第31話 ルッカの町の祭り
馬をルッカの町の外周にある預け場に預け、2人は早速町に入った。町全体が祭りという感じではなかったが、遠くには賑やかな音が聞こえる。
「あっ、ヒース様、こんにちは」
「ヒース様、こんにちは!」
人々に声をかけられ、ヒースは片手をあげて返す。
(まあ、まあ、以前も思ったけれど、ヒース様はとてもみなさんに慕われていらっしゃるのね。良いことだわ……)
うふふ、とナターリエはつい声をあげてしまい、ヒースに「なんだ?」と尋ねられる。
「あっ、いえ、いえ、なんでもありません」
「そうか?」
「はい」
ナターリエは「気をつけよう」と思いながら、背筋を伸ばした。
(折角のお祭りですから、昨日のことは忘れて楽しみましょう……ええっと、ヒース様からの、その……あれも……忘れて……)
第二王子との婚約のことはともかく、そちらを忘れるのは少し難しそうだ、とナターリエは思う。ちらりとヒースを見れば、彼はいつも通りに見え、まるでプロポーズをしたことを忘れているのではないかと思えてしまう。
「ヒース様、お疲れ様です」
道行く兵士2人が頭を下げる。
「おう。巡回か? ご苦労だな」
「はい。町の中央部に人が集まっていますので、勿論そちらにも多く派遣されておりますが、人が少なくなっているエリアにも巡回を増やしています」
「ああ、そうだな。大変だと思うが、頼むぞ」
「はっ」
ヒースはそう言って歩きつつ「なんか悪い気がしてくるんだよなぁ」と苦笑いを浮かべる。
「まあ、姉貴からチケットもらったから、その分は遊んで帰るか」
「そうですね。ああ、賑やかな声がここまで届いていますね。何があるのかしら……?」
やがて、人々が集まる祭りの中心部に2人は出た。予想以上の喧噪に驚く。
「まあ、まあ、人が沢山集まっているわ!」
「凄いな。この町、こんなに人がいるのか」
これにはヒースも予想外だったようで、声をあげる。
町の中心にある広場には露店が集まり、道行く人の活気もある。こういう日は浮ついてしまうが、町を巡回する兵士たちの数は多い。きっと、関所も国境の詰所も、祭りの間は人が多いに違いない。
「ヒース様、あれは何ですか?」
「うん? ああ、あれは、肉を詰めたパイだな。この辺ではよく食べるが……」
「そうなのですね」
「……食べるか?」
「はい! はい!」
二度返事をするナターリエ。露店に並んでいるパイは手でそのまま食べられるように紙で包まれている。ヒースがチケットを2枚使って2個買い、ナターリエに渡す。
「わあぁぁぁ」
ナターリエは両手でパイを持って、じいっと見つめる。
「凄いです。こんな風に、買い食い……と言うんでしょうか? それをすることは初めてです……!」
「そうか。ハーバー領ではこういう祭りはないのか」
「いえ、ありますが、買って食べるということはなかったです。これは、えっと、食べながら歩く……?」
「それも悪くないが、あそこが空いている。座ろう」
ヒースは広場の噴水を指さした。普段は子供たちがその辺りでわいわいと遊んでいるが、今日はみな露店を覗いているのか、噴水の台座が空いていた。
「あっ、ヒース様」
噴水近くに座っていた男性がヒースに挨拶をして、場所を空ける。どうも、ヒースはこの町の誰からも声をかけられてしまうようだ。ナターリエは「わたしが一緒にいると、お困りかしら」となんとなく不安になる。
「ヒース様だ!」
「こんにちは! ヒース様!」
ヒースは走る子供たちに手をあげてから、噴水の台座の淵に腰を下ろす。
「ふふふ」
「なんだ?」
「ヒース様は、人気があるんですね」
「人気? 顔が知られているだけだ……食べるといい」
「はい。えーーっと……では、いただきますね」
手にしたパイの角を、ぱくりと食べるナターリエ。作りたてだったのか、まだ温かい。じゅわっと中に詰められている肉を噛むと、肉汁が溢れる。
「に、肉、が、案外かたまり、ですねっ?」
「うん? そうだが……あっ、あれか。細かくしたものを想像していたのか」
「は、はいっ……」
ミートパイのようなものだと思っていたのに、とナターリエが言えば、ヒースは笑う。肉を加工した時に出た切れ端を使ってそのまま煮込むので、大きい塊がたまに混じっているし、小さいのもそう小さすぎないのだと言う。要するに、触感も何もかも、個体差があるのだと言う。
「塊肉が食べたいやつは、重さを手で測って買うが、重たいからと言って塊肉というわけでもないんだよなぁ」
