第二章 ②是の女性歌手・ツボミ(誉)

 熊野市・鬼ヶ城。

 ノアにいざなわれて。辿り着いた先はあかつきを待つあん東雲しののめの海だった。

 「ここは熊野の鬼ヶ城の浜辺。リアス式海岸の最南端ね。ほまれを与えてくれる至極しごくいろ龍神の住処すみかよ」

 もはやツボミは夢見心地だ。うなずくのがやっとだった。

 

 「こんばんは」

 降ろされた暗がりに突然声をかけられた。ツボミは驚いて飛び上がった。

 立っていたのは表参道のカフェテラスで声をかけてきた『凛花』だった。身体からは瑞光オーラが発せられ菩薩の光背の如くに輝いている。

 「カフェでは驚かせてしまってすみませんでした。お会いできて嬉しいです」

 凛花はにっこり笑って。ぺこりと頭を下げた。再会を予言した言葉の通りに。本当にまた会えたのだ。

 ツボミも慌てて頭を下げた。

 ……凛花さんの自然な笑顔は屈託がなくて好感が持てる。龍使いとはいえども特別な神力じんりきが働いている感慨かんがいはない。何と言うか。普通の女性だ。だけど大らかな温かさが漂っている。

 汚い心が綺麗な何かに包み込まれて和らいでいく。いつの間にか。胸中に居座っていた苛立いらだちやささくれが消え去っていた。

 それよりも。これから招来しょうらいされるであろう未知なる奇跡の予感に胸がおどる。ゾクゾクして身震いした。

 

 水平線をあきらかにする空の色は日の出の刻を示す。

 「時間よ」

 ノアがときを告げた。その瞬間に。海を赤々と照らす太陽が東天に昇る。

 まばゆい朝陽を背にして。優雅に飛翔する至極しごくいろ龍神の姿を確かに目撃した。

 この瞬間。ツボミは造形無き『ほまれ』を手中にしたのだった。

 

 凛花が告げる。

 「たくさんの人があなたの歌声を求めています。インスピレーションを信じてください。あなたが愛する音楽をびることなく自信をもって発信していってください。

 日本を飛び越えた世界でも。求められるところすみずみまでも。美しい歌声が響き渡りますように。そう密やかに願っています。

 もう二度と会うことはできないけれど。ツボミさんの輝く未來を応援しています」

 龍使い凛花の優しい声と励ましの言葉が心耳しんじに響いた。

 

 ふとまばたきをして。ハッと気がついた。

 なか六郷ろくごうの木造アパートの部屋に戻ってきている。ツボミは混乱しつつも冷静だ。

 ……あのリアルな出来事が夢であるはずがない。私は龍神と契約を交わしたのだ!

 未來は誰にもわからない。それでも。私の未來は輝いている! そう確信できている。

 だけど。凛花さんとはもう二度と会えない。きちんと感謝の言葉を伝えたかった。友達になりたかった……。

 落莫らくばくとした孤独感がツボミに襲いかかってきた。

 しかしそれと同時に。無数の音符が空から降り注いできたのだった。

 

 ストリーミング再生・一億回超え!

 アーティスト・ツボミが二十五歳の誕生日にアップした楽曲は斬新ざんしんだった。世代幅を越えて瞬く間に拡散された。共感できる歌詞。透き通る歌声がちまた席巻せっけんした。

 派手にバズったコンポジションが契機となって。大手音楽事務所との専属マネジメント契約に繋がった。

 ツボミはミリオンセラーのヒット曲を連発させる。怒涛どとうごとく超一流歌手への道を駆けがった。

 

 アーティスト・ツボミの最新曲は『R・アール』。人気連続ドラマの主題歌だ。

 ツボミの記事が音楽雑誌に掲載されていた。

 【『R・アール』は。私のかけがえのない恩人に捧げるつもりで制作した一曲です。

 家族や友人や恋人など。大切な人と過ごす日常があることは当たり前ではありません。分かち合う時間があることは当たり前ではありません。もしかしたらそれは。一期一会いちごいちえの至極の時間ときなのかも知れません。はかなくて尊い一瞬なのかもしれません。

 時間には限りがあります。だからこそ。感謝の言葉を率直に伝えてください。敬慕の心を照れずに伝えてください。

 状況によっては。大切な人はいるけれど二度と会うことが叶わない。そんな方々もられるかもしれません。

 それでも心は繋がっている! そう信じることで頑張り続けることができます。

 だから私は。空を見上げて感謝の言葉を伝えています。

 いつもありがとう。あなたに会えて良かった。ありがとうございます!】

  

 空前の大ヒットとなった『R・アール』はいくつもの記録を塗り変えていく。音楽業界に新たな歴史を刻んでいく。

 大切な人への感謝と敬慕けいぼが綴られた名曲として。この先の未來まで。末永く愛されていくことだろう。

 

 所沢市。

 赤煉瓦ベルの一室では。凛花が鼻歌まじりに料理をしていた。

 口ずさむその曲は。アーティスト・ツボミの名曲『R・アール』だった。

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