第二章 ①是の女性歌手・ツボミ(契約)

 大田区・なか六郷ろくごう

 ようやく最終まで残ることができたオーディションに落選した。アップした動画を見返してみる。再生数もコメントも高評価も増えていない。中には応援を続けてくれているファンもいなくはない。だけどそれだけでは生活できない。

 ツボミは歌手への夢を諦めるしかないと観念していた。


 幼少のころから音楽が好きだった。歌うことが大好きだった。作詞作曲やリミックスも始めて歌手になる夢を叶えるためだけに研鑽けんさんを続けてきた。

 裕福ではないのに両親は援助を続けてくれていた。そんな両親と相談して、夢への期限は決めてあった。それは二十五歳の誕生日まで……。それまでに芽が出なければ帰郷して就職するという約束だ。

 ……二十五歳の誕生日、このデッドラインがいよいよと明日に迫っていた。

 ここ数年は足搔きに足掻いた。ピアニカに合わせてコミカルに歌ってみたり、髪を奇抜なオレンジ色に染めてみたり、童謡をポップにアレンジしてれてみたり……、とにかく状況を打破しようと必死だった。

 その結果、痛々しいまでに空回りした。滑稽こっけいだ、ダサい、変なの……、失笑され馬鹿にされて終わった。だけどそれでも。諦めたくなかった。夢を叶えたかった。

 だけどついに、残されたリミットは明日までになってしまった。幼いころから思い描いていた歌手への夢は。もうすぐゲームオーバーになる。


 表参道・アニヴェルセルカフェ。

 奮発ふんぱつしてコース料理を注文した。一日早い自分への誕生祝いをする。帰郷したらお気に入りのこのカフェに来ることもなくなる。そう思うと少し切ない。デザートまで平らげてお腹いっぱいだ。 

 胃袋は幸福に満たされた。けれど、叶わなかった夢への悔しさと名残惜しさで心が痛い。

 ツボミはテラス席に腰掛けたまま、肘をついて漠然ばくぜんと考え込んでいた。

 ……今の今まで音楽のほかに興味を持つことがなかった。音楽のためだけにひたすら研鑽けんさんを重ねてきた。だけど裏を返せば、他のことには何の努力もしてこなかった。

 こんな自分にできる安易で無難な仕事などあるのだろうか? 雇ってくれる職場など存在するのだろうか……?


 定まらない未來のように、ツボミの視線は往来する人波をさまよう。

 不意に目の端がまばゆい光に射られた。それは光のオーラに包まれている若い女性だった。

 その女性は小柄で可愛らしい。二十歳そこそこくらいに見えた。その身体からは五色の『瑞光ずいこうオーラ』が放たれている。それはまるで菩薩ぼさつ光背こうはいのようだ。崇高な輝きに思わず目を奪われる。まばたきするのを忘れて見惚みとれてしまった。

 ふと視線が合わさった。するとその女性はテラス席に向かって軽やかに歩いてくる。そしてツボミの目の前でピタリ、立ち止まった。人懐こい笑顔を見せた。

「こんにちは。私はりんといいます。また後でお会いしましょう」

 そう言い置いて、その女性は風のように立ち去ってしまった。

 ……? ツボミは頭が真っ白だ。しばらく思考が停止した。

 ハッとして我に返った。そして慌てて立ち上がる。くるりと辺りを見回した。もうすでに『凛花』と名乗った女性の姿はどこにも見当たらなかった。雑踏ざっとうまぎれてしまったのか、五色の光の残像さえも皆無だった。


 雑色駅ぞうしきえきを下車して木造ワンルームの自宅アパートに帰宅した。

 ツボミの心はすさんでいた。イラつく感情を持て余してベッドにダイブした。

 ……また後で、って? 一体何なの? 連絡先すら交換していない初対面の人間がどうやって再会するっていうの? 人の渦巻く東京で叶うはずがない。用事があるのならあの場で言えばよかったのに! 『凛花さん』はどうやら頭が悪いらしい。

 悔し涙がにじむ。夢が破れた絶望、未來への不安、それだけでキャパシティー越えだった。それなのに! 苛立ちと腹立たしさまで加わった。 

 枕もとのクッションを握りしめる。八つ当たりのように壁めがけて思い切り投げつけた。


 ぐらり……、不自然に空気が揺れた。するり、部屋の壁をすり抜けて何やら光る物体が侵入してきた。ツボミは金縛りにあったように固まった。

 六畳間の片隅に、スラリとした長身女性が立っていた。さらさらの長い髪、陶磁器のような白い肌、切れ長の瞳、小さな紅い唇……。完璧な造形美を有した女性がたたずんでいる。