そう言ってヒースもパイにかじりつく。しゃくっという音が耳に響いて、ナターリエは隣に座るヒースを見る。
(本当にヒース様って……)
最初にグローレン子爵邸で見た時はそうは思わなかったが、貴族令息らしいのに「らしくない」と思う。
(でも、それはわたしも同じかもしれないわ)
そう思いながらパイを齧る。そうだ。自分だってそうではないか。魔獣に憧れて、魔獣鑑定士になって。伯爵令嬢らしさ、で言えば相当自信がない。王族の一員になるための教養をどうにかこうにか学習をしようと試みたが、どうにもあまり身につかなかったし。
「どうした? 何か、考えている顔をしている」
「いえ、なんでも、ありません」
「……王城のことなら、今日は忘れてくれ。折角の祭りだ」
そう言われて、ナターリエは「あれ?」と思う。王城のこと。いや、それについてはまったく考えていなかった。良い意味で忘れていた、と思う。
「……いえ……それは」
「ん?」
「わ、忘れ、て、いました」
恥ずかしそうにうつむきがちに言う。
「そうか。ならいいんだが……」
「ヒース様を、貴族令息らしくないと思って、見ていました」
「んんっ!?」
そう言ってヒースは咳き込む。
「大丈夫ですか!?」
「ふあっ……! あ、ああ、大丈夫だ。はは。いや、言われれば確かにその通りなのだが……ははは、すまないな」
「いいえ。その、わたしも……そこまで、貴族令嬢らしくないので……」
買い食いはしたことはなかった。それは、伯爵令嬢らしいと言えばらしい。なので、少しだけ言葉が淀むナターリエ。
「いやいや。まあ、そうなんだよな」
「え?」
「リューカーンも言っていたが、リントナー家はもともと猟師の家系でな」
そう言いながらパイを食べ終えたヒースは、指についている油をハンカチで拭く。
「王城にもそうそう行かないし、まあ言っても田舎の騎士ということで大目に見てもらっているが……なかなか、貴族らしさがないんだよな。姉貴をみてもわかるだろう?」
「は、はい……」
それは確かにそうだと小さい声で賛同をするナターリエ。
「俺も姉貴も、お袋を亡くしたのが結構小さい頃でな。母上が嫁いで来るまでの間、結構やさぐれていて……そんな俺達を、今のように適材適所で働けるようにしてくれたのが、母上なんだ。魔獣討伐や散策のために別荘を使おうと言い出したのも母上だし、竜舎を建てようと言い出したのも母上だ。親父は、家から俺が出ることに不安があったようだったが、出てみたら逆にうまく回りだしてな」
「まあ。そうだったのですね」
「俺は、そのう、次期辺境伯はブルーノに譲ろうと思っていたし……才覚がどうのという話ではなく、そうした方が、母上がリントナー家にいやすいのではないかと思ったからだ」
ナターリエはパイ食べる手を途中で止めて、じっとヒースを見る。それを「食べながら聞いてくれ」と笑われ、恥ずかしそうにうなずいた。
「だから、誰とも婚約をしなかった。みな、俺をリントナー辺境伯の跡継ぎだと思っているからな。そして、俺もそうではないとは言わなかった。ブルーノに余計な期待を幼い頃からかけたくなかった。それらの説明をするのも面倒だったし、まあ、いっそずっと一人でいるのも良いと肩肘張っていたんだ」
「あ……」
なるほど。ようやく、何故彼に婚約者がいないのかがわかった。ナターリエは「なるほど……」と曖昧に頷く。
「だが、母上は、そんな気遣いは不要だと言ってな。むしろ、俺が辺境伯に向いていると言った。今は、ブルーノは比較的おとなしくて本の虫だが、数字には強い。大きくなれば、多くの書類を扱ってくれるだろうし、良い右腕になるのでは、と親父と話している。とはいえ、俺は、その、やさぐれていた頃があるし、騎士団とは名ばかりで別段誰を守るわけでもないので、こう、ちょっと……以前も言ったが、言葉遣いもいささか荒い。いや、姉貴よりは相当マシだと思っているんだが……」
さすがにそれに「そうですね」と即答は出来ず、ナターリエはパイを食べ終えて指を拭く。
(でも、王城でのヒース様はきちんとなさっていた。きっと、ヒース様も努力をなさっているんだわ)
口端にハンカチを押し当てるナターリエに、ヒースが尋ねる。
「そんなわけで、俺は随分貴族子息らしくないが……嫌いか?」
「いいえ……あっ……」
