではないだろうか? そうとさえ感じる。

 凛花と同居を初めて十日ほど過ぎたとき、赤煉瓦ベルにコン太を初めて招待した。ノアの恋人に会ってみたい! 凛花がそう言い出したからだ。 

 不安だった。九頭龍神のような姿におびえて怖がらせてしまうのではないか。コン太の漆黒しっこくいろ龍体、龍頭りゅうずが九つある風貌、それはもしかすると人間にとって『ホラー』なのかもしれない……。

 だけど、そんな懸念けねん杞憂きゆうに終わった。呂色九頭龍神在あるろうの姿を見た瞬間、凛花はキラキラと瞳を輝かせた。屈託ない笑顔を見せた。物怖じすることなく光沢ある漆黒の龍体に近づいて抱きしめた。それから九つある龍頭を順にでた。目を細めて「かわいい……」とつぶやいた。

 コン太は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。そうして照れながら無邪気に笑った。

「凛花、今日からおいらと友達だ。だからコン太って呼んでくれ! ノアと共々ともども、よろしくねえ!」

 コン太は、ジキルとハイドをでいくような残虐性ざんぎゃくせいひそませている。龍神界に於いて、気性が荒く怒らすと危険『取扱注意』と噂の最恐龍神だ。凛花はその呂色九頭龍神在狼をあっという間に、いともたやすく懐柔かいじゅうした。

 龍神は瞳を照覧することで人間の心が読める。だからびへつらいは通用しない。龍神がなつくということは、龍使いの敬意や真心が『本物』であるというあかしなのだ。

 ……もしかしたら凛花は、相当な潜在能力を有した龍使いなのかも知れない。


 いつの間にか、ノアの喜びは凛花の笑顔を見ることになっていた。赤煉瓦ベルでの暮らしはノアにとっても無二むになのだ。

 ノアは凛花というかけがえのない存在がたまらなく愛おしかった。

幸せになってもらいたい、たくさん幸せを感じてもらいたい……。いつだって、そう願っているのだ。

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