 この世のものとは思えないほどの見目みめうるわしい姿に見惚みとれてしまう。もはや不可思議なる現象への恐怖を通り越して神々こうごうしいとさえ感じた。


 色白美女が微笑んだ。

「私は真珠色龍神ノア。あなたには龍使いの『瑞光ずいこうオーラ』が見えたのね?」

 ツボミは混乱しながらも必死に返答する。

「龍使いって? あの? 表参道のカフェテラスで『凛花』と名乗った女性のことですか?」

「ふふ。ツボミさん、おめでとう! あなたは龍神と『契約』を交わす権利を得たわ。凛花は龍使いなの。背は小さいけれど大人なのよ。おかっぱ頭が可愛いでしょう?」

 ノアは戸惑うツボミの目の前に『契約書』を差し出した。

「今すぐこの契約書を読んで、サインするかどうか決めて」


契約書』

 第一条(定義)

 契約は後述するすべての条件を満たした対象者と龍神界の契約である。運勢リズムが最大値となった『人間』に本契約の権利が与えられる。


 第二条(適用範囲)

 〇運勢リズムが最大値に到達した者であること。グラビリズム(幸運引力)、もしくはモアレリズム(影響力)。

 〇龍使いから発せられる瑞光ずいこうオーラを目撃した者であること。

 〇是契約を成立させ、『ほまれ』を授けられた者であること。

 そのすべての成就者に限り、是の効力が適用される。


 第三条(締結ていけつ)

 契約は『真珠しんじゅいろ龍神』が仲介する。日の出の刻に『至極しごくいろ龍神』から『ほまれ』を授かる。


 第四条(効力)

 才能開花して成功者となる。さらに『黄金おうごん龍王』によって運勢リズムは最大値を保つ。よってほまれ状態は持続する。


 第五条(守秘義務)

 本契約内容を他人に伝達してはならない。


 第六条(不接触・無欲)

 契約後、是契約者は龍使いの身体に触れてはならない。

 龍使いとの再会を求めてはならない。


 第七条(不履行・処罰)

 契約不履行者はが『いな』に転じてエラーとなる。本契約は即刻解除する。

 否に転じたエラー人間は『いろ九頭くず龍神』によって制裁処罰がくだされる。

 ◆契約者氏名 


 ノアは告げる。

「ツボミさんは今『モアレリズム』状態なの。この契約書にサインをすれば『ほまれ』を手中にできる。念願だった歌手デビューの夢が叶うわよ?」

 ツボミは契約書に目を通す。ノアの言葉を心得た。

 ……夢の期限が明日に迫っていた。焦燥しょうそうむなしさに胸が押しつぶされてしまいそうだった。目指し続けた歌手への夢を諦めることがこれほどつらいとは思わなかった。不完全燃焼のまま夢を終わらせて『永遠の後悔』をしたくない。ほんのわずかでも可能性があるのなら賭けてみたい。そもそも失うものなどない。恐れるものもない。私はまだまだ頑張りたい。もっともっと限界まで藻掻いて、足掻きたい!


 ツボミの決意は固まった。一片いっぺんの迷いすらなかった。深く頭を下げる。

契約書のすべてに同意いたします。お願いします!」

 ノアはうなずく。

「これはあま岩戸いわとの名水で創られた『オーロラペン』よ? つかんで、サインしてちょうだい」

 ノアから手渡されたのは、オーロラ曲線がかたどられた無色透明のペンだった。

 ツボミはオーロラペンを右手に掴んだ。固くはなくて、少し冷たい。掴んだ瞬間、掌中しょうちゅうから五色の光が発せられた。

 スラスラ、『契約書』に自分の氏名を書きしるす。……サインした感激を忘れたくない。だけどそれなのに、ペンはたちまち指の間からすり抜けて、こぼれて消えた。オーロラペンはまぼろしのように霧消むしょうした。


 ノアは龍神の姿に変化へんげした。

「さあ私の背中に乗って? これから龍使いが待つ鬼が城に向かうわよ。そこで貴女はちょうようを背に飛翔する『至極しごくいろ龍神』の姿を目撃するの。その瞬間に『ほまれ』を手中にすることができるわ」

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