貴族子息らしくない、ということについて聞かれたのだと思った。あっさりと「いいえ」と答えてしまったが、ヒースはどう思っただろうか。ナターリエの鼓動はばくばくと高鳴ったが、ヒースは軽く笑う。
「それなら、いい。さあ、あっちを見に行こう」
そう言うと、ヒースはナターリエの手をとって立ち上がった。ぐい、と引っ張られて、ナターリエもまた、慌てて立ち上がる。
(手……)
まるで当たり前のように伸ばされた大きな手に包まれる、小さな自分の手。だが、それは決して当たり前ではない。初めてのことだった。どうして彼が自分の手を掴んだのかはわからなかったが、ナターリエは何も言わず、彼の体温を感じて小さく息を吐き出した。
「使いきれないなぁ」
「ふふ、頑張って使いましたが、ここまでですね」
露店を一通り見て、大道芸人の芸も見て。だが、ベラレタにもらったチケットが何枚か余ってしまう。
食事はみな簡単なものはチケット1枚と決まっていたが、他の出店はそうでもなく、チケット1枚で買えるもの、2枚で買えるもの、そしてそれ以外のものになっていた。かといって、わざわざチケットを消費するのに、欲しくもない1枚のもの、2枚のものを購入する気はない。
「まあ、何日かやっているし、余ったやつは最終日までに使えるかもしれん」
「そうですね」
そう言って笑うナターリエだったが、心の中はそうではなかった。つい先ほどまでは、綺麗さっぱり王城のことを忘れて、本当にルッカの町の祭りを堪能していた。ヒースに手を握られて、手を引っ張られて、2人で露店を見て回って。心から楽しく過ごしていたのだ。
だが、未来の話をされれば、一瞬で気持ちがそちらへと動く。何日かやっているから、最終日に。大丈夫だろうか。その日まで、自分はリントナー領にいられるだろうか。得も言われぬ不安が心の中に広がってしまう。
ヒースに手を引かれたままで、ルッカの町を出る。馬の預け場は木々が多く茂る森の中だ。木陰で風が吹けば、木々が揺れる。ああ、自分の体温は何故か高くなっているから、気持ちがいいと思う。
気付けば、ヒースの手の中で自分の手は汗をかいていた。それが突然恥ずかしくなって、そっと彼の手から自分の手を離そうとした。だが、それがうまく出来ない。
「ヒース様……?」
「ずるいことは、わかっている。馬のところに行くまで、許してくれ」
そう言って、ナターリエの手を握る指に力が軽く入る。
「ずるく、ないです……」
「本当に?」
「はい……」
ナターリエも、軽く彼の手を握り返した。ヒースは驚いた表情でナターリエを見る。
「ナターリエ嬢」
「……」
「好きだ」
「……わっ……わたし……」
わたしも。
そう言おうとしたが、ナターリエの喉の奥にそれはつかえて、言葉が出ない。ヒースは、ぐいとナターリエの腕を引いて、彼女の体を抱きしめた。
「好きだ」
「……はい……」
「あなたが、好きだ」
彼の胸の中にすっぽりと収まり、ナターリエの両眼に涙が溢れてくる。言葉に出来ればいいのに。自分も彼が好きだと言えればいいのに。だが、それが出来ない。もどかしさで頭がおかしくなりそうだ、と思う。
ヒースは彼女を抱きしめたまま言葉を続ける。
「明日、一緒に王城に行こう。あなたが俺からのプロポーズを受けいれてくれなくとも、同行することを許してもらえないだろうか」
「は、はい……リューカーンのことをご報告しなければいけませんもの……」
「そうではなくて」
そう言って、ヒースは更に力を入れてナターリエを抱く。ナターリエは「はい」とだけ呟いて、彼の体に腕を絡めた。彼らの間に、それ以上言葉はない。
本当は、ヒースはナターリエからの言葉を欲していた。だが、それを安易に口にしない、彼女がそういう人物であることも彼はわかっている。そして、彼がそれを「わかってくれている」とナターリエは信じていた。
どうしようもなかったのだ。ヒースにプロポーズの返事は出来なかったし、それを「出来ない」とすら言葉にすることが難しい。待っていて欲しいとも言えない。そのどれもが根拠のない、ただの感情的な言葉だ。彼女は、それがわかるぐらいには実は理知的で、そして、正しく貴族令嬢なのだ。
ヒースも、それを急かさなかった。だからこそ、彼の腕の力は入り、彼女を離さない。そして、ナターリエも、また。彼らは、しばらく木々に囲まれた森の中で、何も言わずに抱き合っていた。
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